bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

コメディあるいはトラジティ

コメディあるいはトラジティ

 

中央芝生で

 

中央芝生の縁で寝転んでいた常二は、時計台の上に広がる青空と雲の群れを眺めていた。

二回生に進級して、近づくゴールデンウィークをどんなアルバイトをしてしのごうかと思案をしているのである。

故郷の母が営む商売が不調で、毎月の仕送りが送れなくなったとの連絡を数日前、母からの電話で聞いたところである。

もともと母子家庭で、裕福でない上に、一浪して受験した国立大学がまさかの不合格になり、今の私立大学にやっと滑り込めたのだ。進学を諦めようとした常二を母が説得し、入学したものの、関西の大学の中では、学生が派手に遊ぶと評判の学校だったため、常二は大学にあまりなじめずに通っていた。

常二は音楽と文学が好きだった。入学して何人かの友人はできたが、遊び歩くこともせず、下宿や時計台の図書館に籠もって本を読むか、好きな音楽を聴くかの地味な生活を送っている。

六甲連山の方向に雲が流れてゆく。緑が強い山を背景にして時計台の白色が浮かび上がる。

心地よい風が顔を吹き抜ける。眠りに落ちそうになったとき、常二のすぐそばに二人の女子学生が腰を下ろした。

「ちょっと近すぎるのでは」いぶかしく思って、目を細めに開けて女二人連れを盗み見した。

長い髪の方は、色の薄いデニムに、長袖の白シャツ、紺色のトートバッグ。ショートの方は、黒のワイドパンツに胸元が大きく開いたロングTシャツ。二人ともしゃれて見えた。私学なので、付属の中高から上がってくる学生は裕福でおしゃれな学生が多かった。

見ていないふりで、こっそりと二人の女性を見ていると、何かのライブに行く相談をしているようだ。時折、常二の知っている神戸のライブハウスの名前が聞き取れた。

「美人だから彼とでも聞きに行くんだろうな」ぼんやり考えていると、長い髪の方が空けた飲み物が派手に吹き出して、常二の顔面に降りかかった。

「うわっ、ごめんなさい」

あわててバッグからハンカチを取り出した女は、顔を押さえている常二の手を払って常二の顔面にハンカチを当てて拭きだした。

「いやっ、大丈夫です」

「ごめんなさい、ほんと。こんなに飛び散るなんて」

すまなそうに眉尻を下げて謝る。

こんなに無防備な女子の顔を見たことがないと思って、常二はあらためて女の顔を見た。

「いいですよ、服も濡れてないから」

「おどろいたでしょう」と少し安心した様子で、上目で笑う。

つられて常二も笑ったが、少し引きつって見えたかも知れない。

きれいな女をこっそり見ようという下心に、文字通り冷や水をかけられた格好である。

「文学部?」

「そう」

「何回生?」

「二回生」

「じゃあおんなじだ」ショートの女と顔を見合わせてほほえむ。

こんな美人と話せただけでも儲けものだと思いながら、立ち上がる。

長い髪が、お詫びにこれどうぞと言って手を差し出したので、常二もつられて右手を出すと、アメが二個載せられていた。

「アメちゃん、大阪のおばちゃんやん」

「うちの気持ちやから、食べてね」と言った。

 

授業で再会

 

常二は、珍しく一限の授業に間に合って、大講義室のいちばん後ろで入り口のそばの席に座り、ノートを開く。

美学概論の先生は、小説の一節を読み上げた。

「山崎は山城の国乙訓郡にあって水無瀬の宮跡は摂津の国三島郡にある。されば大阪の方からゆくと新京阪の大山崎でおりて逆に引きかえしてそのおみやのあとへつくまでのあいだにくにざかいをこすことになる。わたしはやまざきというところは省線の駅の附近をなにかのおりにぶらついたことがあるだけでこのさいごくかいどうを西へあるいてみるのは始めてなのである。」

