美禰子の家を辞し、付いて出てきた美禰子と当てもなく歩く三四郎。
本文は青空文庫から引用しました。
二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあいだ三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通の女性《にょしょう》以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義だから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。
そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。
「どこへいらっしゃるの」
「あなたはどこへ行くんです」
二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。
「いっしょにいらっしゃい」
1町は109メートル。半町は50メートルほどです。その間、無言で歩く二人。気まずいはずですが、三四郎の頭の中は、美禰子への不信感にあふれています。
わがままに育ったに違いないとか、家庭にいると、やりたい放題するだろうとか、こうして男と出歩くのも田舎ではとてもできないことだとか。
三四郎には、美禰子への反感があるとしか考えられません。
自分で勝手に気を悪くして、相手に非があると決めつける、何ともこだわりの強い性格が表れています。
イプセンなんて考えている場合ではないぞ、三四郎。
こんな性格で、ちゃんと学問ができるのかしらんと思います。
二人で微妙に歩を合わせながら、どこに向かっているかもわからない。
二人とも文字通り、「STRAY SHEEP」迷える羊状態です。
ようやく美禰子が、どこへ行くのかと尋ねます。笑った美禰子が、先導します。
二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、
「お願い」と言った。
「なんですか」
「これでお金を取ってちょうだい」
三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座|預金通帳《あずかりきんかよいちょう》とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。
「三十円」と女が金高《きんだか》を言った。あたかも毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津《とよつ》まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要の金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。
「お願い」「これでお金を取ってちょうだい」と美禰子が下手に出て、三四郎に提案します。
与次郎が三四郎から借りている金額は、二十円です。与次郎が美禰子にいくら借りたいと言ったのかはわかりませんが、美禰子は十円多い額を三四郎に預けます。
すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、
「丹青会《たんせいかい》の展覧会を御覧になって」と聞いた。
「まだ見ません」
「招待券《しょうたいけん》を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」
「行ってもいいです」
「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」
「原口さんが招待券をくれたんですか」
「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」
「広田先生の所で一度会いました」
「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子を稽古なさるんですって」
「このあいだは鼓《つづみ》をならいたいと言っていました。それから――」
「それから?」
「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」
「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質《たち》である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。
三四郎はまた隠袋《かくし》へ手を入れた。銀行の通帳《かよいちょう》と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間にはさんでおいたはずである。しかるに女が、
「お金は」と言った。見ると、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った。中から手ずれのした札をつかみ出した。女は手を出さない。
「預かっておいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑のような気がした。しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。
おそらく美禰子は、三四郎が訪問した時から丹青会の展覧会へ一緒に行こうと決めていたのでしょう。きれいな着物に着替えていたことからわかります。
ところが、三四郎は勝手に気を悪くして帰ると言い出したので、美禰子は、自分も外出するのでと言って、三四郎に付いてきました。
さらに、金を渡し、展覧会まで誘うという、美禰子のけなげな努力に三四郎は気付くべきでした。
それもわからず、「いささか迷惑」「妙な女だ」と思うのです。これでは、美禰子に対し、ひど過ぎです。
三四郎の訪問で、愛を確認したかった美禰子は、それが実現せず、三四郎がどうでもいいというお金を渡すことになる。
三四郎は美禰子の態度から判断したいと思うが、美禰子の思いをくみ取れずに、愛を受け入れないで、どうでもいいというお金を受け取ることになる。
二人に介在するのは愛ではなく、お金になってしまった、皮肉な場面です。