bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

三四郎の運命が決定された夜 美禰子が結婚 STRAY SHEEPのなぞを考える

 

美禰子から金を借りた後の三四郎について見ていきます。

「精養軒の会」(広田先生の後援会のようなもの)に参加した帰り 与次郎からの話です。

 本文は青空文庫から引用しました。

「笑わないで、よく考えてみろ。おれが金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りることができたんだろう

 三四郎は笑うのをやめた。

「それで?」

「それだけでたくさんじゃないか。――君、あの女を愛しているんだろう」

 与次郎はよく知っている。三四郎はふんと言って、また高い月を見た。月のそばに白い雲が出た。

「君、あの女には、もう返したのか」

「いいや」

「いつまでも借りておいてやれ」

 

 

 

田舎に送金依頼をする三四郎。すると野々宮さんから呼び出しがあります。田舎の母は、三四郎ではなく、野々宮さんにお金を送って来ました。

 

与次郎との会話です。

 

 

ベルが鳴って、二人肩を並べて教場を出る時、与次郎が、突然聞いた。

「あの女は君にほれているのか」

 二人のあとから続々聴講生が出てくる。三四郎はやむをえず無言のまま梯子段《はしごだん》を降りて横手の玄関から、図書館わきの空地《あきち》へ出て、はじめて与次郎を顧みた。

「よくわからない」

 与次郎はしばらく三四郎を見ていた。

「そういうこともある。しかしよくわかったとして、君、あの女の夫《ハスバンド》になれるか

 三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女《かのおんな》の夫《ハスバンド》たる唯一《ゆいいつ》の資格のような気がしていた。言われてみると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。

「野々宮さんならなれる」と与次郎が言った。

「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」

 三四郎の顔は彫りつけたようにまじめであった。与次郎は一口、

「知らん」と言った。三四郎は黙っている。

「また野々宮さんの所へ行って、お談義を聞いてこい」と言いすてて、相手は池の方へ行きかけた。三四郎は愚劣の看板のごとく突っ立った。与次郎は五、六歩行ったが、また笑いながら帰ってきた。

「君、いっそ、よし子さんをもらわないか」と言いながら、三四郎を引っ張って、池の方へ連れて行った。歩きながら、あれならいい、あれならいいと、二度ほど繰り返した。そのうちまたベルが鳴った。

 

 

与次郎のせいで、美禰子から金を借りることになった三四郎。

与次郎はそれを恩に着せますが、一方で、三四郎に「夫としての資格」を持ち出し、美禰子を諦めさせようとします。与次郎は、三四郎の本気(?)を感じ取ったのでしょうか。さらに、「いっそ、よし子さんをもらわないか」とすすめます。

言うまでもなく、よし子は美禰子の当て馬、三四郎の結婚相手にふさわしい女性です。

この与次郎とのやりとりは、美禰子を失う伏線となっています。

 

 

三四郎はその夕方野々宮さんの所へ出かけたが、時間がまだすこし早すぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、シャツを買いに大きな唐物屋《とうぶつや》へはいった。小僧が奥からいろいろ持ってきたのをなでてみたり、広げてみたりして、容易に買わない。わけもなく鷹揚《おうよう》にかまえていると、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た。あらと言って挨拶をしたあとで、美禰子が、

「せんだってはありがとう」と礼を述べた。三四郎にはこのお礼の意味が明らかにわかった。美禰子から金を借りたあくる日もう一ぺん訪問して余分をすぐに返すべきところを、ひとまず見合わせた代りに、二日《ふつか》ばかり待って、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送った。

 手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分をすなおに表わしたものではあるが、むろん書きすぎている。三四郎はできるだけの言葉を層々《そうそう》と排列して感謝の意を熱烈にいたした。普通の者から見ればほとんど借金の礼状とは思われないくらいに、湯気の立ったものである。しかし感謝以外には、なんにも書いてない。それだから、自然の勢い、感謝が感謝以上になったのでもある。三四郎はこの手紙をポストに入れる時、時を移さぬ美禰子の返事を予期していた。ところがせっかくの封書はただ行ったままである。それから美禰子に会う機会はきょうまでなかった。三四郎はこの微弱なる「このあいだはありがとう」という反響に対して、はっきりした返事をする勇気も出なかった。大きなシャツを両手で目のさきへ広げてながめながら、よし子がいるからああ冷淡なんだろうかと考えた。それからこのシャツもこの女の金で買うんだなと考えた。小僧はどれになさいますと催促した。

 二人の女は笑いながらそばへ来て、いっしょにシャツを見てくれた。しまいに、よし子が「これになさい」と言った。三四郎はそれにした。今度は三四郎のほうが香水の相談を受けた。いっこうわからない。ヘリオトロープと書いてある罎《びん》を持って、いいかげんに、これはどうですと言うと、美禰子が、「それにしましょう」とすぐ決めた。三四郎は気の毒なくらいであった。

 

 

美禰子宅でのやりとりや、展覧会での言動から、美禰子は三四郎のことを見切っています。

逆に三四郎は、まだ美禰子の態度に期待をしています。相手の気持ちがわかっていないのです

この後は、三四郎が美禰子に取った態度の報いを受けることになっていきます。

 

ヘリオトロープという香水の名前を覚えておきましょう。

ヘリオトロープは、バニラに似た甘い香り、花言葉は「献身的な愛」「夢中」「熱望」

https://hananokotoba.com/heliotrope/を参照しました)

 

この後、兄に呼ばれているというよし子と連れだって、野々宮さんの下宿へ行く三四郎。

母からの金を受け取り、よし子に縁談話があることを聞きます。

野々宮さんのところから帰って下宿で運命を考えます。

 

 下宿の二階へ上って、自分の部屋へはいって、すわってみると、やっぱり風の音がする。三四郎はこういう風の音を聞くたびに、運命という字を思い出す。ごうと鳴ってくるたびにすくみたくなる。自分ながらけっして強い男とは思っていない。考えると、上京以来自分の運命はたいがい与次郎のためにこしらえられている。しかも多少の程度において、和気|靄然《あいぜん》たる翻弄《ほんろう》を受けるようにこしらえられている。与次郎は愛すべき悪戯者《いたずらもの》である。向後もこの愛すべき悪戯者のために、自分の運命を握られていそうに思う。風がしきりに吹く。たしかに与次郎以上の風である。

 

 三四郎は母から来た三十円を枕元《まくらもと》へ置いて寝た。この三十円も運命の翻弄が生んだものである。この三十円がこれからさきどんな働きをするか、まるでわからない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受け取る時に、また一煽《ひとあお》り来るにきまっている。三四郎はなるべく大きく来ればいいと思った。

 三四郎はそれなり寝ついた。運命も与次郎も手を下しようのないくらいすこやかな眠りに入った。すると半鐘の音で目がさめた。どこかで人声がする。東京の火事はこれで二へん目である。三四郎は寝巻の上へ羽織を引っかけて、窓をあけた。風はだいぶ落ちている。向こうの二階屋が風の鳴る中に、まっ黒に見える。家が黒いほど、家のうしろの空は赤かった。

 三四郎は寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。その時三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。三四郎はまた暖かい蒲団《ふとん》の中にもぐり込んだ。そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた。

 

 

故郷から送ってきた金を美禰子に返しに行く、その時に美禰子との間に何か進展があるのではと期待する三四郎。

でも、美禰子の気持ちは離れてしまっています。今さら何を、と思いますが、三四郎のひとりよがりな点が現れています。

夜中の火事の中で三四郎の運命が決定されています。当然それは、美禰子の結婚です。

 

広田先生を病気見舞いに行くと先客があり、辞して原口さん宅へ美禰子に会いに行きます。

美禰子は原口さんの絵のモデルをしているのでした。

 

美禰子の告白を拒む三四郎 破局の原因は?STRAYSHEEPのなぞを考える

美禰子に誘われて、展覧会についてきた三四郎。絵のことがわからず、美禰子と会話にならない中、決定的な出来事が起こります。

ここは「三四郎」の最大の山場ではないでしょうか。

本文は青空文庫から引用しました。

 

それでも好悪《こうお》はある。買ってもいいと思うのもある。しかし巧拙はまったくわからない。したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。

 美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合いがない。話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないところに愛嬌《あいきょう》がある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。

 長い間外国を旅行して歩いた兄妹《きょうだい》の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。

「ベニスでしょう」

 これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片《きれ》とをながめていた。すると、

「兄《あに》さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。

「兄さんとは……」

「この絵は兄さんのほうでしょう」

「だれの?」

 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。

「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」

 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色《けしき》をかいたものが幾点となくかかっている。

「違うんですか」

「一人と思っていらしったの」

「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、

「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

 

 

せめて共通の趣味でもあれば、美禰子と打ち解けることができたのに。

残念なことに三四郎は、絵がさっぱりわかりません。美禰子の言葉に、機械的に反応するだけ。おまけに、兄妹である画家の区別すら気づかないのです。

これでは美禰子はがっかりしてしまいます。教養の差、趣味の違い、関心を持つ世界の違いがあるために、二人が近づくことができないのです。

 

しかし、美禰子はそれにもかかわらず、「向こうから三四郎の横顔を熟視していた」のです。

美禰子宅で金の貸し借りをめぐっての気まずいやりとりがあり、展覧会に来るまでの道中でも会話がなく、何ら美禰子の琴線に触れてこなかった三四郎。

そんな木石のような三四郎に対し、熱い視線で見つめる美禰子。

言わずもがなですが、美禰子は三四郎に惚れているのです。

気づけよ、三四郎!