「さあ、この小説の題名がわかる人はいますか?」と言って、数百名の学生たちに視線を向けた。

誰も手を挙げなかった。

常二は以前に読んだ、谷崎潤一郎の「蘆刈」だとすぐに気づいたが、手を挙げない。

「省線というのは、」先生の話に身を乗り出したとき、後ろのドアが勢いよく開いて、一人の女子学生が入ってきた。常二の横が空いているのを目にすると、「すみません」といいながら下げた顔にかかる長い黒髪を掻き上げた。

二重のはっきりした目と白い歯で、中央芝生で出会った女だとすぐにわかった。

女は、常二が席を立って、跳ね上げ式の座面を立てるのを待っている。そうしないと奥の席に入れないのだ。

「あれ、あの時の」女は常二の顔を見て、大きく目を見開いた。

「アメちゃんくれたひとやね」

「あの時はほんとうにごめんなさい」と申し訳なさそうに言う。

「ちゃんと食べてくれた?」

「ああ、食べました」

「そう、ありがとう」と言って、常二の目を見つめる。

なんてかわいい人なんだと改めて常二は見惚れてしまった。

常二の前をすり抜け、すぐ隣に鞄を置く。上等の革のバッグだ。黒のワンピースも長い黒髪と合っていて、大人びた感じを与える。

「これ取ってたの」

「出るのは今日が初めて」と常二は女に答えて、前を向き、先生の話に注意を向けようとした。

しかし、横に女が座っているのが気になって、話がさっぱり頭に入ってこない。

十分ほど、そんな状態が続いていると、女が自分のノートの端に「お名前教えて」と書いて常二に見せた。

訝りながら、「賀集常二」と名前をシャープペンで書くと、女も「阪上美彌」ときれいな字で書いて見せた。

講義が終わると、次の時間は空いてるかと聞く女に、出席が厳しい授業が入っていると答えると、「じゃあ、またね」と手を振って、講義室から出て行った。

その後ろ姿を見送りながら、後ろ姿も惹かれる人だなと思った。

アルバイト先で

 

店長に頼んでアルバイトに雇ってもらい、手伝いを始めた常二は、週末の金、土曜日の二日間、元町のライブハウスで働いた。

接客にも慣れてきたが、仕事を終えるのが十一時過ぎになり、それから電車で四十分かけて下宿まで帰ると零時を回ることになる。帰宅すると、そのまま寝てしまうことが多かった。

