bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

国公立大学二次試験「文系学部廃止」の衝撃 2017年大阪大学 入試問題を読んで考えた

 

2017年 大阪大学 法・外国語・経済・人間科学部(前期)

『「文系学部廃止」の衝撃』吉見俊哉著

 集英社新書

 

ここで見ることができます。

http://nyushi.nikkei.co.jp/honshi/17/ha1-32p.pdf

  

今回はテキストにしてみました。

ただし、設問の傍線部や漢字問題は除きました。

参考にご覧ください。

 

Ⅱ次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。

 大学の知が「役に立つ」のは、必ずしも国家や産業に対してだけとは限りません。神に対して役立つこと、人に対して役立つこと、そして地球社会の未来に対して役に立つことー。大学の知が向けられるべき宛先にはいくつものレベルの違いがあり、その時々の政権や国家権力、近代的市民社会といった臨界を超えています。
 そしてこの多様性は、時間的なスパンの違いも含んでいます。文系の知にとって、三年、五年ですぐに役に立つことは難しいかもしれません。しかし、三〇年、五〇年の中長期的スパンでならば、工学系よりも人文社会系の知のほうが役に立つ可能性が大です。ですから、「人文社会系の知は役に立たないけれども大切」という議論ではなく、「人文社会系は長期的にとても役に立つから価値がある」という議論が必要ななのです。
 そのためには、「役に立つ」とはどういうことかを深く考えなければなりません。概していえば、「役に立つ」ことには二つの次元があります。一つ目は、目的がすでに設定されていて、その目的を実現するために最も優れた方法を見つけていく目的遂行型です。これは、どちらかというと理系的な知で、文系は苦手です。たとえば、東京と大阪を行き来するために、どのような技術を組み合わせれば最も速く行けるのかを考え、開発されたのが新幹線でした。また最近では、情報工学で、より効率的なビッグデータの処理や言語検索のシステムが開発されています。いずれも目的は所与で、その目的の達成に「役に立つ」成果を挙げます。文系の知にこうした目に見える成果の達成は難しいでしょう。
 しかし、「役に立つ」ことには、実はもう一つの次元があります。たとえば本人はどうしていいかわからないでいるのだけれども、友人や教師の言ってくれた一言によってインスピレーションが生まれ、厄介だと思っていた問題が一挙に解決に向かうようなときがあります。この場合、何が目的か最初はわかっていないのですが、その友人や教師の一言が、向かうべき方向、いわば目的や価値の軸を発見させてくれるのです。このようにして、「役に立つ」ための価値や目的自体を創造することを価値創造型と呼んでおきたいと思います。これは、役に立つと社会が考える価値軸そのものを再考したり、新たに創造したりする実践です。
文系が「役に立つ」のは、多くの場合、この後者の意味においてです。

 古典的な議論では、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーによる「目的合理的行為」と「価値合理的行為」という区分があります。そこでは、合理性には「目的合理性」と「価値合理性』の二つがある、と言われました。「目的合理性」とは、ある目的に対して最も合理的な手段連鎖が組み立てられていくことであるのに対し、「価値合理性」は、何らかの目的に対してというよりも、それ自体で価値を持つような活動です。
 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じたことは、ブロテスタンティズムの倫理は価値合理的行為であったのだが、その行為の連鎖が結果的にきわめて目的合理的なシステムである資本主義を生み出し、やがてその価値合理性が失われた後も自己転回を続けたという洞察です。そこで強調されたのは、目的合理性が自己完結したシステムは、いつか価値の内実を失って化石化していくのだが、目的合理的な行為自体がその状態を内側から変えていくことはできない、という暗澹たる予言でした。ウェーバーは、そのように空疎になったシステムを突破するのに、価値合理性やカリスマといったシステムへの別の介入の回路を考えようとしていたわけです。
 このウェーバーの今なお見事な古典的洞察に示されるように、目的遂行型の有用性、「役に立つこと」は、与えられた目的や価値がすでに確立されていて、その達成手段を考えるには有効ですが、そのシステムを内側から変えていくことができません。したがって目的や価値軸そのものが変化したとき、一挙に役に立たなくなります。

 つまり、目的遂行型ないしは手段的有用性としての「役に立つ」は、与えられた目的に対してしか役に立つことができません。もし目的や価値の軸そのものが変わってしまったならば、「役に立つ」と思って出した解も、もはや価値がないということになります。そして実際、こうしたことは、長い時間のなかでは必ず起こることなのです。
 価値の軸は、決して不変ではありません。数十年単位で歴史を見れば、当然、価値の尺度が変化してきたのがわかります。たとえば、一九六○年代と現在では、価値軸がすっかり違います。一九六四年の東京オリンピックが催されたころは、より速く、より高く、より強くといった右肩上がりの価値軸が当たり前でしたから、その軸にあった「役に立つ」ことが求められていました。新幹線も首都高速道路も、そのような価値軸からすれば追い求めるべき「未来」でした。超商層ビルから海岸開発まで、成長期の東京はそうした価値を追い求め続けました。ところが二○○○年代以降、私たちは、もう少し違う価値観を持ち始めています。末長く使えるとか、リサイクルできるとか、ゆっくり、愉快に、時間をかけて役に立つことが見直されています。価値の軸が変わってきたのです。

