朱莉が来て三日目の夜のこと。
邦裕が自分の部屋で、明日が提出期限の課題をやっていると、風呂場から「ぎゃーっ」と言う叫び声が聞こえてきた。朱莉の入っている時間だ。
不審者が侵入したのだろうか、助けないとと思い、慌てて風呂場に駆け込むと、また、「ぎゃーっ」と言うさっきより高い声がした。
「大丈夫か、朱莉」と言って夢中で浴室のドアを開けると、朱莉はバスタブから、「そこ、そこ」と言って必死な顔つきで指を差す。ぞの先を見てみると、壁に、二〇センチはあると思われる真っ黒のムカデがじっと張り付いていた。
「うわっ、でかっ」
邦裕は、思わず一歩たじろいだ。見たことのない大きさだ。
「外へやって、早く、早く」
急かされても、素手で掴むわけにはいかない。
こいつに噛まれると、激痛が襲い、しばらくは痺れて大ごとになる。邦裕は小学生の時、もっとサイズが小さいムカデに左腕を噛まれたことがあった。その痛さといったら二度と思い出したくないくらいだ。この世で、蛇と同じくらい嫌いな生き物だ。
とにかく朱莉を助けるために、こいつを始末しないと、邦裕はそう思って、風呂の中を見渡すと、風呂の腰掛けが目に入る。プラスチックだが、これの脚で潰してやろうと思って、腰掛けを手にした途端、ムカデは急に百本の足を動かして、壁を上り出して、朱莉の方に移動した。
「ぎゃーっ、早く、早く、助けて、助けて」
朱莉は浴槽から立ち上がり、ぬれたまま必死で邦裕の身体にしがみつく。
邦裕は壁のムカデに狙いを定めて、腰掛けの脚を思いっきり黒光りのする胴体に押し付けた。
「きゃっ、グロい」
朱莉はそういって顔を逸らした。
邦裕は力をさらに加えて、ムカデの胴体を二つに引きちぎった。風呂の床に落ちた二つの胴体はクルクル回って、頭の方はさらに逃げようとしてこちらに向かって進んでくる。邦裕は足元のムカデの頭部分を、腰掛けで狙ってガツンと叩いた。うまい具合いにムカデの頭に腰掛けの脚が当たり、そのまま力を押し付け続けた。
もう一方の胴体は床でクルクル回っている。今度はそちらを同じように押さえつけて始末した。
邦裕の鼓動は耳に響くぐらい大きな音を立てている。息も上がっている。
「やっと死んだ。もう大丈夫」
と言って、朱莉を見ると、彼女と視線があって、裸体で立ちすくむ朱莉を見つめる形になった。
一瞬、朱莉と邦裕の目が合って、わずかな間ができた。
「ぎゃ|、この変態」
「見ないで、すぐ出て」
そう言って湯を両手ですくって何度も邦裕の顔に浴びせかけた。
慌てて風呂場から飛び出すと、ちょうど帰宅した健人が、朱莉の悲鳴を聞いて風呂場に駆けつけて来たところだった。
「お前、何やってるんや」と言って、邦裕の顔面をいきなり正拳で殴りつけた。邦裕は軽く吹き飛ばされ、廊下に倒れ込んだ。
「朱莉を入浴中に襲うなんて、お前は最低な男や」
健人は興奮して、失神している邦裕にのしかかり、さらに殴ろうとする。
「やめて、違うの」
バスタオルを身体に巻きつけた朱莉が、健人を背後から引き止めた。
「こいつ、許さん」
「違うのよ、この人は、ムカデを退治してくれたの、私を助けてくれたのよ」
「でも、さっきの悲鳴は?変態って叫んでたでしょ?」
「あれは、言葉のあやというか、ムカデを殺した後、この人と目が合って、気づいたら私、素っ裸だったからつい…」
「じゃあ、こいつが覗きや痴漢をしたのではなかったってこと?」
「そうなの、大丈夫かな海城くん」
「ヒロくん、起きろ、大丈夫か」