金曜の夜には店は満席になり、注文をさばくだけでも忙しかった。

店長は厨房で、フロアはベテランの男女の店員が一人ずついるのだが、常二と三人でも廻っていないくらいだった。

店のドアが開いて三人の若い女性客が入ってきた。

テーブルの片付けをしながら、いらっしゃいませと言ってその客を見ると、一人の女性客と目が合った。

「賀集君?」名前をすぐに呼ばれたので、

思わず、「はいっ」と返事を返した。

顔を見ると、大学の美術概論の授業で再会した女子学生だった。

「ここで働いてるの?」と笑顔で常二に近づく。

後ろから連れの二人もついてきた。

「うん」と言って、「お久しぶりです」とあいさつした。

たしか、阪上美彌、そう言っていたなと思い出したが、つい間違って、

「阪下さん」と言ってしまった。

「阪上でしょ、ひどい、間違えて」機嫌を損ねた顔で常二を見る。

「はいはい、よくあるお約束でしょ」連れの一人が笑いながら、割って入る。

「そう、ボケでしょ、美彌、そんなに怒らないの」もう一人もなだめる。

「ひどくない?」二人に同意を求める美彌に、先に口を開いた方の女が

「いいじゃない、美彌、こんな素敵な人、どこで知り合ったの?紹介しなさいよ」と言ってごまかしてくれた。

「文学部の賀集君。同じ二回生」美彌が言うと、

「社学の佐知です」「商学部の美和です」と二人は名のった。

「よろしくね」と笑顔で手を振る二人に、常二は満面の笑顔で答えた。

席に三人を案内して、飲み物の注文を取り、カウンターに戻った。

この夜は、ジャズのグループが何組か出演することになっていた。飲み物を美彌の席に運んだとき、

美彌はその中の一グループに知り合いがいるので見に来たと説明した。

食事や追加の飲み物を運んでいくたびに、佐知や美和から、

「どこで知り合ったの?」とか「美彌のどこが好き?」とか、酔いに任せて話しかけてくる。

冷やかされて、たじたじとなる。

美彌はそのたび、「ちょっと」と連れに注意したり、「ごめんね」と常二にわびたりした。

ライブも終わり、客の大半が店を出ても三人は残っていた。

「今夜はご来店ありがとうございました」と常二があいさつすると、

美彌は、「いつお店に入ってるの?」と聞いてきた。

「だいたい金曜と土曜の夜」

「また来るわ」と言ったあと、「月曜の3限、空いてる?」と聞く。

「うん、空いてる」

「じゃあ、学食のカフェで待ってるわ、来てくれるでしょ」

「いいよ、月の3限ね」

「名前を間違えたお礼をさせてあげる」

「バイバイ」と手を振った。

「はいはい」常二はわざととゆっくり言って、美彌を見送った。

連れの二人は、そのやりとりを見て笑い声を上げた。

 

次の月曜3限

 

常二は2限の講義の後、友人と別れて学生会館にあるカフェに向かった。

何組かのグループがテーブルを占めていて、満席かと思ったが、奥の二人掛けの席を探すと、手を振る美彌を見つけた。

美彌は、前会ったときと違って、濃い化粧をしていた。リップが赤く照っている。服も他の学生が着ていないような上品なものだった。

「待った?」

「今来たところよ」と白い歯を見せた。

「今日は一段ときれいだね」

「本当?ありがとう」美彌はうれしそうに笑顔で常二を見る。

常二はカフェオレを二つ運んできて、美彌と一緒に飲んだ。

カップを置きながら美彌は、

「常二君て、彼女いるの?」といきなり聞いてきた。

「いない」

「そう」しばらく間をおいて、

「ねえ、いやじゃなかったら」と言って美彌は言葉を切った。

「いやじゃなかったら?」

「あたしとつきあってほしい」真顔でさらりと言う。

常二はカフェオレを吹き出しそうになった。

カップを置いて、「いいよ」と答えた。

常二は言ったあと、これは悪い冗談ではないのかと思った。

どこかから誰かが、常二の表情をカメラで録画しているのではないか。

しかし、美彌は、そんなつまらないことをするとは思えない。

「僕の、どこがいいの?」

「あの時から」美彌はそう答えた。

「あの時って、中央芝生で?」

「そう、中央芝生で。あの時、あなたにジュースかけちゃったでしょう」

「よく覚えている」

「あの時、一目で気に入ったの」

「イケメンだったから?」冗談で言ってみた。

「うん、顔も好きだし、雰囲気が良かったの」

「照れるやん」常二が茶化すと、

「私のことどう思った?」と逆に尋ねた。

「きれいで、やさしそうな人だなって思った」と正直に答えた。

「タイプ?」

「そう、めっちゃタイプ」常二が即答すると、美彌はうれしそうに、

「うふっ」と笑った。

「話しやすそうに思ったの」

「何でも聞くよ」

「本当?」

美彌の大きな二重の目がさらに大きくなった。

「何が好き?」何でも知りたいからと美彌は言い足した。

「本と音楽かな」

「私も本が好き。音楽はどんなのが好き?」

「洋楽、ロックが好き。美彌は?」と言ってから、常二は、

「美彌って呼んでいいかな」と尋ねた。

「もう一回言ってみて」

「美彌」すかさず言うと、

「うふっ」と満足そうに笑う。

「にやけてますけど」

「もう一回お願い」おねがーいと語尾を伸ばした。

「あほらし」あきれると、

「大事にしてね」と返された。

 

