bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

美禰子の異変を目にする三四郎 原口さんのアトリエで STRAY SHEEPのなぞを考える

三四郎が、よし子と一緒に野々宮さんの下宿に行ったとき、野々宮さんから、よし子の見合い話が出ました。

 

翌日、三四郎は国から届いた金を持って学校に出て、与次郎から、美禰子が絵のモデルとして毎日通っている画家の原口さんの住所を聞き出します。

 

広田先生を病気見舞いに訪れますが、先客があり、辞して原口さん宅へ向かいました。

日が経っているように感じますが、よし子の縁談を聞いた翌日の出来事です。

 

本文は青空文庫から引用しました。

 

「かけたまえ。――あれだ」と言って、かきかけた画布《カンバス》の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はただ、

「なるほど大きなものですな」と言った。原口さんは、耳にも留めないふうで、

「うん、なかなか」とひとりごとのように、髪の毛と、背景の境の所を塗りはじめた。三四郎はこの時ようやく美禰子の方を見た。すると女のかざした団扇の陰で、白い歯がかすかに光った。

 それから二、三分はまったく静かになった。部屋は暖炉《だんろ》で暖めてある。きょうは外面《そと》でも、そう寒くはない。風は死に尽した。枯れた木が音なく冬の日に包まれて立っている。三四郎は画室へ導かれた時、霞《かすみ》の中へはいったような気がした。丸テーブルに肱《ひじ》を持たして、この静かさの夜にまさる境に、はばかりなき精神《こころ》をおぼれしめた。この静かさのうちに、美禰子がいる。美禰子の影が次第にでき上がりつつある。肥《ふと》った画工の画筆《ブラッシ》だけが動く。それも目に動くだけで、耳には静かである。肥った画工も動くことがある。しかし足音はしない。

 静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。団扇をかざして立った姿そのままがすでに絵である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写しているのではない。不可思議に奥行きのある絵から、精出して、その奥行きだけを落として、普通の絵に美禰子を描き直しているのである。にもかかわらず第二の美禰子は、この静かさのうちに、次第と第一に近づいてくる。三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで双方《そうほう》がぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。原口さんの画筆《ブラッシ》はそれより先には進めない。三四郎はそこまでついて行って、気がついて、ふと美禰子を見た。美禰子は依然として動かずにいる。三四郎の頭はこの静かな空気のうちで覚えず動いていた。酔った心持ちである。すると突然原口さんが笑いだした。

「また苦しくなったようですね」

 女はなんにも言わずに、すぐ姿勢をくずして、そばに置いた安楽椅子へ落ちるようにとんと腰をおろした。その時白い歯がまた光った。そうして動く時の袖とともに三四郎を見た。その目は流星のように三四郎の眉間《みけん》を通り越していった。

 

 

本物の美禰子が第一、絵の美禰子が第二です。

そして、「三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで双方《そうほう》がぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。」とあるのですが、ここはちょっと何言ってるかわからない。

「時の流れが急に向きを変えて永久の中に注いでしまう。」とはどういうことでしょうか。

本物の美禰子に内面の異変が生じて、絵の中の美禰子と乖離してしまうという意味でしょうか。

 

原口さんが結婚に関する話題を出します。

 

「それから、どうなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思ったものか、まだあとをつけた。

どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たまえ、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会の原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね

「でも兄は近々《きんきん》結婚いたしますよ」

「おや、そうですか。するとあなたはどうなります」

「存じません」

 三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑った。原口さんだけは絵に向いている。「存じません。存じません――じゃ」と画筆《ブラッシ》を動かした。

 

 

原口さんは突然、結婚についてのエピソードを語ります。そして、結婚は考え物だ、広田先生も野々宮さんも、里見恭助も、自分も結婚していない、女が偉くなりすぎると独身が増えると言います。

三四郎もこのグループに所属しています。

美禰子は、兄の結婚を話したため、原口さんにあなたはどうなると問われ、「存じません」と答えています。

当然、美禰子のこの答えは事実ではありません。

 