 

 

「里見さん」

 だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。

 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう挨拶《あいさつ》をしている。野々宮は三四郎に向かって、

「妙な連《つれ》と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。

 

 

 

声を掛けた原口さんのうしろに野々宮さんがいることに気づいた美禰子は、三四郎の耳元に何かささやきます。

三四郎は聞き取れませんでした。

美禰子のこの行動は、決定的な意味がありました。

もう少し先を見ましょう。

 

 

 

 

「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。

「まだ」

「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐《デナー》には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。

「せっかく来たものだから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」

 三四郎はええと言った。

「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見《ふかみ》さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」

「ありがとう」

 

 

 

原口の誘いを辞退して、三四郎と残って絵を見ると答える美禰子。

次の二人のやりとりに注目してください。

 

 

「これもベニスですね」と女が寄って来た。

「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。

「さっき何を言ったんですか」

 女は「さっき?」と聞き返した。

さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」

 女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。

「用でなければ聞かなくってもいいです」

「用じゃないのよ」

 三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただ男女《なんにょ》二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

「わかったでしょう」

 美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。

「野々宮さんを愚弄《ぐろう》したのですか」

「なんで?」

 女の語気はまったく無邪気である。三四郎は忽然《こつぜん》として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。

「あなたを愚弄したんじゃないのよ」

 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。

「それでいいです」

「なぜ悪いの?」

「だからいいです」

 女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子《ひょうし》に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。

「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。

「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足《げそく》を受け取って、出ると戸外は雨だ。

 

 

美禰子が三四郎の耳元でささやいたのは、野々宮さんに、三四郎と仲のよいところを見せて、三四郎を好きであることを知らせるものでした。

三四郎が、美禰子との関係を考えるとき、野々宮さんの存在を意識して動けないでいることをよく知っているのです。

野々宮さんに知らせる意味よりも、三四郎自身に、あなたのことが好きだとわからせるためなのです。

ところが、三四郎は、それがわからず、野々宮さんを愚弄したと言い出す始末です。

美禰子を見下ろし、「いいです」と言って、怒ってしまう。

三四郎は、あの汽車で出会った女の事を思い出しています。三四郎が愚弄されたと思って赤面した相手です。

美禰子にも愚弄されたと思い込んでしまったのでしょう。

かわいそうな美禰子は、小さい声で「ほんとうにいいの?」と確かめます。

 

「精養軒へ行きますか」

 美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。

「あの木の陰へはいりましょう」

 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

「悪くって? さっきのこと」

「いいです」

「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」

 女は瞳《ひとみ》を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟《ひっきょう》あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼《ふたえまぶた》の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、

「だから、いいです」と答えた。

 雨はだんだん濃くなった。雫《しずく》の落ちない場所はわずかしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、

「さっきのお金をお使いなさい」と言った。

「借りましょう。要《い》るだけ」と答えた。

「みんな、お使いなさい」と言った。

 

 

 

雨の中、三四郎に近寄り、気持ちを確かめようとする美禰子。

美禰子の弁解は、野々宮さんを愚弄するためではなく、三四郎のことを思ってやったことだというものです。

三四郎は、美禰子の瞳の中に、あなたのためにした事だという訴えを読み取ります。

今まで鈍感だった三四郎にしては、めずらしいことです。しかし、答えは「だから、いいです」というものでした。

美禰子の気持ちをくみ取るものではなく、拒絶するものでした。

自分の三四郎への気持ちを拒絶され、野々宮を愚弄したと誤解され、弁解しても硬い態度を突きつけられる。

美禰子は絶望的な気分になったことでしょう。

 

美禰子は、「さっきのお金をお使いなさい」「みんな、お使いなさい」と言うしかなかった。

美禰子からすれば、これは三四郎との手切れ金です。

愛を拒まれた美禰子が、三四郎に見切りをつけた瞬間だったのです。

 

なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。

私の見立ては、三四郎にとって野々宮さんは、自分の所属する世界の住人であり、先輩だからです。美禰子の言動は、自分が愚弄されたのと同じだと受け止めたのです。

美禰子をめぐって恋のライバルに位置する人ではなかったのです。

美禰子は先にも見たように、三四郎が野々宮さんを意識するあまり、美禰子に近づけないことを知っていました。野々宮の存在が三四郎の心にブレーキを掛けており、それを外す目的で、取った行動でした。

 

三四郎と美禰子では、重きを置く次元が違っていたのです。

三四郎には美禰子との恋よりも、広田先生や野々宮さんの属する学問の世界が大事であったのです。自分も将来、その世界で活躍する住人にならなければならないと思っているからです。

美禰子は、自分の情熱、本能、感情生活の方を重視していたのです。

求めているものが違うので、二人はすれ違いばかりで、結局、交わることがなかったのです。

この展覧会で、それがはっきりとした形になり、破局を迎えたということです。

 

三四郎に、美禰子の気持ちをくみ取れる度量があれば、こんな不幸なやりとりは回避できたことでしょう。

この場面は、美禰子が気の毒で、涙を禁じ得ません。

STRAY SHEEPの文字通り、当てもなくさまよう三四郎と美禰子

美禰子の家を辞し、付いて出てきた美禰子と当てもなく歩く三四郎。

 本文は青空文庫から引用しました。

 

 二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあいだ三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通の女性《にょしょう》以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義だから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。

 そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。

「どこへいらっしゃるの」

「あなたはどこへ行くんです」

 二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。

「いっしょにいらっしゃい」

 

 

 

1町は109メートル。半町は50メートルほどです。その間、無言で歩く二人。気まずいはずですが、三四郎の頭の中は、美禰子への不信感にあふれています。

わがままに育ったに違いないとか、家庭にいると、やりたい放題するだろうとか、こうして男と出歩くのも田舎ではとてもできないことだとか。

三四郎には、美禰子への反感があるとしか考えられません。

自分で勝手に気を悪くして、相手に非があると決めつける、何ともこだわりの強い性格が表れています。

イプセンなんて考えている場合ではないぞ、三四郎。

こんな性格で、ちゃんと学問ができるのかしらんと思います。

 

二人で微妙に歩を合わせながら、どこに向かっているかもわからない。

二人とも文字通り、「STRAY SHEEP」迷える羊状態です。

ようやく美禰子が、どこへ行くのかと尋ねます。笑った美禰子が、先導します。

 

 

 

 

二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、

「お願い」と言った。

「なんですか」

「これでお金を取ってちょうだい」

 三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座|預金通帳《あずかりきんかよいちょう》とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。

「三十円」と女が金高《きんだか》を言った。あたかも毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津《とよつ》まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要の金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。

 

 

「お願い」「これでお金を取ってちょうだい」と美禰子が下手に出て、三四郎に提案します。

与次郎が三四郎から借りている金額は、二十円です。与次郎が美禰子にいくら借りたいと言ったのかはわかりませんが、美禰子は十円多い額を三四郎に預けます。

 

 

すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、

「丹青会《たんせいかい》の展覧会を御覧になって」と聞いた。

「まだ見ません」

「招待券《しょうたいけん》を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」

「行ってもいいです」

「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」

「原口さんが招待券をくれたんですか」

「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」

「広田先生の所で一度会いました」

「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子を稽古なさるんですって」

「このあいだは鼓《つづみ》をならいたいと言っていました。それから――」

「それから?」

「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」

「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質《たち》である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。

 三四郎はまた隠袋《かくし》へ手を入れた。銀行の通帳《かよいちょう》と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間にはさんでおいたはずである。しかるに女が、

「お金は」と言った。見ると、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った。中から手ずれのした札をつかみ出した。女は手を出さない。

「預かっておいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑のような気がした。しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。

 

 

おそらく美禰子は、三四郎が訪問した時から丹青会の展覧会へ一緒に行こうと決めていたのでしょう。きれいな着物に着替えていたことからわかります。

ところが、三四郎は勝手に気を悪くして帰ると言い出したので、美禰子は、自分も外出するのでと言って、三四郎に付いてきました。

さらに、金を渡し、展覧会まで誘うという、美禰子のけなげな努力に三四郎は気付くべきでした。

それもわからず、「いささか迷惑」「妙な女だ」と思うのです。これでは、美禰子に対し、ひど過ぎです。

 