その日から毎日、常二は美彌と会って話をするようになった。

美彌はよくしゃべる人で、常二はいつも聞き役に回った。

明るくて、楽しい話ばかりなので、美彌と会うことがうれしかった。

しかし、もし自分の家のことを聞かれたらどうしようか、気後れがしていた。

美彌は、ライブハウスに一緒に来ていた佐知や美和を連れてくることもあった。

「この子、最近、のろけばかり話すのよ」と常二に知らせた。

「そんなに私、のろけてる?」恥ずかしそうに顔を赤らめて佐知に聞く。そんな美禰を見て、

「美彌の機嫌がよかったら、僕はうれしいよ」とフォローした。

美彌は「うふっ」と笑い声をもらした。

「はい、またのろけ」佐知が笑った。

美彌と一緒にいる姿を常二の友人に見られて、常二は仲のよい柴崎から、

「お前、いつの間にあんな美人つかまえたんや?」と問い詰められた。

「もう、行くとこまでいったんか?」

「そんなんとちがう。美禰とは友達」

「美彌さんの友達を紹介してもらいたいわ。頼んどいてくれ」柴崎は常二にこう言って、顔の前で手を合わせた。

 

佐知や美和から、常二と出会ってから美彌が楽しそうにしていると聞き、うれしくなった。

こんな男でも、人を幸せな気分にさせているのかと思うと、上機嫌になる。

常二の実家は未だ経済的に苦しく、仕送りも途絶えたままだった。

後期の授業料を工面することが常二には目下のところ最大の課題だ。

美禰ともっと過ごしたいのだが、アルバイトも増やさなくてはいけない。

就職が決まった先輩に家庭教師のアルバイトを譲ってもらうことになったのはありがたかった。

 

中央芝生でランチ

 

時計台の前で階段に腰掛けていると、美彌が大きなトートバッグをもってやってきた。

今日は芝生で一緒に昼食を食べることになっていた。

中央芝生は、サークルの集まりや、寝転がるカップルや一人で本を読む人、フリスビー、バドミントンをするグループなどで賑わっていた。

空いているスペースを見つけて、芝生の上に美彌が持ってきたシートを敷いて並んで座った。

トートからバスケットを取り出し、開くとサンドイッチがたくさん、きれいに詰められていた。

「さあ、どうぞ」

「すごいごちそう、たいへんだったでしょ」

「早起きして六時から作ったの」と言いながら、おしぼりを常二に渡す。

「ありがとう、こんなにたくさん」

「がんばったけど、味見てみて」と一切れ差し出した。

「うん、おいしい」

「本当?うれしいな」

半分ほど食べ終えた頃、柴崎が常二を見つけて声をかけてきた。

「常二、紹介してよ」

柴崎が二人の前に立つと、背の高さが一段と感じられる。

柴崎は高校時代にアメリカンフットボールをやっていて、身長は百九十センチメートル近くある。

見上げる感じになって、大きさに驚く美彌に、

「同じゼミの柴崎君。でかいでしょう、こちらが阪上美彌さん」

「やっとですよ。今まで僕らの間でこいつが美人をつれてるとうわさになっていて」

「柴崎です、よろしく」そういって尖ったあごに特徴のある柴崎は頭を下げた。

「こちらこそよろしくね、よかったら食べていって」そう言って美彌は柴崎にサンドイッチを差し出す。

「ええ、いいの?むちゃうまそう」柴崎は一口で食べてしまった。

「うまいわー」

「こんなうまいものつくってもらえるお前がうらやましいわ」と言いながら常二に目で合図する。

「なんや、目にゴミはいったんか」

「ほら、あれや、忘れたんかあのはなし」

常二はやっと、美彌に友達を紹介してもらいたいと言っていた話を思い出した。

「美彌、柴崎に合いそうないい彼女、いないかな。誰か紹介してあげて。見た目はごついけど、いい奴なんや」

「どんな人がタイプなの?」

「かわいくて、小柄な人」

「背の低い女子が好みやねん、こいつ。自分はでかいのに」

「凸凹カップル?」美禰はまじめに言うのだが、常二は思わず吹き出した。

「絶対、頼みますよ」と言って去る柴崎を二人で見送る。

「いいやつなんやけど、見た目がごついから損してる」

「阪急電車で、競馬の開催日に、柴崎が車内で煙草を吸ってる男に出会って」

「それで」美彌は、身を乗り出した。

「柴崎がじっとその男をにらんでいたら、男が気づいて、あわてて煙草を口から落として、次の駅で降りて逃げていったらしい」

「本当?」美彌は笑いながら常二の膝をたたいた。

「根はいい人なんや」常二は本心でそう言った。

 