邦裕はしばらくの間、気を失っていた。遠くから健人の呼ぶ声がしていたが、まだ朝じゃないから寝ていようと思って、目を開けなかった。
「ヒロ、起きろ」
健人は今度は平手で何度も邦裕の顔を叩くので、ようやく意識が戻った。
目を開けると、健人と朱莉が、心配そうな顔で覗き込んでいるのが下から見えた。
「ああ、目が覚めたか」
「よかったわ」
健人は笑顔で邦裕に手を差し出し、体を引き起こす。朱莉は白のバスタオルを体に巻きつけている。でも、屈んでいるので、胸の谷間があらわに見えている。足の脛の白さが目に入る。
立とうとすると、ちょっとふらつくので、健人が止める。
「すぐに氷枕で冷やそう。私、着替えてくるから」
「そうだな、冷やしたほうがいい。ヒロくん、ソファで横になれ」
健人はそう言って邦裕の脇を抱えてリビングのソファアまで運んだ。
「ごめんな、ヒロくん、俺はてっきり、朱莉を襲ったのかと」
「襲うわけないやろ。同級生やで。ありえへん、あかん、喋ると顔が痛い」
「冷やすから寝とき」
朱莉が服を着てきた。
「病院行かなくて大丈夫かな?」
「これくらいなら心配ないやろ」と健人が言う。
「骨にヒビが入ってるかもしれへん」邦裕が言うと、
「お前は大袈裟や」
「いや、お前が言うか」
「三宅さんに相談して、病院連れて行ってもらおうか」と朱莉。
「行ったほうがいいよ、海城くん」
「よっしゃ、俺が相談してくるわ」
健人は隣に住む三宅さん宅へ行った。
三宅さんが知り合いの病院に電話してくれて、邦裕を車で連れて行った。
診察の結果、打撲だけで心配ないということで、邦裕は安心した。
翌朝、邦裕は起きて鏡を見ると、腫れがひどく、顔の右半分が痣になっていた。見るだけで、気分が悪くなった。大きめのマスクをするとほとんどが隠せたので、学校にはこれを付けていった。
クラスに入ると、マスク姿が注目されて男子の何人が、どうしたのかと驚いた。
邦裕は、説明が面倒なので、自転車で転んで顔面を打ったと答えた。鈍臭いなあとからかわれたが、かえって気が楽になった。とてもじゃないが、朱莉の全裸を見てしまって、そのせいで殴られたとは言えない。そんなことが知られると、二度と学校には来られなくなってしまうだろう。
担任にも自転車事故で怪我をしたというと、お大事にと言われただけだった。
邦裕はそれでよかったのだが、朱莉は色々とうわさ話を耳にして辛かった。クラスの女子は、あれは絶対、ケンカでしょと言った。
海城くんはおとなしそうに見えて、意外とやんちゃなのかも、カッコつけてボコボコにやられたんじゃないのなど、ひどい決めつけが話されていた。その話の輪の中にいるだけで、朱莉は責任を感じて、気が重くなった。
帰宅してきた健人が、リビングで本を読んでいた邦裕に言った。
「で、ヒロくん、どうやった?」
「腫れは大分引いた。アザは大きいまま」
「そうか、すまん。で、どうだった?」
「何が?」
「朱莉さんのボディや」健人は急に声を潜めていった。
「見たんやろ?」
「うん。グラビアでも見たことないくらい。すごくきれいだった。」
「ほんまか。もっと詳しく教えて」
「あかん、お前には優奈さんがおるやろ」怒った顔をしていうと、
「それとこれは別や」
健人はそう言って、邦裕の肩を叩いて部屋に入った。
邦裕は一人リビングで、物思いに耽った。やむを得ないとはいえ、他人に、しかも若い男に自分の裸を見られたら、いやだろうな。でも、邦裕が謝れば謝るほど、朱莉の気持ちはやり場のない怒りに満たされていき、どう振る舞ったらいいのかわからなくなるんだろうな、そう思って沈んだ気持ちで自室に戻った。