三四郎の訪問で、愛を確認したかった美禰子は、それが実現せず、三四郎がどうでもいいというお金を渡すことになる。

三四郎は美禰子の態度から判断したいと思うが、美禰子の思いをくみ取れずに、愛を受け入れないで、どうでもいいというお金を受け取ることになる。

二人に介在するのは愛ではなく、お金になってしまった、皮肉な場面です。

鏡の中に現れる美禰子。思いをくみ取れない三四郎。STRAY SHEEPのなぞを考える

いよいよ美禰子宅を訪問する三四郎です。

少し長くなりますが、二人の距離が縮まるのか、離れるのか、最大の山場なので、じっくり読んでいきましょう。

本文は青空文庫から引用しました。

 

翌日はさいわい教師が二人欠席して、昼からの授業が休みになった。下宿へ帰るのもめんどうだから、途中で一品《いっぴん》料理の腹をこしらえて、美禰子の家へ行った。前を通ったことはなんべんでもある。けれどもはいるのははじめてである。瓦葺《かわらぶき》の門の柱に里見恭助という標札が出ている。三四郎はここを通るたびに、里見恭助という人はどんな男だろうと思う。まだ会ったことがない。門は締まっている。潜《くぐ》りからはいると玄関までの距離は存外短かい。長方形の御影石《みかげいし》が飛び飛びに敷いてある。玄関は細いきれいな格子《こうし》でたてきってある。ベルを押す。取次ぎの下女に、「美禰子さんはお宅ですか」と言った時、三四郎は自分ながら気恥ずかしいような妙な心持ちがした。ひとの玄関で、妙齢の女の在否を尋ねたことはまだない。はなはだ尋ねにくい気がする。下女のほうは案外まじめである。しかもうやうやしい。いったん奥へはいって、また出て来て、丁寧にお辞儀をして、どうぞと言うからついて上がると応接間へ通した。重い窓掛けの掛かっている西洋室である。少し暗い。

 下女はまた、「しばらく、どうか……」と挨拶して出て行った。三四郎は静かな部屋《へや》の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい暖炉《だんろ》がある。その上が横に長い鏡になっていて前に蝋燭立《ろうそくたて》が二本ある。三四郎は左右の蝋燭立のまん中に自分の顔を写して見て、またすわった。

 すると奥の方でバイオリンの音がした。それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。三四郎は惜しい気がする。厚く張った椅子《いす》の背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれぎりでやんだ。約一分もたつうちに、三四郎はバイオリンの事を忘れた。向こうにある鏡と蝋燭立をながめている。妙に西洋のにおいがする。それからカソリックの連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時バイオリンがまた鳴った。今度は高い音《ね》と低い音が二、三度急に続いて響いた。それでぱったり消えてしまった。三四郎はまったく西洋の音楽を知らない。しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。ただ鳴らしただけである。その無作法にただ鳴らしたところが三四郎の情緒《じょうしょ》によく合った。不意に天から二、三|粒《つぶ》落ちて来た、でたらめの雹《ひょう》のようである。

 

 

 

三四郎には過剰な自意識が働いてきました。

「三四郎は自分ながら気恥ずかしいような妙な心持ちがした。ひとの玄関で、妙齢の女の在否を尋ねたことはまだない。はなはだ尋ねにくい気がする。」

 

「妙に西洋のにおいがする。それからカソリックの連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。」

宗教には無縁な三四郎。直感でカソリックの連想が働きます。後に美禰子はキリスト教の信仰を持っていることがわかります。

 

次は「三四郎」の中でも特に秀逸な場面です。漱石の筆が冴えています。

 

 

三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。下女がたてたと思った戸があいている。戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った。

「いらっしゃい」

 女の声はうしろで聞こえた。三四郎は振り向かなければならなかった。女と男はじかに顔を見合わせた。その時女は廂《ひさし》の広い髪をちょっと前に動かして礼をした。礼をするにはおよばないくらいに親しい態度であった。男のほうはかえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬふうをして、向こうへ回って、鏡を背に、三四郎の正面に腰をおろした。

「とうとういらしった」

 同じような親しい調子である。三四郎にはこの一言《いちげん》が非常にうれしく聞こえた。女は光る絹を着ている。さっきからだいぶ待たしたところをもってみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着換えたのかもしれない。それで端然とすわっている。目と口に笑《えみ》を帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである。三四郎はすぐ口を開いた。ほとんど発作《ほっさ》に近い。

 

 

どうです、鏡の中に美禰子の姿が映っているのです。まるで絵に描かれたかのように。

そして美禰子と三四郎の視線が鏡の中で交差します。

すると美禰子はにこりと笑います。美禰子がにこりと笑う時は、三四郎への思いを表明するときなのです。映画の一シーンのような、美しい描写です。

三四郎が振り向いて、じかに顔を合わせた二人。親しい態度を見せる美禰子に対し、大仰な挨拶をする三四郎。

 

「とうとういらしった」という美禰子の言葉の意味は、三四郎が自分を訪ねてくる機会がやっと来た、今までずいぶん長く待ったという意味です。

そこには金の貸し借りではなく、愛情の確認が期待されているはずです。

ところが、三四郎の反応は

「目と口に笑《えみ》を帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである。」

というものでした。

美禰子の視線が苦しく、見られることに耐えられないのです。これはひどい。

病的な反応です。

ちゃんと美禰子に正対してほしいですね。

 

「佐々木が」

「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」と言って例の白い歯を現わした。女のうしろにはさきの蝋燭立がマントルピースの左右に並んでいる。金で細工《さいく》をした妙な形の台である。これを蝋燭立と見たのは三四郎の臆断《おくだん》で、じつはなんだかわからない。この不可思議の蝋燭立のうしろに明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けにさえぎられて、十分にはいらない。そのうえ天気は曇っている。三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。

「佐々木が来ました」

「なんと言っていらっしゃいました」

「ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました」

「そうでしょう。――それでいらしったの」とわざわざ聞いた。

「ええ」と言って少し躊躇《ちゅうちょ》した。あとから「まあ、そうです」と答えた。女はまったく歯を隠した。静かに席を立って、窓の所へ行って、外面《そと》をながめだした。

「曇りましたね。寒いでしょう、戸外《そと》は」

「いいえ、存外暖かい。風はまるでありません」

「そう」と言いながら席へ帰って来た。

 

 

なんともぎこちない三四郎の受け答えです。大人と子どもの会話みたいに感じます。

美禰子が「それでいらしったの」とわざわざ確認して、そうだと答える三四郎の言葉を聞くと、「女はまったく歯を隠した」。つまり、美禰子から笑顔が消えてしまいます。

鈍感にもほどがあるぞ、三四郎!

 

好きな相手の心の機微が理解できない三四郎。これでは恋愛が成立するはずがありません。

永遠に交わることのない二本の線。

さっきまでは美禰子が待ち受け、歩み寄ろうとしていたのに。

 

 

「じつは佐々木が金を……」と三四郎から言いだした。

「わかってるの」と中途でとめた。三四郎も黙った。すると

「どうしておなくしになったの」と聞いた。

「馬券を買ったのです」

 女は「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔は驚いていない。かえって笑っている。すこしたって、「悪いかたね」とつけ加えた。三四郎は答えずにいた。

「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」

 

 

 

三四郎の言葉を途中で遮る美禰子。

痛烈な皮肉を三四郎に投げかけます。

「索引のついている人の心さえあててみようとなさらない」とは、美禰子が三四郎のことを好きであり、これまでの美禰子の言動も三四郎への思いを素直に表明したものであったのに、三四郎はそれを確かめようとしなかった、という意味です。

この言葉を聞いてピンとこないようでは、ダメでしょう。ところが三四郎は馬券の方に反応してしまいます。そこじゃないだろう!三四郎。

 

「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」

「あら。だれが買ったの」

「佐々木が買ったのです」

 女は急に笑いだした。三四郎もおかしくなった。

「じゃ、あなたがお金がお入用《いりよう》じゃなかったのね。ばかばかしい」

「いることはぼくがいるのです」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」

「だってそれじゃおかしいわね」

「だから借りなくってもいいんです」

「なぜ。おいやなの?」

「いやじゃないが、お兄《あに》いさんに黙って、あなたから借りちゃ、好くないからです」

「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」

「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家《うち》へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」

「御迷惑なら、しいて……」

 美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。けれども、もうしかたがない。蝋燭立を見てすましている。三四郎は自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。女も遠ざかったぎり近づいて来ない。しばらくするとまた立ち上がった。窓から戸外をすかして見て、

「降りそうもありませんね」と言う。三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」と答えた。

「降らなければ、私ちょっと出て来《き》ようかしら」と窓の所で立ったまま言う。三四郎は帰ってくれという意味に解釈した。光る絹を着換えたのも自分のためではなかった。

 

 

「じゃ、あなたがお金がお入用《いりよう》じゃなかったのね。ばかばかしい」

と美禰子が言っていることから、与次郎は金を借りる話をしたときに、うそをついていることがわかります。おそらく与次郎は、美禰子には、三四郎に金が必要だという風に言って、三四郎をよこすといったのでしょう。