食べ終えたあと、芝生に寝転がって空を見た。

あざやかな青色に晴れた空は、キャンパスが六甲山麓の東端の丘陵地にあるせいか、街で見るよりも近く感じた。

白い時計台が、青空と流れる白い雲と絶妙に釣り合っていて、美しい。

「あたし、あなたに会えてよかった」

常二の横でつぶやいた美彌の横顔は、常二には一瞬、なぜか寂しそうに見えた。

 

美彌は、時計台の図書館で常二のレポート書きにつきあってくれた。閉館時間まで、参考文献を読みあさり、レポート用紙に写す作業をする常二のそばで、自分の勉強をしながら常二が終わるのを待っている。

常二が元町のライブハウスのアルバイトに入っている夜は、美彌は一人で店に来て、早上がりの常二を待っている。九時過ぎに仕事を終えると、美禰と連れだって元町の山手にある路地裏の小さな店に、ご飯を食べに行った。そして阪急電車の各駅停車で、夙川まで一緒に乗って帰り、降りる美彌を電車の窓から見送る。美彌は大股でホームを歩きながら大きく手を振る。電車が美彌を追い越していく。美彌は常二にずっと手を振り続ける。

 

発作

 

その日も美禰の授業の終わりを待って、一緒に川沿いの道を駅まで歩いた。

駅の近くにクラシック専門の小さなカフェがある。いつもと同じように、二人でお茶を飲み、流れるクラシックの曲を美禰が解説してくれる。

奥のテーブルで、大学のサークルの集まりがいる。突然、店中に響く大きな声で笑い声が起こった。

その声が聞こえた直後に、美禰の顔面が蒼白になった。目がうつろになって、肩で激しく呼吸しだした。

「どうした?具合悪いの?」常二が心配して顔をのぞき込むと、美禰はふりしぼるように「出ましょう」と言った。

立っていられない美彌を両脇から抱えて、会計を済ませて店を出た。途端に美禰は道に座り込んだ。顔を両手で覆って、肩で激しく息をする。

動転してしまった常二は、美禰の背中をさするばかりで、どうしたらいいのかわからない。

「大丈夫か?救急車呼ぼうか」

血の気の失せた顔で肩を振るわす美禰。激しい息づかいが止まらない。

丁度駅に向かうタクシーが近づいてきたので、常二は思わず手を挙げて、車を停めた。

「乗れる?」美禰を支えて右のドアから乗せる。左ドアにまわり、美禰の頭を膝の上に載せて、運転手に急いで苦楽園に向かうように頼んだ。

大学前まで引き返して、キャンパスの中の道を通り、左折する。対抗できないほどの狭い道を通って、長い坂道に出る。そこを下って、交差点を直進して坂道を登る。そこまで細かく運転手に道順を教えて、とにかく美彌の家まで連れて行こうと考えた。

常二は美禰の家を知らなかった。苦楽園のどこかにあるはずだ。近くまで連れて帰れば、なんとかなるのではと思い、祈るような気持ちでタクシーの進む道を見つめた。

美禰の苦しそうな息づかいは変わらず、両目からは涙が流れている。

「しっかり、大丈夫だから」

「もうすぐ家だよ」

「ゆっくり息を吐こう」

おそらく発作を起こして過呼吸になっている。美禰を救ってほしい。神様でも何でもかまわない。美禰を、救って。

タクシーが苦楽園の駅前に来て、常二は美禰の家に電話しようと気づいた。

何度かの呼び出し音のあと、美禰の母親が出た。あわてながら事情を説明し、家の住所を聞いた。すぐにタクシーに向かってもらった。

苦楽園の駅から山に向かってかなり坂道を登った。何度もカーブをまわり、着いた家はびっくりするほど大きな門構えの邸宅だった。付近も豪邸が並ぶ一角だ。

タクシーが門の前に着くと、中から若い女性が出てきて、常二にあいさつをした。

「美彌さん、もう大丈夫ですよ」と言って、美禰を車から降ろし、家の中に連れて行った。

すぐに引き返してくると、その女性は、運転手に万札を渡し、「これでお送りしてください。」と言った。

常二はただ茫然として、運転手に「苦楽園の駅までお願いします」と言った。

 

美彌の発作から三日経つが、美彌からは何の連絡もなく、常二の電話にも出なかった。大学でも美彌の姿はなかった。

常二は下宿で、あの日のことを思い出しながら、考えていた。

美彌の気に障ることを何か言わなかったか?

