今年2021年の京都大学の入試問題に出題された石川淳「すだれ越し」がおもしろかったので、石川淳が読みたくなり、まず「山桜」を読んでみました。
これがとてもおもしろい小説だったので、紹介します。
石川淳「山桜」
構成を見ましょう。
金を借りに行ったわたし
山桜の下で夢うつつに見た白昼夢
京子の思い出
京子とのあいだに不義があった前提で話が進む
京子の顔を見られないわたし
どうしても見たい 絵に描きたい
愚かなことばを口走ると、京子の姿は消えうせていた
つまり
京子に執着するわたしの心が生み出したまぼろしのお話です。
本文を書かれている順に見ていきましょう。
本文の引用もあります。
内容理解のため、項目をつけています。
・わたしは地図を見て国分寺の駅から歩き、櫟林のほとりで若草の上に寝転ぶ
・一本の山桜とジェラール・ド・ネルヴァルのマントのせい
回想
・本にあった文句が体内にしみいり、ネルヴァルにであったかのように想像する
・身体が中につり上げられ、外へ駆け出てしまう
・巡査に声をかけられる
・青山の親戚の元判事を訪れ金を借りる。十円札に略図
・吉波の別荘「善太郎が病身でな」
・金策はどうともなれ、あおむけにふり仰ぐ、山桜のすがた
山桜の因縁
・十二年前、青山の判事の家、山桜の下、京子を立たせて写真
・遠縁の吉波善作、騎兵大佐、肥料会社重役に嫁ぐ前の記念のため
今
・山桜の下にたたずむ、写真機の亡霊、花びらよりほか見えなくなる
・略図を忘れ、浮かれごこちになり、ふわふわここまで迷い込んだ
・吉波家を訪ねることは気がすすまない
・赤い自転車にもたれる子供、小学生「ぼく、おじさん識ってるよ」
・ほとんどわたし独りで歩いて行ったようなもの、どうもおぼろげなのだ
・茫然たる沈静の底に吸い込まれていた
異常な出来事
・立木のあいだを歩きつつ額がじりじり焦げつくような感じ、二つの目が爛々とこちらを睨んでいた
・その視線の鋭さ激しさに突然魔物にでも出逢ったごとく狼狽しかけたとき
・同時にぴしゃりという音がひびいた、それはまさしく憎悪をもって人間の生身を打つ音、打たれたのは京子にほかならない
善太郎
・今まのあたりに見る顔はわたしの顔よりほかのものではない
・かかる怖ろしい秘密がいつの間にわたしを待ち受けていたのか
・このときわたしの想像の中でわたしは善太郎の手を振りきってまっしぐらに門外に駆けだしていたにも係わらず、あれよと見る間にすべりのぼる自分をどうしようもなかった
善作と対峙
・「金を貸してくれませんか」、わたしは屈辱に歯ぎしりしはじめた
京子
・こうして二人きりになってもやはり京子は声をかけるはおろかふり向いてさえくれないのだ
・わたしはときどき独り紙を伸べて京子の姿を描きかけることがあるのだが、
・「京子さん、ちょっとこっちを向いて下さい。ぼくはあなたの顔を見なければならないんだ」
善作
・てのひらにくちゃくちゃとにぎっていたものをわたしの面上に投げつけると、大声にさけびながら階段を駈けおりて行った
善太郎
・小さな機関車を走らせる支度 「おじさん邪魔だよ。引いちゃうよ、ぽう、ぽう」
善作
・すぐ下の池のそば 善作がこちらに背中を向けて石の上に腰かけ、鞭をふるってぴしゃりぴしゃりと水の面を打っていた
京子
・「京子さん、お宅ではいつもああして鯉に運動させるんですか」
・うしろをふり向くと、とたんに京子の姿は籐椅子の中から拭いたように消えうせ、下枝の葉が二三片風に落ちているばかりであった
・そのときはっと、そうだ、京子は去年のくれ肺炎でたしかに死んでしまっているのだ、まったくそうだったと
・わたしは襟もとがぞくぞくしてその場に立ちすくんでしまった
「山桜の因縁」から続く「今」で、「写真機の亡霊」にとりつかれたあたりから怪異の世界に入り込みます。
善太郎の登場で、京子と私のあいだに深い関係があったのかと思わせます。
嫉妬で怒り狂う善作と顔を見せない京子。
わたしが声をかけると…
結末部に注目しましょう。
これは、上田秋成「青頭巾」と同じ構造になっています。
「青頭巾」あらすじ
美少年に愛着した僧が、死んだ少年の肉を食い、狂って村人を襲う。
通りかかった禅僧が、村人のためにこの僧と対峙し、偈を授ける。
一年後再び訪れると、僧はまだ座禅を組んで偈を唱えていた。
禅僧が一括すると、僧の姿は消えて人骨と青頭巾が残っていた。
「青頭巾」結末部 一部引用 https://japanese.hix05.com/Ugetsu-monogatari/ugetsu.index.html
さてかの僧を座らしめたる簀子のほとりをもとむるに、影のやうなる人の、僧俗ともわからぬまでに髭髪もみだれしに、葎むすぼふれ、尾花おしなみたるなかに、蚊の鳴くばかりのほそき音して、物とも聞こえぬやうにまれまれ唱ふるを聞けば
江月照松風吹
永夜清宵何所爲
禪師見玉ひて、やがて禪杖を拿りなほし、作麼生何所爲ぞと、一喝して他が頭を撃ち給へば、忽ち氷の朝日にあふがごとくきえうせて、かの青頭巾と骨のみぞ草葉にとゞまりける。現にも久しき念のこゝに消じつきたるにやあらん。たふときことわりあるにこそ。
声をかけると相手が消えてしまうという構造が、「山桜」と同じですね。
実は、この「青頭巾」の結末は、谷崎潤一郎も「蘆刈」で用いています。
ただし、蘆刈は昭和7年、山桜は昭和11年発表なので、谷崎が先ですね。
ちなみに石川淳の文体が、谷崎によく似ていて、一文が異常に長いです。
谷崎潤一郎「蘆刈」
引用は青空文庫から https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56875_58210.html
いやおもしろいはなしをきかせていただいてありがとうぞんじます、それであなたが少年のころお父上につれられて巨椋おぐらの池の別荘のまえをさまよってあるかれたわけは合点がてんがゆきました、ですがあなたはそののちも毎年あそこへ月見に行かれると仰っしゃったようでしたね、げんに今夜も行く途中だといわれたようにおぼえていますがというと、さようでござります、今夜もこれから出かけるところでござります、いまでも十五夜の晩にその別荘のうらの方へまいりまして生垣のあいだからのぞいてみますとお遊さんが琴をひいて腰元に舞いをまわせているのでござりますというのである。わたしはおかしなことをいうとおもってでももうお遊さんは八十ぢかいとしよりではないでしょうかとたずねたのであるがただそよそよと風が草の葉をわたるばかりで汀みぎわにいちめんに生はえていたあしも見えずそのおとこの影もいつのまにか月のひかりに溶け入るようにきえてしまった。
「お遊さん」という美しい女性を親子で慕う話です。息子の方が話を語って聞かせるのですが、「でももうお遊さんは八十ぢかいとしよりでは」という声をかけられると、姿を消してしまいます。
愛執が妄念の人の姿となって現れたという構造。考えてみると、「源氏物語」にもありました。
「夕顔」の巻で、光源氏が夕顔を別荘に連れ出した夜、美しい女が生き霊となって姿を現します。これも愛執の話なので、先に述べた3作と同じ系統といえるかもしれません。
石川淳「山桜」は日本の古典に根ざした、怪異を語る名作だといえるでしょう。