そして三四郎には、美禰子さんがお前をよこすように言っていると告げています

美禰子も三四郎も与次郎に騙されたことになります。

些細なことのように見えますが、与次郎のうそが二人の食い違いのきっかけになったのは間違いありません。

 

「だから借りなくってもいいんです」と答える三四郎。

何のために今、美禰子の前にいるのか。三四郎は、それをわきまえずに妙なプライドで美禰子を失望させます。

「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家《うち》へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」

美禰子に対してマウントを取るかのような三四郎のこの発言。

「御迷惑なら、しいて……」美禰子がかえって気を使っています。

そして、「美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。」あたりまえでしょう。

 

美禰子にすれば、三四郎が金に困っているから心配して用意をしていた。ところが、借りなくても全然平気であるように言い出す三四郎。美禰子が失望しても当然です。いったいこの人は何を考えているのだろうかと不信の念を抱いても不思議ではありません。

二人のすれ違いは、お手上げ状態です。

 

「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関まで送って来た。沓脱《くつぬぎ》へ降りて、靴《くつ》をはいていると、上から美禰子が、

「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」と言った。三四郎は靴の紐《ひも》を結びながら、「ええ、どうでも」と答えた。女はいつのまにか、和土《たたき》の上へ下りた。下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女があわてながら、送りに出て来た。

 

 

 

そんなひどい態度の三四郎に対し、美禰子はまだ歩み寄ろうとします。

「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」

これに三四郎は、「ええ、どうでも」と答えます。ぶっきらぼうか!三四郎!

美禰子は、

下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。

 

美禰子は自分が悪かったのではないかと気にして、尋ねます。距離を縮めてくる美禰子、なんとも可愛げのある振る舞いではないでしょうか。

ところが、三四郎は、自分が愚弄されているとしか受け止められないのです。

三四郎の、自己中心的な姿勢がひどいですね。

この後の二人は、どうなったのでしょうか。続きは次回で。

 

美禰子に会いに行く前の、三四郎の心情は?STRAY SHEEPのなぞを考える

三四郎は、与次郎に頼まれて金を貸します。

与次郎が、広田先生から預かった、野々宮さんに返す予定の金を競馬で摩ってしまったからです。

与次郎は金策の結果、美禰子に金を借りることになりましたが、美禰子がつけた条件は、三四郎が金を受け取りに来ることです。

三四郎はその条件を飲み、美禰子宅を訪問することになりました。

美禰子はどんな対応をするでしょうか。

 

美禰子に会いに行く前の、三四郎の心情を見ておきましょう。

本文は青空文庫から引用しました。

 

三四郎はその晩与次郎の性格を考えた。長く東京にいるとあんなになるものかと思った。それから里見へ金を借りに行くことを考えた。美禰子の所へ行く用事ができたのはうれしいような気がする。しかし頭を下げて金を借りるのはありがたくない。三四郎は生まれてから今日にいたるまで、人に金を借りた経験のない男である。その上貸すという当人が娘である。独立した人間ではない。たとい金が自由になるとしても、兄の許諾を得ない内証の金を借りたとなると、借りる自分はとにかく、あとで、貸した人の迷惑になるかもしれない。あるいはあの女のことだから、迷惑にならないようにはじめからできているかとも思える。なにしろ会ってみよう。会ったうえで、借りるのがおもしろくない様子だったら、断わって、しばらく下宿の払いを延ばしておいて、国から取り寄せれば事は済む。――当用はここまで考えて句切りをつけた。あとは散漫に美禰子の事が頭に浮かんで来る。美禰子の顔や手や、襟《えり》や、帯や、着物やらを、想像にまかせて、乗《か》けたり除《わ》ったりしていた。ことにあした会う時に、どんな態度で、どんな事を言うだろうとその光景が十《と》通りにも二十《にじっ》通りにもなって、いろいろに出て来る。三四郎は本来からこんな男である。用談があって人と会見の約束などをする時には、先方がどう出るだろうということばかり想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で言ってやろうなどとはけっして考えない。しかも会見が済むと後からきっとそのほうを考える。そうして後悔する。

 

  

三四郎が原因で美禰子から金を借りるわけではないので、頭を下げるのはありがたくないとか、おもしろくなかったら断って、といった気持ちの余裕?が三四郎にはあります。

 また、美禰子のことをあれこれ妄想するのは、惚れている証拠。そこまで思っているなら、なぜ、今まで自分の思いを伝える行動できなかったのか。三四郎の残念なポイントです。

  

 

ことに今夜は自分のほうを想像する余地がない。三四郎はこのあいだから美禰子を疑っている。しかし疑うばかりでいっこうらちがあかない。そうかといって面と向かって、聞きただすべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決などは思いもよらぬことである。もし三四郎の安心のために解決が必要なら、それはただ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、いいかげんに最後の判決を自分に与えてしまうだけである。あしたの会見はこの判決に欠くべからざる材料である。だから、いろいろに向こうを想像してみる。しかし、どう想像しても、自分につごうのいい光景ばかり出てくる。それでいて、実際ははなはだ疑わしい。ちょうどきたない所をきれいな写真にとってながめているような気がする。写真は写真としてどこまでも本当に違いないが、実物のきたないことも争われないと一般で、同じでなければならぬはずの二つがけっして一致しない。

 

 

「面と向かって聞きただすべき事件は一つもない」と考える三四郎ですが、美禰子に会って直接、自分の思いを伝えれば済むことだし、美禰子を疑っているなら、その疑問を抱く心境を美禰子に伝えたら解決するのではないかと思うのですが。

三四郎には、どんな事情があるのでしょうか。

 

 最後にうれしいことを思いついた。美禰子は与次郎に金を貸すと言った。けれども与次郎には渡さないと言った。じっさい与次郎は金銭のうえにおいては、信用しにくい男かもしれない。しかしその意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑わしい。もしその意味でないとすると、自分にははなはだたのもしいことになる。ただ金を貸してくれるだけでも十分の好意である。自分に会って手渡しにしたいというのは――三四郎はここまで己惚れてみたが、たちまち、

「やっぱり愚弄《ぐろう》じゃないか」と考えだして、急に赤くなった。もし、ある人があって、その女はなんのために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎はおそらく答ええなかったろう。しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味をもっている女だからとまでは答えたかもしれない。自分の己惚れを罰するためとはまったく考ええなかったに違いない。――三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じている。

 

 

また三四郎得意のひとり相撲です。美禰子に好意を持たれているのではないかと、「うれしい思いつき」をしながら、「やっぱり愚弄じゃないか」と赤面する。

なぜ素直に美禰子の好意を受け止められないのか。ある意味、ひねくれた解釈をしてしまう三四郎の「認知のゆがみ」がここでもうかがえます。

 

美禰子本人に会う前に、これだけの労力?を費やして、あれこれ考え込む三四郎。

現代人から見れば、もっとシンプルに考えて行動できないのかと疑ってしまいますが。

三四郎の心情を踏まえたうえで、次は、いよいよ美禰子宅訪問です。

 

美禰子は露悪家か?三四郎を悩ますものは STRAY SHEEPのなぞ 「三四郎」夏目漱石  

 

広田先生宅訪問

美禰子にとらわれている三四郎ですが、三四郎の頭の中では美禰子をどう見ているのかを整理してみましょう。

そうすることで、美禰子との関係の問題点がはっきりとすると思われます。

本文は、青空文庫から引用しました。

 

三四郎は近ごろ女にとらわれた。恋人にとらわれたのなら、かえっておもしろいが、ほれられているんだか、ばかにされているんだか、こわがっていいんだか、さげすんでいいんだか、よすべきだか、続けべきだかわけのわからないとらわれ方である。三四郎はいまいましくなった。そういう時は広田さんにかぎる。三十分ほど先生と相対していると心持ちが悠揚《ゆうよう》になる。女の一人や二人どうなってもかまわないと思う。実をいうと、三四郎が今夜出かけてきたのは七|分方《ぶがた》この意味である。

 訪問理由の第三はだいぶ矛盾《むじゅん》している。自分は美禰子に苦しんでいる。美禰子のそばに野々宮さんを置くとなお苦しんでくる。その野々宮さんにもっとも近いものはこの先生である。だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との関係がおのずから明瞭になってくるだろうと思う。これが明瞭になりさえすれば、自分の態度も判然きめることができる。そのくせ二人の事をいまだかつて先生に聞いたことがない。今夜は一つ聞いてみようかしらと、心を動かした。

 

 

