「現代小説作法」第六章 「プロットについて」
私は、小説は筋があるものが好みなので、プロットという語に惹かれて読みました。
まずはプロットの説明です。
プロットは普通「筋」と訳され、ストオリーと混同されがちですが、実ははっきりした区別があります。(略)ストオリーは時間の順序に従って、興味ある事件を物語るけれど、プロットは物語る順序を、予め「仕組む」ことを意味します。
「ストオリー」という表記に少し違和感がありますが、気にせず読み進めていきましょう。
「王が死に、それから王妃が死んだ」と書けばストオリーだが、「王が死に、悲しみのあまり王妃が死んだ」あるいは「王妃が死んだ。そのわけは誰も知らなかったが、王の崩御を悲しんだためであることがわかった」と書けばプロットだ、と「印度への道」の作者フォースターが書いています。(「小説の諸相」田中西二郎訳 新潮文庫)
この本は引用が多いです。わかりやすい引用文です。
近頃誰それは、「すぐれたストオリー・テラーだ」といわれることがありますが、実際はプロットの立て方のうまいことを意味する場合が多いのです。新派や歌舞伎で「趣向」といわれたものに当たるので、自然主義以来、趣向は実感の伴わないものとして排斥されていました。
小説家が小説に取りかかる前に、プロットを考えておく方がいいといわれるようになったのは、読者がそういう実感尊重や写実的短編に飽き、筋のある長編小説を求めるようになった昭和中期以降です。しかし実際は作家がこの問題をどんな風に処理していたかは、次の川端康成の証言にあらわれています。
「実際創作に当たっている人の体験を聞くと、日本の作家にはあまり筋(プロット)を考えず、書き出しに色々と苦心をし、あとはその場その場でもっとも妥当と思われる方向に小説を運んでゆくという人がかなりいるようである。また最初から作品の筋を全部考えておいて、それに従って整然と書き進めるという方法による作家もある。これは両方ともプロットが有るのであって、前者はとかくプロットがないというように考えられがちであるけれども、これは間違いである。主題がはっきりときまって作者の肚が出来上がっていれば、プロットは自らきまってゆくことが多い」(「小説の研究」角川文庫)
これは川端康成氏の体験に基づいた言葉であるだけに貴重です。事実今日でも新聞雑誌の連載小説は、たいていその場その場の即興で運ばれ、結末で辻褄を合わせるという風に書かれることが多いので、厳密な意味でプロットを立てて書いた作家は、藤村、荷風、潤一郎ぐらいなものかも知れません。
プロットを考える上で貴重な文章だと思うので、長い引用をしました。
川端康成は厳密な意味でのプロットは立てなかったようです。
私は、島崎藤村は読んでいないのでわかりません。
永井荷風、谷崎潤一郎は両者とも愛読する小説家です。
大岡昇平は、「彼等の作品がいつまでも読むにたえる理由の一つはここにあります」と述べています。谷崎は小説を建築にたとえていたような文章を読んだ記憶がありますが、はっきり思い出せません。
若い人は荷風も谷崎もほとんど知らないでしょう。高校の教科書には谷崎の「陰影礼賛」が載っていたことがありますが、最近はあまり見かけません。残念です。
谷崎潤一郎のおすすめは、「蘆刈」という作品です。プロット云々も結末部で確認できます。
さて、「現代小説作法」にもどって、このあとを見ると推理小説について文庫で7ページにわたり書かれています。むしろこのあとがこの章のメインかもしれません。
著者は推理小説に重きを置いているようです。
私は推理小説は読まないので、推理小説をお好きな方は是非原典で確認してください。