中略

すべてがそうというわけではありませんが、概して理系の学問は、与えられた目的に対して最も「役に立つ」ものを作る、目的遂行型の知であることが多いと思います。そして、そのような手段的有用性においては、文系よりも理系が優れていることが多いのも事実です。しかし、もう一つの価値創造的に「役に立つ」という点ではどうでしょうか。
 目的遂行型の知は、短期的に答えを出すことを求められます。しかし、価値創造的に「役に立つ」ためには、長期的に変化する多元的な価値の尺度を視野に入れる力が必要なのです。ここにおいて文系の知は、短くても二〇年、三〇年、五〇年、場合によっては一〇〇年、一〇〇〇年という、総体的に長い時間的スパンのなかで対象を見極めようとしてきました。これこそが文系の知の最大の特徴だと言えますが、だからこそ、文系の学問には長い時間のなかで価値創造的に「役に立つ」ものを生み出す可能性があるのです。
 また、多元的な価値の尺度があるなかで、その時その時で最適の価値軸に転換していくためには、それぞれの価値軸に対して距離を保ち、批判していくことが必要です。そうでなければ、一つの価値軸にのめり込み、それが新たなものに変わったときにまったく対応できないということになるでしょう。たとえば過去の日本が経験したように、「鬼畜米英」となれば一斉に「鬼畜米英」に、「高度成長」と言えば皆が『高度成長」に向かって走っていくというようなことでは、絶対に新しい価値は生まれません。それどころか、そうやって皆が追求していた目標が時代に合わなくなった際、新たな価値を発見することもできず、どこに向かって舵を切ったらいいか、再び皆でわからなくなってしまうのです。

 価値の尺度が劇的に変化する現代、前提としていたはずの目的が、一瞬でひっくり返ってしまうことは珍しくありません。そうしたなかで、いかに新たな価値の軸をつくり出していくことができるか。あるいは新しい価値が生まれてきたとき、どう評価していくのか。それを考えるには、目的遂行的な知だけでは駄目です。価値の軸を多元的に捉える視座を持った知でないといけない。そしてこれが、主として文系の知なのだと思います。
 なぜならば、新しい価値の軸を生んでいくためには、現存の価値の軸、つまり皆が自明だと思っているものを疑い、反省し、批判を行い、違う価値の軸の可能性を見つける必要があるからです。経済成長や新成長戦略といった自明化している目的と価値を疑い、そういった自明性から飛び出す視点がなければ、新しい創造性は出てきません。ここには文系的な知が絶対に必要ですから、理系的な知は役に立ち、文系的なそれは役に立たないけれども価値があるという議論は間違っていると、私は思います。主に理系的な知は短く役に立つことが多く、文系的な知はむしろ長く役に立つことが多いのです。
(吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』より。出題の都合により一部改変した箇所がある。)

問一傍線部(a)~(e)を漢字に直しなさい。
問二傍線部(1)「二つの次元」について、それぞれを端的に示す言葉を本文中から抜き出しながら、両者の違いを八〇字以内で説明しなさい。
問三傍線部(2)「一つの価値軸にのめり込み、それが新たなものに変わったときにまったく対応できない」と筆者が述べている理由を、八〇字以内で説明しなさい。
問四傍線部(3)「役に立たないけれども価値がある」という議論と、筆者の立場との相違点について、理系の知に対する文系の知の違いに言及しながら二〇〇字以内で説明しなさい。

 

 要約

大学の知「役に立つ」ー国家、産業だけでなく、いくつものレベルがあり、その時々の政権や国家権力、市民社会を超えている
文系の知ー中長期的スパンでなら工学系より役に立つ
「役に立つ」とは
1目的遂行型ー目的が設定されていて、その実現のため方法を見つけるー理系的な知、文系は苦手
2価値創造型ー価値や目的自体を創造するー文系が「役に立つ」
マックス・ウェーバーの例
目的合理性ーある目的に対しもっとも合理的な手段が組み立てられる
価値合理性ーそれ自体で価値を持つ活動
目的遂行型は目的や価値軸が変化したとき、役に立たなくなる
つまり、目的遂行型「役に立つ」は、与えられた目的に対してしか役に立たない
価値軸は不変でない
理系の学問は目的遂行型の知が多いー短期的
価値創造型ー長期的に変化する多元的価値の尺度を視野に入れる力が必要ー文系の知ー長い時間的スパン
多元的価値の尺度に対し、距離を保ち批判する必要ー新たな価値の発見
価値の尺度が変化する現代ー目的遂行的な知だけでは駄目
価値の軸を多元的に捉える知ー文系の知
自明化している目的、価値を疑い、新しい創造性を出す文系的知が絶対に必要
理系的な知は短く役に立ち、文系的な知はむしろ長く役に立つ

 

 

 

文科省が国立大学の文系学部廃止を打ち出したことへの反論である。
国が求める「役に立つ」の概念が、著者のそれとは大きく異なることは容易にうかがえる。
ちなみに、今年のセンター試験の評論が「科学的コミュニケーション」という題で、科学知に関する内容であった。それについては、以前のブログ記事に考えを書いたので、参考までに読んでみてください。


この大阪大学の入試問題が、センター試験の評論の内容に対する回答になっていると見なすこともできる。

 

研究成果が早く出て、社会にすぐに役立って、儲かるもの。それを求める文科省の文系学部廃止路線に対し、大学入試問題の国語で反論したものである。この文章を選んだ大阪大学の問題作成委員の先生方に敬意を表したい。


国からすれば「蟷螂の斧」に見えたとしても、言い続けることが大切である。次世代を担う受験生のみなさんが、この文章を読み、共感し、後の大学での学びの中に生かしてもらえると、日本の未来に対してたいへん心強い。

 

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)