広田先生が三四郎にとってのメンターなので、美禰子に関するもやもやした気持ちを整理するために訪問します。

しかし、直接先生に、美禰子への思いや美禰子と野々宮さんの関係を相談するわけではありません。

広田先生と話していると、「女の一人や二人どうなってもかまわない」と強気になるのです。「野々宮さんと美禰子との関係が自ずから明瞭に」なると思うのです。

ずいぶん都合のよい態度です。自分の恋心は隠して、いわば、恥をかいたり、傷ついたりするのを避けて、安心を得ようとしています。

広田先生も野々宮さんも、三四郎が目指していく世界の住人です。同じような仕事をし、生活をするはずの先輩であり、目標でもある人です。

同じ世界の住人だから、話も通じやすいし、安心していられるわけです。

ただ、親友に悩み事を相談するようにはつきあえない人でもあります。広田先生はいわば師匠であり、野々宮さんは尊敬すべき先輩です。そんな二人に、特に野々宮さんには美禰子のことは話せない。

三四郎なりに学問の世界で生きていくプライドもあるでしょうから、そう簡単に美禰子への恋心を相談できないのです。

三四郎もつらい立場ですね。

 

 

広田先生の話の後

「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」

「そりゃ……」

「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。これに反して与次郎のごときは露悪党の領袖《りょうしゅう》だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、悪気《にくげ》がない。可愛らしいところがある。ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味《いやみ》のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな気障《きざ》だ」

ここまでの理屈は三四郎にもわかっている。けれども三四郎にとって、目下痛切な問題は、だいたいにわたっての理屈ではない。実際に交渉のある、ある格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する素振《そぶり》をもう一ぺん考えてみた。ところが気障か気障でないかほとんど判断ができない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなかろうかと疑いだした。

 

 

三四郎に足りないのは、与次郎のような正直さかも知れません。「万事正直に出られないような我々の時代」は「みんな気障」と言う広田先生。

三四郎は、美禰子の言動が、正直なのか、気障なのかわからないのです。

「自分の感受性が人一倍鈍いのではないか」と三四郎は、疑問を抱きます。

「その通りだ、三四郎」と断罪したいところですが、「美禰子に対しては」という条件付きで、その通りだと言っておきます。

 

露悪家

「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行《はや》らなくなる」

  広田先生の話し方は、ちょうど案内者が古戦場を説明するようなもので、実際を遠くからながめた地位にみずからを置いている。それがすこぶる楽天の趣がある。あたかも教場で講義を聞くと一般の感を起こさせる。しかし三四郎にはこたえた。念頭に美禰子という女があって、この理論をすぐ適用できるからである。三四郎は頭の中にこの標準を置いて、美禰子のすべてを測ってみた。しかし測り切れないところがたいへんある。

 

 

広田先生の露悪家の説明はややこしいですね。

「人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる」とか「偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色」とか、「きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる」というものです。

今ひとつ、私もわかりにくい。

三四郎はこれを聞いて、美禰子を当てはめます。しかし、美禰子を露悪家とは断定できません。「しかし測り切れないところがたいへんある」と考えます。

 

一人の女性をひとつの露悪家というもの差しで判断しようとすることがそもそも間違っています。生身の人間ですから、当然、多様な面がある。

三四郎は批評家になってしまっています。

 

やってきた原口さんの話

美禰子の絵を描いている絵描きの原口さんが登場します。

 

 

三四郎は多大な興味をもって原口の話を聞いていた。ことに美禰子が団扇をかざしている構図は非常な感動を三四郎に与えた。不思議の因縁が二人の間に存在しているのではないかと思うほどであった。すると広田先生が、「そんな図はそうおもしろいこともないじゃないか」と無遠慮な事を言いだした。

「でも当人の希望なんだもの。団扇をかざしているところは、どうでしょうと言うから、すこぶる妙でしょうと言って承知したのさ。なに、悪い図どりではないよ。かきようにもよるが」

「あんまり美しくかくと、結婚の申込みが多くなって困るぜ」

「ハハハじゃ中ぐらいにかいておこう。結婚といえば、あの女も、もう嫁にゆく時期だね。どうだろう、どこかいい口はないだろうか。里見にも頼まれているんだが」

「君もらっちゃどうだ」

「ぼくか。ぼくでよければもらうが、どうもあの女には信用がなくってね」

「なぜ」

「原口さんは洋行する時にはたいへんな気込みで、わざわざ鰹節《かつぶし》を買い込んで、これでパリーの下宿に籠城《ろうじょう》するなんて大いばりだったが、パリーへ着くやいなや、たちまち豹変《ひょうへん》したそうですねって笑うんだから始末がわるい。おおかた兄《あにき》からでも聞いたんだろう」

「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたってだめだ。好きな人があるまで独身で置くがいい」

「まったく西洋流だね。もっともこれからの女はみんなそうなるんだから、それもよかろう」

 

 

広田先生のサロン(?)に出入りするうちの一人、画工の原口さん。三四郎は耳をそばだてて、先生と原口さんの会話を聞いています。

原口さんの言う「美禰子が団扇をかざしている構図」とは、美禰子が初めて三四郎と池の畔で出会ったときに取っていたポーズです。三四郎はめずらしく「不思議の因縁が二人の間に存在しているのではないか」と、ロマンティックに受け止めます。

美禰子の結婚に関する話などは、三四郎がいちばん聞きたかった内容です。

「自分で行きたい所でなくっちゃ行きっこない」との言葉を聞いて、三四郎は少しは安心できたでしょうか。

美禰子は果たして「まったく西洋流」なのでしょうか。

 

野々宮さんが気になり、美禰子と向き合えない三四郎 STRAY SHEEPのなぞを考える「三四郎」夏目漱石

大学の運動会を見に出かけた三四郎。見学に来ている美禰子に合うことを期待しています。

審判をしている野々宮さんと談笑する美禰子を遠目に見て、おもしろくないと思って会場から離れます。

そして、美禰子とよし子の目につくように姿を見せた三四郎は、すねたような態度を見せた後、美禰子と二人になりました。よし子は用事で外しています。

三四郎は、美禰子にどんな話をするのでしょうか。

今回は、引用も考察も長文になります。お時間のあるときに、ゆっくり読んでみてください。

本文は青空文庫から引用しました。

 

 三四郎はまた石に腰をかけた。女は立っている。秋の日は鏡のように濁った池の上に落ちた。中に小さな島がある。島にはただ二本の木がはえている。青い松《まつ》と薄い紅葉がぐあいよく枝をかわし合って、箱庭の趣がある。島を越して向こう側の突き当りがこんもりとどす黒く光っている。女は丘の上からその暗い木陰《こかげ》を指さした。

「あの木を知っていらしって」と言う。

「あれは椎《しい》」

 女は笑い出した。

「よく覚えていらっしゃること」

「あの時の看護婦ですか、あなたが今尋ねようと言ったのは」

「ええ」

「よし子さんの看護婦とは違うんですか」

「違います。これは椎――といった看護婦です」

 今度は三四郎が笑い出した。

「あすこですね。あなたがあの看護婦といっしょに団扇《うちわ》を持って立っていたのは」

 二人のいる所は高く池の中に突き出している。この丘とはまるで縁のない小山が一段低く、右側を走っている。大きな松と御殿の一角《ひとかど》と、運動会の幕の一部と、なだらかな芝生が見える。

「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とうとうこらえきれないで出てきたの。――あなたはまたなんであんな所にしゃがんでいらしったんです」

「熱いからです。あの日ははじめて野々宮さんに会って、それから、あすこへ来てぼんやりしていたのです。なんだか心細くなって

「野々宮さんにお会いになってから、心細くおなりになったの」

「いいえ、そういうわけじゃない」と言いかけて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。

野々宮さんといえば、きょうはたいへん働いていますね

「ええ、珍しくフロックコートをお着になって――ずいぶん御迷惑でしょう。朝から晩までですから

だってだいぶ得意のようじゃありませんか

「だれが、野々宮さんが。――あなたもずいぶんね

「なぜですか」

「だって、まさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう

 三四郎はまた話頭を転じた。

「さっきあなたの所へ来て何か話していましたね」

「会場で?」

「ええ、運動会の柵の所で」と言ったが、三四郎はこの問を急に撤回したくなった。女は「ええ」と言ったまま男の顔をじっと見ている。少し下唇《したくちびる》をそらして笑いかけている。三四郎はたまらなくなった。何か言ってまぎらそうとした時に、女は口を開いた。

「あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね」

 三四郎はまごつきながら「あげます」と答えた。女はくれともなんとも言わない。

「あなた、原口《はらぐち》さんという画工《えかき》を御存じ?」と聞き直した。

「知りません」

「そう」

「どうかしましたか」

「なに、その原口さんが、きょう見に来ていらしってね、みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、ポンチにかかれるからって、野々宮さんがわざわざ注意してくだすったんです」

 美禰子はそばへ来て腰をかけた。三四郎は自分がいかにも愚物のような気がした。

 

 

