岡本太郎「自分の中に毒を持て」を読んで、印象に残ったことを書きます。
動画サイトで、この本が勧められていたので、読んでみました。
万博に行ったのは、私が小学校の時。もう五十年前もなのに、太陽の塔の目からライトの光線が二本、夜空を切り裂くように走っていたのを未だに覚えています。
岡本太郎と言えば、太陽の塔と「芸術は爆発だ」と叫ぶテレビコマーシャルが有名ですが、この本を読むと、また違う印象を受けました。
本の内容は大変深く、まるで思想家、哲学者の文章のようです。考えさせられることが多くあり、示唆に富むいい文書です。
ぜひ一読をお勧めします。
さて、今回紹介するのは、芸術のあり方を述べた二カ所です。
ほんとうの芸術の呪力は、無目的でありながら人間の全体性、生命の絶対感を回復する強烈な目的を持ち、ひろく他に伝える。無目的的だからこそ。それは言うまでもなく非常にむずかしい。しかし今日こそそれが痛切に要請されるのだ。逃げるようなあり方でなく、生活の中に広いポピュラリティ( 大衆性)を持って入っていくべきだ。それは決して通俗になるのではない。コミュニケーションを拒否する激しいコミュニケーションとして。大衆の中に、あらゆる形で、自由な、また切実な表現をつきつけ、ひらくのだ。
「生活の中にポピュラリティを持って入っていくべきだ。それは決して通俗になるのではない」
芸術と言っても、生活を離れた特別のものではない。かといって通俗でもない。
ここを読んで、米津玄師さんがライブで話していたことを思い出しました。
「自分はポップスで行く。極端な先進でもなく、低俗でもない、中道を目指す」というような趣旨でした。
音楽に対する考えが、上記の岡本太郎と同じ精神だなと思います。
そしてそれを音楽で実践しているのは、すばらしいと思いました。
米津さんは、岡本太郎を読んでいるのではないでしょうか。
ぼくはエキスポ70にさいして、中心の広場に「 太陽の塔」をつくった。 およそ気どった近代主義ではないし、また日本調とよばれる伝統主義のパターンとも無縁である。逆にそれらを告発する気配を負って、高々とそびえ立たせた。孤独であると同時に、ある時点でのぎりぎりの絶対感を打ち出したつもりだ。それは皮相な、いわゆるコミュニケーションをけとばした姿勢、そのオリジナリティにこそ、一般を強烈にひきつける呪力があったのだ。繰り返して言う。何度でもぼくは強調したいのだ。すべての人が 芸術家としての情熱を己の中に燃えあがらせ、政治を、経済を、芸術的角度、つまり人間の運命から見かえし、激しく、強力に対決しなければならないと。つまり、合理に非合理をつきつけ、目的的思考のなかに無償を爆発させる。あいまいに、ミックスさせることではない。猛烈に対立し、きしみあい、火花を散らす。それによって人間は〝 生きる〟手ごたえを再びつかみとることができるだろう。
「すべての人が 芸術家としての情熱を己の中に燃えあがらせ、政治を、経済を、芸術的角度、つまり人間の運命から見かえし、激しく、強力に対決しなければならないと」
政治と経済だけが重視されて動いている現在の日本の状況に対し、強烈なパンチです。
人間がなおざりにされている今の社会を、変えていくのは、芸術の力だと断言しています。
コロナ禍にあえぐ日本を救うのは、政治家でもなく、経済人でもなく、人間を大事にする芸術である、と言うことでしょう。
大阪では、コロナの流行が強まったとき、太陽の塔がライトでまっ赤に照らされました。
その映像は、不気味で、気が滅入るものでした。
岡本太郎が生きていたなら、こんな使い方をされたことをどう受け止めるでしょうか。