 

三四郎はこの機会を利用して、丸テーブルの側を離れて、美禰子の傍へ近寄った。美禰子は椅子の背に、油気《あぶらけ》のない頭を、無造作に持たせて、疲れた人の、身繕いに心なきなげやりの姿である。あからさまに襦袢《じゅばん》の襟《えり》から咽喉首《のどくび》が出ている。椅子には脱ぎ捨てた羽織をかけた。廂髪《ひさしがみ》の上にきれいな裏が見える。

 三四郎は懐に三十円入れている。この三十円が二人の間にある、説明しにくいものを代表している。――と三四郎は信じた。返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。思いきって、今返そうとするのもこれがためである。返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、いっそう近づいて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。

 

 

美禰子が貸してくれた三十円が、唯一の紐帯になってしまっているにもかかわらず、三四郎は、美禰子が近づいてくると期待しています。

 

「里見さん」と言った。

「なに」と答えた。仰向いて下から三四郎を見た。顔をもとのごとくにおちつけている。目だけは動いた。それも三四郎の真正面で穏やかにとまった。三四郎は女を多少疲れていると判じた。

「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」と言いながら、ボタンを一つはずして、内懐《うちぶところ》へ手を入れた。

 女はまた、

「なに」と繰り返した。もとのとおり、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎はどうしようと考えた。やがて思いきった。

「このあいだの金です」

「今くだすってもしかたがないわ」

 女は下から見上げたままである。手も出さない。からだも動かさない。顔も元のところにおちつけている。男は女の返事さえよくは解《げ》しかねた。

 

中略

 

画筆はまた動きだす。背を向けながら、原口さんがこう言った。

「小川さん。里見さんの目を見てごらん」

 三四郎は言われたとおりにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いてガラス越しに庭をながめている。

「いけない。横を向いてしまっちゃ、いけない。今かきだしたばかりだのに」

「なぜよけいな事をおっしゃる」と女は正面に帰った。原口さんは弁解をする。

「ひやかしたんじゃない。小川さんに話す事があったんです」

「何を」

「これから話すから、まあ元のとおりの姿勢に復してください。そう。もう少し肱を前へ出して。それで小川さん、ぼくの描いた目が、実物の表情どおりできているかね」

 

 

 

美禰子は疲れているように見えます。三四郎が声を掛けても反応が鈍い。

美禰子の目を見るようにと言う原口さんに機嫌を悪くする美禰子。

三四郎に悟られたくないことが美禰子の内面にあるのです。

 

 

「こうやって毎日描いていると、毎日の量が積もり積もって、しばらくするうちに、描いている絵に一定の気分ができてくる。だから、たといほかの気分で戸外《そと》から帰って来ても、画室へはいって、絵に向かいさえすれば、じきに一種一定の気分になれる。つまり絵の中の気分が、こっちへ乗り移るのだね。里見さんだって同じ事だ。しぜんのままにほうっておけばいろいろの刺激でいろいろの表情になるにきまっているんだが、それがじっさい絵のうえへ大した影響を及ぼさないのは、ああいう姿勢や、こういう乱雑な鼓《つづみ》だとか、鎧《よろい》だとか、虎《とら》の皮だとかいう周囲《まわり》のものが、しぜんに一種一定の表情を引き起こすようになってきて、その習慣が次第にほかの表情を圧迫するほど強くなるから、まあたいていなら、この目つきをこのままで仕上げていけばいいんだね。それに表情といったって……」