美禰子と初めて出会ったのが、会話にある池のそばで、その時のことをよく覚えている三四郎の言葉に美禰子の笑いが出ます。三四郎も笑い出します。

いい雰囲気になってきました。

ところが、美禰子の問いに対し、野々宮のことにこだわり、野々宮の話を続ける三四郎。

女は「ええ」と言ったまま男の顔をじっと見ている。少し下唇《したくちびる》をそらして笑いかけている。

完全に三四郎の心を見透かしています。野々宮さんと美禰子の関係に疑念を持つ三四郎の心を察知して、逆に、絵はがきの返事をくれないのかと問いかけてきます。

絵はがきは、三四郎と美禰子を二匹の羊に模して、二人とも同じように迷える子だと示したものでした。

その美禰子の思いを描いた重要なはがきに、三四郎は返事を出しませんでした。

美禰子は三四郎の返事を期待していたのにです。

不意の問いに対して三四郎はまごつきます。美禰子は何も言いませんでした。

このすれ違いは美禰子に失望を与えたでしょう。

しかも三四郎がこだわる、今日の野々宮さんの行動は、美禰子とよし子に、絵描きの原口さんが二人を絵にしようと狙っているので注意するように伝言したものでした。

これを知った三四郎は、「自分がいかにも愚物のような気がした」と自覚します。

妄想を広げる三四郎の取り越し苦労でした。

もっと正直に自分の気持ちを出せばいいのに、と思うのは現代から見た考えでしょうか。

三四郎には、そうはできない何かがあるのでしょう。

 

「よし子さんはにいさんといっしょに帰らないんですか」

「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。よし子さんは、きのうから私の家にいるんですもの」

 三四郎はその時はじめて美禰子から野々宮のおっかさんが国へ帰ったということを聞いた。おっかさんが帰ると同時に、大久保を引き払って、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子の家《うち》から学校へ通うことに、相談がきまったんだそうである。

 三四郎はむしろ野々宮さんの気楽なのに驚いた。そうたやすく下宿生活にもどるくらいなら、はじめから家を持たないほうがよかろう。第一鍋、釜《かま》、手桶《ておけ》などという世帯《しょたい》道具の始末はどうつけたろうと、よけいなことまで考えたが、口に出して言うほどのことでもないから、べつだんの批評は加えなかった。そのうえ、野々宮さんが一家の主人《あるじ》から、あともどりをして、ふたたび純書生と同様な生活状態に復するのは、とりもなおさず家族制度から一歩遠のいたと同じことで、自分にとっては、目前の迷惑を少し長距離へ引き移したような好都合にもなる。その代りよし子が美禰子の家へ同居してしまった。この兄妹《きょうだい》は絶えず往来していないと治まらないようにできあがっている。絶えず往来しているうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移ってくる。すると野々宮さんがまたいつなんどき下宿生活を永久にやめる時機がこないともかぎらない。

 三四郎は頭のなかに、こういう疑いある未来を、描きながら、美禰子と応対をしている。いっこうに気が乗らない。それを外部の態度だけでも普通のごとくつくろおうとすると苦痛になってくる。そこへうまいぐあいによし子が帰ってきてくれた。女同志のあいだには、もう一ぺん競技を見に行こうかという相談があったが、短くなりかけた秋の日がだいぶ回ったのと、回るにつれて、広い戸外の肌寒《はださむ》がようやく増してくるので、帰ることに話がきまる。

 

 

よし子の話題は避けなければならないのに、すぐ口にする三四郎。美禰子の立場に立って見ると、いい気がしないのに。

よし子については、以前に「よし子は当て馬か」という文を書いています。ご参考まで。

ここでは野々宮さんが下宿したことの、自分へのメリットとデメリットを考え込んでいます。野々宮さんのことを気にしすぎて、美禰子と正対することができません。美禰子には物足りない三四郎の態度です。

 

 

三四郎も女|連《れん》に別れて下宿へもどろうと思ったが、三人が話しながら、ずるずるべったりに歩き出したものだから、きわだった挨拶《あいさつ》をする機会がない。二人は自分を引っ張ってゆくようにみえる。自分もまた引っ張られてゆきたいような気がする。それで二人にくっついて池の端《はた》を図書館の横から、方角違いの赤門の方へ向いてきた。そのとき三四郎は、よし子に向かって、

「お兄《あに》いさんは下宿をなすったそうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、

「ええ。とうとう。ひとを美禰子さんの所へ押しつけておいて。ひどいでしょう」と同意を求めるように言った。三四郎は何か返事をしようとした。そのまえに美禰子が口を開いた。

「宗八さんのようなかたは、我々の考えじゃわかりませんよ。ずっと高い所にいて、大きな事を考えていらっしゃるんだから」と大いに野々宮さんをほめだした。よし子は黙って聞いている。

 学問をする人がうるさい俗用を避けて、なるべく単純な生活にがまんするのは、みんな研究のためやむをえないんだからしかたがない。野々宮のような外国にまで聞こえるほどの仕事をする人が、普通の学生同様な下宿にはいっているのも必竟《ひっきょう》野々宮が偉いからのことで、下宿がきたなければきたないほど尊敬しなくってはならない。――美禰子の野々宮に対する賛辞のつづきは、ざっとこうである。

 

 

戻ってきたよし子との会話から、美禰子が野々宮さんの人物評を語り出します。兄が大好きなよし子は黙って聞いています。

美禰子と野々宮の関係がわかるのでしょうか。

三四郎は美禰子の言葉をどう受け止めたのでしょうか。

 

 

 

三四郎は赤門の所で二人に別れた。追分《おいわけ》の方へ足を向けながら考えだした。――なるほど美禰子の言ったとおりである。自分と野々宮を比較してみるとだいぶ段が違う。自分は田舎から出て大学へはいったばかりである。学問という学問もなければ、見識という見識もない。自分が、野々宮に対するほどな尊敬を美禰子から受けえないのは当然である。そういえばなんだか、あの女からばかにされているようでもある。さっき、運動会はつまらないから、ここにいると、丘の上で答えた時に、美禰子はまじめな顔をして、この上には何かおもしろいものがありますかと聞いた。あの時は気がつかなかったが、いま解釈してみると、故意に自分を愚弄《ぐろう》した言葉かもしれない。――三四郎は気がついて、きょうまで美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返してみると、どれもこれもみんな悪い意味がつけられる。三四郎は往来のまん中でまっ赤になってうつむいた。ふと、顔を上げると向こうから、与次郎とゆうべの会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を縦に振ったぎり黙っている。学生は帽子をとって礼をしながら、

「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」と笑って行き過ぎた。

 

 

野々宮さんのようなかたは我々の考えじゃわからないと言う美禰子の意図は、三四郎と比較したものではなく、美禰子や三四郎とは次元の違う世界にいて、求めているものが違う、つまり、距離の離れた人だということです。

この発言から考えると、美禰子は、野々宮にたいして、尊敬はするが、愛情は抱いていないようです。

ところが、三四郎は、野々宮を意識しすぎているのか、そうは受け止めません。

「あの女からばかにされている」「恋に自分を愚弄した言葉かもしれない」と気づき、「きょうまで美禰子の自分に対する態度や言葉を悪い意味がつけられる」ように感じるのです。そして「往来のまん中で真っ赤になってうつむいた」のです。

だまされていた、恥をかかされた、悪意が込められていた、と極端な解釈をしてしまいます。

自尊心を傷つけられ、赤面する。

異常な反応だと思いませんか。

心理学的な見立ては私にはわかりませんが、三四郎の常軌を逸した被害者意識、自己中心的な、主観的な解釈、客観的な判断力を失った姿がうかがえます。

これでは美禰子はたまったものではありません。悪意のある女で、三四郎を惑わせ、もてあそぶ悪い女。

そんなイメージが作り上げられてしまいます。

もちろんそれは間違っています。

 

三四郎は、この「認知のゆがみ」に気づけばよかったのですが、これがこの後、美禰子との決別に繋がっていきます。

美禰子の描いた羊の絵の意味は STRAY SHEEPの種明かし「三四郎」夏目漱石

美禰子の本心をつかめるチャンスを逃した三四郎。美禰子の言った「STRAY SHEEP」の意味が分からず、とまどうばかりでした。

 

そんな三四郎の元に美禰子から絵はがきが届きます。

それには、二匹の羊と、大きな男が立っている絵が描かれていました。男は獰猛な顔つきで、

デビルと仮名が振られています。

本文は青空文庫から引用しました。

 

下宿へ帰って、湯にはいって、いい心持ちになって上がってみると、机の上に絵はがきがある。小川をかいて、草をもじゃもじゃはやして、その縁に羊を二匹寝かして、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。男の顔がはなはだ獰猛《どうもう》にできている。まったく西洋の絵にある悪魔《デビル》を模したもので、念のため、わきにちゃんとデビルと仮名《かな》が振ってある。表は三四郎の宛名《あてな》の下に、迷える子と小さく書いたばかりである。三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあんに自分に見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくであったとみえる。美禰子の使った stray《ストレイ》 sheep《シープ》 の意味がこれでようやくはっきりした。

