bluesoyaji’s blog

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福田恆存「一匹と九十九匹とーひとつの反時代的考察」 慶應義塾大学法学部 2021年論述力問題を解いて考えた これってSTRAYSHEEP?

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慶應義塾大学法学部 論述力 2021年

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問題は河合塾のサイトから引用しました

https://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/21/k12.html

 

 

数字は形式段落の通し番号です。

各段落で重要な箇所を引用しました。

表記を現代仮名遣いに直してあります。

 

1ぼくはぼく自身の内部において政治と文学とを截然と区別するようにつとめてきた。
「なんじらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねざらんや」(ルカ伝第十五章)

一度も罪を犯したことのないものよりも罪を犯してふたたび神のもとにもどってきたものに、より大きな愛情を持って対するクリスト者の態度を説いたもの
2このことばこそ政治と文学との差異を恐らく人類最初に感取した精神のそれである
九十九匹を救えても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいったいなにものであるかーイエスはそう反問している。
もし文学もーいや、文学にしてなおこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいったいなにによって救われようか。
3善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救いを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかえしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。
それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷いとを体感していなければならない。
4この一匹の救いにかれは一切か無かを賭けているのである。なぜなら政治の見のがしてきた一匹を救い取ることができたならば、かれはすべてを救うことができるのである。

善き文学と悪しき文学との別は、この一匹をどこに見いだすかによってきまるのである。一流の文学はつねにそれを九十九匹のそとに見てきた。が、二流の文学はこの一匹をたずねて九十九匹のあいだをうろついている。

ひとびとは悪しき政治に見すてられた九十匹に目くらみ、真に迷える一匹の所在を見うしなう。これをよく識別しうるものはすぐれた精神のみである。なぜなら、かれは自分自身のうちにその一匹の所在を感じているがゆえに、これを他のもののうちに見失うはずがない。

5ぼくたちの文学の薄弱さは、失せたる一匹を自己のうちの最後のぎりぎりのところで見ていなかったーいや、そこまで純粋においこまれることを知らなかった国民の悲しさであった。

が、彼らの下降しえた自己のうちの最後の地点は、彼等に関するかぎり最後のものでありながら、なおよく人間性の底をついてはいなかった。なぜであるかーいうまでもない、悪しき政治がそれ自身の負うべき負荷を文学に負わせていたからである。

6ぼくが今まで述べてきた文学と政治との対立の底には、じつは個人と社会との対立がひそんでいるのである。

そして現代の風潮は、その左翼と右翼とのいずれを問わず、社会の名において個人を抹殺しようともくろんでいる。

7個人は社会的なものをとおして以外に、それ自身の価値を、それ自身の世界をもつことを許されない。社会は個人をその残余としてみとめず、矛盾対立するものとして拒否するのである。

8ひとびとはあらゆる個人的価値の底にエゴイズムを見、それゆえに個人は社会の前に羞恥する。

社会正義という観念の流行にもかかわらず、現実は醜悪な自我の赤裸々な闘争の場となっているではないか、いや、なお悪いことに、あらゆる社会正義の裏口からエゴイズムがそっとひとしれずしのびこんでいる。

9政治と文化との一致、社会と個人との融合ということがぼくたちの理想であることーそのことはあたかも水を得るために水素と酸素との化合を必要とするということほど、すでに懐疑の余地のない厳然たる事実である。

問題はその方法である。その理想を招来するための政治や文学の在り方、社会や個人の在りかたが問題なのである。ぼくは両者の完全な一致を夢見るがゆえに、その截然たる区別を主張する。

10ぼくたちは見うしなわれたる一匹のゆくえをたずねて歩かねばならぬであろう。

そしてみずからがその一匹であり、みずからのうちにその一匹を所有するもののみが、文学者の名にあたいするのである。

 

要約

 

百匹の羊のうち一匹をうしなえば、その一匹を探すのがイエスの教えである。

政治と文学との差異も同じで、政治では救えない一匹を救うのは文学である。

しかし、近代日本文学は、一匹に向き合えなかった。個人と社会の対立が潜んでいる。

社会正義のもと、個人のエゴイズムは排除され、個人は社会から抹殺される。

政治と文化との一致、個人と社会の融合のために、その厳然たる区別が必要だ。

 

設問

「個人と社会の緊張と対立について、あなたの考えを具体的に論じなさい」となっています。

 

最近の問題で思いつくものをあげてみます。

・コロナ禍の自粛と経済問題

・貧困、貧富の格差問題

・生活保護などセーフティネットの問題

・自己責任論

・政治家の忖度、責任回避問題

・マスコミ報道の問題

・原発事故による故郷喪失の問題

いずれの問題も、現代の日本社会が九十九匹どころか、わずかの羊しか救っていないこを示しています。

一匹を救うことの意味をしっかり考えて、具体的に意見を述べましょう。

 

河合塾のサイトに解答例が掲載されています。(冒頭のリンクを参照)

 

 

感想

なかなかの難問です。

読解が難しい。今の高校生が福田恆存の文章に触れる機会は皆無でしょう。教科書はもちろん、問題集、参考書に掲載されているのを見たことがありません。

三十数年、高校教師をしている私でも、福田恆存の名前と顔写真ぐらいしか知りませんでした。

1947年発表のこの文章を読ませる慶應義塾大学の意図は、どこにあるのでしょう。

さすが慶應義塾大学としか言いようがありません。この問題を読解して論述する力のある人は、相当優秀でしょうね。私が高校生だったら、即撃沈です。

未来の日本を開いていくであろう人材に期待しましょう。

 

さて、もう一つ気になったことがあるので、書いておきます。

冒頭に引用されている「一匹の羊」の話は、いうならばSTRAYSHEEPストレイシープ、迷える羊のことですね。

ストレイシープといえば、漱石の三四郎で有名ですが、今は、米津玄師さんのアルバムタイトルとしても知られています。

米津さんは、ひょっとしたら、この福田恆存と同じ考えでないのかと思いました。

今の日本の政治で救えない一人を音楽で救おうと考えているのではないでしょうか。

 

そういえば、米津さんのライブに行ったとき、米津さんが今までのファンを一人もこぼさずにやっていきたいという話をされていました。

今から思えば、一匹の羊と通じる話です。

 

さすが米津さん。宮沢賢治や中原中也だけでなく、福田恆存まで読んでいたとしたら、空恐ろしい人ですね。