会ったときにいつも通りに美彌のことをかわいいと褒めたか?

美彌が嫌がる振る舞いをしなかったか?

答えはすべてノーだ。特に普段と変わったことはない。

では、何が悪かったのか。

常二は何度も反芻した。仕舞いには、手の中の水がすべてこぼれ落ちるように、美彌が常二の目の前から消えていくのではないかという妄想に苦しめられた。

あのカフェで、大きな笑い声が起こったとき、美禰は急に具合が悪くなった。そのことが引き金であるように常二には思えた。

しかし、美彌はなぜ、電話に出ないし、連絡もしてこないのか。電話もできないほど重い病気なのだろうか。

明日には美彌の家に直接電話してみよう、そう決めた金曜の夜、アルバイト先の店に、美和が一人で尋ねてきた。

美和の深刻な顔を見た瞬間、常二は美彌のことで重大な何かが起こっていると察した。

今夜は客が少ないので、店長に頼んで店の席で美和と話をした。

美和は、席に着くとまず、美彌を助けてくれてありがとうと言った。

そして、美彌からと言って手紙を差し出した。

「読んで」と言われて、常二はきれいな模様の便せんを緊張しながら開いた。

美彌の丁寧な字が並んでいる。長い手紙だった。読み終えると、美和は

「あの子はあなたが自分のことを嫌いになると思い込んでるの」

「バカでしょう」美和は言った。

「発作なの。今までに何度か起こしている」

「原因は、その手紙に書いてあることが大きいと思うの」

美和はそう言って、

「今は体調は戻ってるわ」と告げた。

美和は普段とは違って笑顔を見せない。

「そう、よかった」

「それがよくないの」

「心の方が具合悪いのよ」と美和は言う。

「あなたがこれで美彌をいやになって、離れてしまうと思って、泣いてばっかり」

美和は常二の顔を見て、

「どうなの」と詰問する。

「美彌と別れる気?」

「えっ、何で

「別れるわけない」

「本当?」

「本当」

「絶対?」「ぜったい」

「持病で発作を起こして、それで別れるなんて事は絶対ない」

「嘘だったら、大阪湾に沈むわよ」

「こんな時に冗談は止めて」

「阪上家の力ならあなた一人くらい消せるのよ」

「だからやめて」

「本当なの?そう、よかった」ホッとした表情を見せて初めて美和は笑った。

「あなたがどんな返事をするか心配で、夕べはよく寝られなかったわ」

美和はそのあと、軽い食事をしながら、常二に美彌と会う段取りを説明した。

月曜の昼に、美彌を連れて行くから、学食のカフェで待っているようにと言うことだった。

「ありがとう、いろいろ心配してもらって」

「あの子とは中学校からずっと友達だからね」と答えた。

店を出る間際、

「美彌を泣かせたら、沈めるから」

「やめろ」

美和は、バイバイと手を振って笑顔で帰って行った。

 

月曜の昼、カフェで

 

月曜の昼に、学食に行ってカフェを覗いた。

美彌と美和はまだ来ていなかったので、店の奥の方で、静かに話ができそうな席を選んで二人が来るのを待った。

待っている間、雑念がわき起こったが、とにかく美彌の顔を見ることが第一だと思い直した。

常二を見つけた美和が、笑顔で手を振った。後ろ手で、美彌の右手をつないで、引っ張るようにして席にやってきた。

常二の向かいに美和と並んで座った美彌は、長い黒髪が顔を覆ってしまい、表情が窺えない。

「待ってたよ、美彌」と常二が声をかけると、うつむいていた美彌は、顔を上げ、右手で髪を掻き上げて、二重の大きな目で常二を見つめた。常二が瞳を見返すと、美彌の瞳の表面に涙の膜ができた。こぼれそうなところで耐えている。