 与次郎に約束した「偉大なる暗闇」を読もうと思うが、ちょっと読む気にならない。しきりに絵はがきをながめて考えた。イソップにもないような滑稽《こっけい》趣味がある。無邪気にもみえる。洒落《しゃらく》でもある。そうしてすべての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。

 手ぎわからいっても敬服の至りである。諸事明瞭にでき上がっている。よし子のかいた柿の木の比ではない。――と三四郎には思われた。

 

  

美禰子は、先日の菊人形の混雑から逃れた美禰子と三四郎を羊に見立て、STRAY SHEEPとしているのです。

これを見た三四郎は、「はなはだうれしく思った」、「美禰子の使ったSTRAY BSHEEPの意味がこれでようやくはっきりした」と思います。

三四郎には謎だった美禰子の言葉は、二人は、どうしていいかわからない、決められない仲間同士、つまり、似たもの同士だというものだったのです。

STRAY SHEEPの種明かしをしています。

 

こんなイラスト付きの絵はがきを好きな女から送られたら、男はいちころになりますね。

洒落込んでいます。

美禰子は、すごかったのです。三四郎をあきらめたのではなかった。

より強烈な一手を三四郎に送りつけてきました。当然、三四郎の反応を待っているはずです。

三四郎は、「よし子のかいた柿の木の比ではない。ーと三四郎には思われた。」

よし子と比べてるどころじゃないぞ、三四郎。

すぐに返事を返さなくては。

 

ところが、「ぐずぐずしているうちに」出かける時間になってしまい、結局、返事は出さなかったのです。

また美禰子の絵はがきを取って、二匹の羊と例の悪魔《デビル》をながめだした。するとこっちのほうは万事が快感である。この快感につれてまえの不満足はますます著しくなった。それで論文の事はそれぎり考えなくなった。美禰子に返事をやろうと思う。不幸にして絵がかけない。文章にしようと思う。文章ならこの絵はがきに匹敵する文句でなくってはいけない。それは容易に思いつけない。ぐずぐずしているうちに四時過ぎになった。

 

  

挙げ句に「既読スルー」です。

はがきをもらって相手の思いがわかって、うれしかったのなら、とりあえずの返事くらいは出しましょうよ。普通の男なら。

 

三四郎の、この間の悪さ、気の効かないところは、コミュニケーション能力の欠如というよりも、一種、病的なものに思えてきます。

考えすぎて行動できない病か、完璧を求めてかえって何もしない病か、要するに、頭でっかちで、自分のことにとらわれて、相手のことに心が及ばないのです。

 

そら、あかんやろ、三四郎。

三四郎の残念なところです。

この後、三四郎はどう挽回するのでしょうか。

 

続く(予定)

STRAYSHEEPの謎を考える 美禰子が口にした「ストレイシープ」とは「三四郎」夏目漱石

いよいよストレイシープの登場です。「迷える子」を美禰子はどんな意味で言ったのでしょうか。

「三四郎」最大の謎を考えてみました。

 

本文は青空文庫から引用しました。

 

美禰子に誘われて三四郎は、広田先生、野々宮兄妹と五人で菊人形を見に出かけます。

途中で急に体調不良になった美禰子。気づいた三四郎は他の三人を置いて会場から出ます。

三四郎は群集《ぐんしゅう》を押し分けながら、三人を棄てて、美禰子のあとを追って行った。

 ようやくのことで、美禰子のそばまで来て、

「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹《あおだけ》の手欄《てすり》に手を突いて、心持ち首をもどして、三四郎を見た。なんとも言わない。手欄のなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧《おの》をさした男が、瓢箪《ひょうたん》を持って、滝壺のそばにかがんでいる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるかほとんど気がつかなかった。

「どうかしましたか」と思わず言った。美禰子はまだなんとも答えない。黒い目をさもものうそうに三四郎の額の上にすえた。その時三四郎は美禰子の二重瞼《ふたえまぶた》に不可思議なある意味を認めた。その意味のうちには、霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、この眸《ひとみ》とこの瞼《まぶた》の間にすべてを遺却《いきゃく》した。すると、美禰子は言った。

「もう出ましょう」

 眸と瞼の距離が次第に近づくようにみえた。近づくに従って三四郎の心には女のために出なければすまない気がきざしてきた。それが頂点に達したころ、女は首を投げるように向こうをむいた。手を青竹の手欄《てすり》から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐあとからついて出た。

 二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦《うず》を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。

「どうかしましたか」

 

 

美禰子の様子は、単に人混みの中で気分が悪くなったのとは違うものです。

「霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。」

 

精神的な疲れ、肉体的な疲れ、それらが苦痛となって訴えているのです。

美禰子は、菊人形の会場に来る前に、野々宮さんと軽く口論をしています。考えのすれ違いがあったのです。

 

会場までの道中で、物乞いをする乞食、七歳ぐらいの女の子の迷子に出会います。

それぞれに広田先生と野々宮さんが批評をします。その時の広田先生の言葉が「責任をのがれる」です。あとで美禰子がこの言葉を引用しています。

 

 三四郎はこの静かな秋のなかへ出たら、急にしゃべり出した。

「どうです、ぐあいは。頭痛でもしますか。あんまり人がおおぜい、いたせいでしょう。あの人形を見ている連中のうちにはずいぶん下等なのがいたようだから――なにか失礼でもしましたか」

女は黙っている。やがて川の流れから目を上げて、三四郎を見た。二重瞼にはっきりと張りがあった。三四郎はその目つきでなかば安心した。

「ありがとう。だいぶよくなりました」と言う。

「休みましょうか」

「ええ」

「もう少し歩けますか」

「ええ」

「歩ければ、もう少しお歩きなさい。ここはきたない。あすこまで行くと、ちょうど休むにいい場所があるから」

「ええ」

 一丁ばかり来た。また橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大またに歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の目には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽くみえた。この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。

 向こうに藁《わら》屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子《とうがらし》を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。

「美しいこと」と言いながら、草の上に腰をおろした。草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は派手《はで》な着物のよごれるのをまるで苦にしていない。

「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促すように言ってみた。

「ありがとう。これでたくさん」

「やっぱり心持ちが悪いですか」

「あんまり疲れたから」

 三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。

 

やや回復した様子の美禰子を見て安心する三四郎。さらに歩けないかと促します。

足元が悪い中、「わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。」

と三四郎は思うのです。

 

ここは、手を貸して介添えするところでしょう。遠慮しているときではありません。まして「わざと女らしく甘えた歩き方をしない」なんて批評する場面でもありません。

相手(美禰子)のことを心配しているなら、そんな遠慮や分析は不要です。

まして、好きな女なら、もっと近づいて介助したくなるでしょうが、三四郎はそれができないのです。

 

腰を下ろす美禰子に対して、さらに歩けないかと促す三四郎。拒む美禰子。仕方なく、きたない草の上に腰を下ろします。

美禰子との間は四尺、およそ1.2メートルの距離があります。

三四郎は、パーソナルディスタンスを取り過ぎじゃないですか?

もっと距離を縮めておく場面です。

 

空を眺める美禰子とのやりとりは、今ひとつかみ合っていません。そこへ、

 ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の陰から出て、いつのまにか川を向こうへ渡ったものとみえる。二人のすわっている方へだんだん近づいて来る。洋服を着て髯《ひげ》をはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに憎悪《ぞうお》の色がある。三四郎はじっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。その後影を見送りながら、三四郎は、

「広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう」とはじめて気がついたように言った。美禰子はむしろ冷やかである。

「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」

「迷子だから捜したでしょう」と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で、

「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」

「だれが? 広田先生がですか」

 美禰子は答えなかった。

「野々宮さんがですか」

 美禰子はやっぱり答えなかった。

「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」

美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。

 

突然、見知らぬ男から憎悪を向けられた二人。若い男女が二人でいることが許せなかったのでしょう。

現代から見れば、「変なおじさん」ですが、これが当時の男女の交際に対する世間の認識なのです。一種の自粛警察です。

 

三四郎は、男が去ったあと、広田先生や野々宮さんのことを口にします。美禰子と二人きりになったことをまずいことだと認識したのでしょうか。

これに対して美禰子は痛烈なひと言を返します。

「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」

これは、乞食や迷子に対して見向きもしない人々を広田先生が評した言葉でした。

 

つまり、現実に関わろうとしない人、傍観者の意味です。

 

美禰子から見ると、広田先生も野々宮さんもそのような存在に見えているということです。

 

三四郎は驚きます。

「その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。」

 

美禰子の不調よりも、広田先生や野々宮さんへの体面を気にする三四郎。

美禰子に内心を見通されたと思い込んで勝手に屈辱を感じています。

 

下心を見ぬかれたならまだしも、体面を気にすることを見抜かれたと思い、屈辱まで感じる三四郎。

美禰子への恋心よりも、世間(広田、野々宮)へのメンツを重視するような男では、美禰子の心は動かないでしょう。

しかも見透かされたといって屈辱まで感じるプライドはいったい何なんでしょうか。

 

東大生だから?