 原口さんは突然黙った。どこかむずかしいところへきたとみえる。二足《ふたあし》ばかり立ちのいて、美禰子と絵をしきりに見比べている。

「里見さん、どうかしましたか」と聞いた。

「いいえ」

 この答は美禰子の口から出たとは思えなかった。美禰子はそれほど静かに姿勢をくずさずにいる。

「それに表情といったって」と原口さんがまた始めた。「画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ見世《みせ》を出しているところを描くんだから、見世さえ手落ちなく観察すれば、身代はおのずからわかるものと、まあ、そうしておくんだね。見世でうかがえない身代は画工の担任区域以外とあきらめべきものだよ。だから我々は肉ばかり描いている。どんな肉を描いたって、霊がこもらなければ、死肉だから、絵として通用しないだけだ。そこでこの里見さんの目もね。里見さんの心を写すつもりで描いているんじゃない。ただ目として描いている。この目が気に入ったから描いている。この目の恰好《かっこう》だの、二重瞼《ふたえまぶた》の影だの、眸《ひとみ》の深さだの、なんでもぼくに見えるところだけを残りなく描いてゆく。すると偶然の結果として、一種の表情が出てくる。もし出てこなければ、ぼくの色の出しぐあいが悪かったか、恰好の取り方がまちがっていたか、どっちかになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだからしかたがない」

 原口さんは、この時また二足ばかりあとへさがって、美禰子と絵とを見比べた。

「どうも、きょうはどうかしているね。疲れたんでしょう。疲れたら、もうよしましょう。――疲れましたか」

「いいえ」

 

 

原口さんの言う、一定の表情が今日の美禰子には出てこないのです。

なぜ、「きょうはどうかしている」と原口さんに言わせるほどの変化が美禰子に会ったのでしょうか。

それは、三四郎が登場したからです。次では、三四郎が美禰子の異変に気づきます。

 

 

三四郎はこの画家の話をはなはだおもしろく感じた。とくに話だけ聞きに来たのならばなお幾倍の興味を添えたろうにと思った。三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話のうえにもない、原口さんの絵のうえにもない。むろん向こうに立っている美禰子に集まっている。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那《せつな》に、捕虜《とりこ》にして動けなくしたようである。変らないところに、長い慰謝がある。しかるに原口さんが突然首をひねって、女にどうかしましたかと聞いた。その時三四郎は、少し恐ろしくなったくらいである。移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたからである。

 なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。色光沢《いろつや》がよくない。目尻《めじり》にたえがたいものうさが見える。三四郎はこの活人画から受ける安慰の念を失った。同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考えついた。たちまち強烈な個性的の刺激が三四郎の心をおそってきた。移り行く美をはかなむという共通性の情緒《じょうしょ》はまるで影をひそめてしまった。――自分はそれほどの影響をこの女のうえに有しておる。――三四郎はこの自覚のもとにいっさいの己を意識した。けれどもその影響が自分にとって、利益か不利益かは未決の問題である。

 その時原口さんが、とうとう筆をおいて、

「もうよそう。きょうはどうしてもだめだ」と言いだした。美禰子は持っていた団扇《うちわ》を、立ちながら床の上に落とした。椅子にかけた羽織を取って着ながら、こちらへ寄って来た。

「きょうは疲れていますね」

「私?」と羽織の裄《ゆき》をそろえて、紐《ひも》を結んだ。

「いやじつはぼくも疲れた。またあした天気のいい時にやりましょう。まあお茶でも飲んでゆっくりなさい」

 

 

疲れていますねと何度も指摘されても、「いいえ」、「私?」ととぼける美禰子。

おそらく三四郎が登場したときから、何らかのものを感じ取って、美禰子の内面は、混乱や悔恨、恨みが渦巻いていたことでしょう。

原口さんは美禰子の異状を察知し、何度も声を掛けたのです。

 

三四郎は、自分が美禰子の変化に影響を与えていることをやっと察知します。これまでも何度か気づく機会はあったのに、自覚するのが遅すぎました。

三四郎が美禰子と向き合えたときには、美禰子の愛情を失っていた。皮肉なすれ違いです。

  

美禰子は、結婚を決めてしまった。しかも、つい昨夜のことです。よし子が野々宮さんに言われた結婚話を、よし子は即、断りましたが、その夜、美禰子は、帰宅したよし子からその話を聞いたはずです。

相手が美禰子の兄の友人ということもあり、その夜のうちに里見家では結婚話が進んだことでしょう。

このあと、美禰子は相手の男と、兄と会って、結婚話が決まるはずです。