広田先生や野々宮さんのように学問研究の世界に生きようとしている人間だから?

 これが漱石の言う「自己本位」なのでしょうか。

たしかに、それも大事ですが、今、現実には美禰子が目の前で苦しんでいる、それが一番大事にすることではないでしょうか。

 

それではダメだろう、三四郎!と叱りたくなる場面です。

 

 

「迷子」

 女は三四郎を見たままでこの一言《ひとこと》を繰り返した。三四郎は答えなかった。

「迷子の英訳を知っていらしって」

 三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。

「教えてあげましょうか」

「ええ」

「|迷える子《ストレイ・シープ》――わかって?」

三四郎はこういう場合になると挨拶《あいさつ》に困る男である。咄嗟《とっさ》の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間《はんま》であると自覚している

 |迷える子《ストレイ・シープ》という言葉はわかったようでもある。またわからないようでもある。わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。すると女は急にまじめになった。

「私そんなに生意気に見えますか」

その調子には弁解の心持ちがある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。

三四郎は美禰子の態度をもとのような、――二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片づかない空のような、――意味のあるものにしたかった。けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいで戻《もど》せるものではないと思った。女は卒然として、

「じゃ、もう帰りましょう」と言った。厭味《いやみ》のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調《くちょう》であった。

 

「ストレイシープーわかって?」と美禰子に問われた三四郎は、黙り込みます。そして「半間」であることを自覚しています。

半間とは、まぬけなこと。気のきかないこと。

反応できない三四郎の態度は、discommunicationディスコミュニケーション(相互不達)の極致ですね。

いいかっこしなくていいので、何かひと言、美禰子に返していたら、違っていただろうに。

 

三四郎は、

「わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。」

三四郎は、考え込んで黙り込んでしまいます。

その結果、美禰子は、

「私そんなに生意気に見えますか」

と口にします。

 

ここまで言わせるとは、

美禰子が哀れでなりません。

 

ところが三四郎は、これに対して、

「今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。」

 

美禰子の本心がわかりかけたのに、そのことが「恨めしい」と思うのは、なぜでしょう?

現実よりも理想の方が大事だと考えているからです。

美禰子の態度をもとのような意味のあるものにしたかったと願う三四郎。

三四郎に気に入られたい美禰子の気持ちを理解することができないのです。

三四郎のこの態度が美禰子を傷つけたのは間違いありません。

 

帰りましょうと言う美禰子。

「ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調であった」

 

野々宮さんとの交際はあるが、考えが合わない。しっくりしない。

そこに現れた三四郎に美禰子は、自分を理解してくれる者ではと期待しています。

ところが、三四郎の態度もどこか煮えきらず、つかめない。

美禰子の失望を思うと、気の毒になります。

 

三四郎は、美禰子に対して、せめて共感なり、理解なりができなかったのでしょうか。

 

 空はまた変ってきた。風が遠くから吹いてくる。広い畑の上には日が限って、見ていると、寒いほど寂しい。草からあがる地息《じいき》でからだは冷えていた。気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。美禰子も――美禰子はこんな所へすわる女かもしれない。

「少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか」

「ええ、すっかり直りました」と明らかに答えたが、にわかに立ち上がった。立ち上がる時、小さな声で、ひとりごとのように、

「|迷える子《ストレイ・シープ》」と長く引っ張って言った。三四郎はむろん答えなかった。

 美禰子は、さっき洋服を着た男の出て来た方角をさして、道があるなら、あの唐辛子のそばを通って行きたいという。二人は、その見当へ歩いて行った。藁葺《わらぶき》のうしろにはたして細い三尺ほどの道があった。その道を半分ほど来た所で三四郎は聞いた。

「よし子さんは、あなたの所へ来ることにきまったんですか」

 女は片頬《かたほお》で笑った。そうして問い返した。

「なぜお聞きになるの」

 三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘《ぬかるみ》があった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。

「おつかまりなさい」

「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄《げた》をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。

「|迷える子《ストレイ・シープ》」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸《いき》を感ずることができた。

 

せっかくのチャンスを棒に振った三四郎。さらに、よし子のことを尋ねて美禰子に不審を抱かれます。いや、不興を買ったというほうが適切です。

 

最後に美禰子が口にした「ストレイシープ」。

美禰子に対する態度を決めかねている三四郎に向かって、「あなたも私と同様、迷える子なのよ」と言いたかったのでしょう。

 

続く(予定)

STRAY SHEEPの謎を考える よし子は当て馬か?「三四郎」夏目漱石

 

 

 

STRAY SHEEPの謎を考える中で、よし子という存在が気になります。

 

女性に慎重な三四郎が、よし子のことは最初から全肯定なのです。

疑ったり、考え込んだりすることなく、よし子を素直に受け入れて、まるで母親のように感じるのです。

 

 よし子に始めて出会う場面

野々宮さんに頼まれて、入院している妹のよし子に届け物をする場面です。

青空文庫から引用しました。

 女は三四郎を待ち設けたように言う。その調子には初対面の女には見いだすことのできない、安らかな音色《ねいろ》があった。純粋の子供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、こうは出られない。なれなれしいのとは違う。初めから古い知り合いなのである。同時に女は肉の豊かでない頬《ほお》を動かしてにこりと笑った。青白いうちに、なつかしい暖かみができた。三四郎の足はしぜんと部屋の内へはいった。その時青年の頭のうちには遠い故郷にある母の影がひらめいた。

 

美禰子に劣らず若くて美しいよし子に対して三四郎は、美禰子とは正反対の受け止め方をしています。

 

広田先生の引っ越し手伝いの場面で、美禰子と急接近した三四郎は、美禰子、広田先生、与次郎の四人で楽しそうに談話していると、野々宮さんがやってきます。
野々宮さんが登場した後、三四郎の言葉は一言だけ。あとは黙ってすわっています。

三四郎の、野々宮さんに対する警戒心がうかがえます。


そして、次の章では三四郎は驚きの行動をとっています。

野々宮の家に出かけていき、妹のよし子から、美禰子と野々宮の関係を聞き出そうとします。

その時の、よし子とのやりとりを見てみましょう。

 
現代から見ると、ふさわしくない表現が含まれています。文学鑑賞という次元で考察するため、そのまま引用します。

「おはいりなさい」

 依然として三四郎を待ち設けたような言葉づかいである。三四郎は病院の当時を思い出した。萩を通り越して椽鼻まで来た。

「お敷きなさい」

 三四郎は蒲団を敷いた。門をはいってから、三四郎はまだ一言《ひとこと》も口を開かない。この単純な少女はただ自分の思うとおりを三四郎に言うが、三四郎からは毫《ごう》も返事を求めていないように思われる。三四郎は無邪気なる女王の前に出た心持ちがした。命を聞くだけである。お世辞を使う必要がない。一言でも先方の意を迎えるような事をいえば、急に卑しくなる、唖《おし》の奴隷のごとく、さきのいうがままにふるまっていれば愉快である。三四郎は子供のようなよし子から子供扱いにされながら、少しもわが自尊心を傷つけたとは感じえなかった。

 (中略)

 茶の間で話し声がする。下女はいたに違いない。やがて襖《ふすま》を開いて、茶器を持って、よし子があらわれた。その顔を正面から見た時に、三四郎はまた、女性中のもっとも女性的な顔であると思った。

 よし子は茶をくんで椽側へ出して、自分は座敷の畳の上へすわった。三四郎はもう帰ろうと思っていたが、この女のそばにいると、帰らないでもかまわないような気がする。病院ではかつてこの女の顔をながめすぎて、少し赤面させたために、さっそく引き取ったが、きょうはなんともない。茶を出したのをさいわいに椽側と座敷でまた談話を始めた。

(中略)

三四郎はよし子に対する敬愛の念をいだいて下宿へ帰った。 

 

 

 

兄の野々宮を敬愛し、だだをこねるように甘えるよし子。野々宮と恋愛関係にあるのか今一つはっきりしない美禰子。

 

三四郎が訪問したとき、絵を描いていたよし子。原口さんに絵を描かれている美禰子。

 

三四郎には単純な少女、無邪気な女王、子供のようなと思われているよし子。美禰子は謎めく女性。

 

二人は対照的です。「三四郎」の中で、よし子の存在は、美禰子のアンチテーゼとして、美禰子とはパラレルな関係を示しています。

 

 

 よし子の存在を考えてみると、漱石は、三角関係を設定しようとしたのではないでしょうか。三四郎と美禰子とよし子。

しかし、うまくいかなかったようです。

すでに野々宮さんと美禰子、三四郎という三角関係があるので、さらによし子が加わると、ややこし過ぎて読者はついて行けません。

 

三四郎の求める理想の女性は美禰子で、現実はよし子なのかも知れません。

 

三四郎に後日談があるとすれば、美禰子に振られた三四郎は、よし子と結婚することになるでしょう。