「ごめんね、心配かけて」ハンカチを取り出して目元をぬぐった。

美和は横で心配そうに美彌の顔を見まもっている。

「手紙読んだよ。いろいろたいへんだったんだね。でも、これからのことが大事なんじゃないのかな。僕たちの」

「話したくなったらいつでも聞くから。少しずつ美彌のことをわかっていくから」

「今まで通り、楽しくやっていこう。それでいいかな」

常二はことばを慎重に選びながら、語りかけた。

美彌の大きな目から涙がこぼれ落ちた。

ハンカチを当てずに、常二の目をじっと見つめる。

「おこがましいんだけど、僕を信じてほしい」

「さあ、美彌、常二さんもこう言ってるから、泣かないで」美和が横からハンカチを差し出す。

「もう、泣くのは止めて。あとは二人で水入らずで話してね。大丈夫でしょう、美彌」

美和はそう言って、席を外そうと立ち上がった。常二の顔を見て、

「泣かせたら、大阪湾よ」と真顔で言った。

「ここで言うか」

美和は笑って、

「よろしくお願いね」と二人に手を振って出て行った。

うつむいていた美彌は、しばらくして顔を常二に向けた。

「ねえ、本当にいやじゃないの?」

「当たり前だろ」

「僕はずっと美彌が好きだ」

「うふっ」涙をためたまま笑った。

「もう一回言って」

「僕は美彌が好き、ずっと好きでいるよ」

「うれしいわ。大事にしてくれる?」

「ああ」

「ひと言だけ?」

「これ以上、言わせる気?言う方も恥ずかしいわ」

二人で、カフェオレを飲んだ。少しぬるくなってしまった。

「大阪湾って何?さっき美和が言ってたの」

「それは、ちょっと」

「何?教えて」

「泣かない?」

「ええ。何で?」

「じゃあ言うわ。僕が美彌を泣かすと、大阪湾に沈められるってこと」

目を見開いて常二を見る。

「誰が沈めるの?」おかしそうに笑う。

「美和が言うには、阪上家なら僕一人ぐらい簡単に消せるそうだって」

「泣いてやる」美彌が突然泣きまねをしだした。

「やめろ!」

 

その日は二人でバス道をゆっくり歩いて帰った。電車で北口、夙川、さらに苦楽園まで行き、一緒にホームを出ると、美彌は、「今日はここでいいわ、大丈夫。ありがとう」と言った。「あとで電話する」と言って引き返した。

電車が来るまで、美彌はホームに残って見送る。発車した電車の窓から、美彌に手を振ると、美彌は飛び上がって大きく手を振った。

 

美彌の家に呼ばれる

 

美彌が発作から回復して二週間ほどが過ぎた頃、常二は美彌の家に行くことになった。

美彌の母が、常二に会いたいと言う。

美彌は少し心配したが、常二は美彌の母に会って、自分たちのことを知っておいてもらうのは悪くないと考えて、打診された日曜日に行くと返答した。

あの日に門の前まではやってきたのだが、 今日は大きな門をくぐって入る。エントランスまでは美術館の建物のような庭の広さだ。玄関には美彌が待っていた。ピンク色のワンピースがよく似合っている。

「来てくれてありがとう」

「立派なお屋敷で、緊張する」

小声で美彌に言うと、常二はちょっとしたロビーのような広さの部屋に通され、十人以上は掛けられそうな長いテーブルに、すすめられるまま着席した。

飲み物を運んでくる美彌の顔が少し固い。

美彌の母は、奥のドアを開けて出てきて、常二にあいさつをした。

「先日は美彌がお世話になり、ありがとうございました」そう言って深く礼をした。

常二は思わず席を立ち上がり、同じく深い礼をした。

美彌の母は、四十歳代とは思えないほど若々しく見えた。美彌と姉妹と言ってもおかしくない。

美彌によく似ている顔立ちだが、常二を落ち着かなくさせるような貫禄が感じられた。

常二は美彌と並んでテーブルに着き、美彌の母は向かい側に座った。

「美彌から話はよく聞いています。いろいろこの子にやさしくしてくださっているそうですね」

「いえ、とんでもありません。僕の方が美彌さんによくしてもらっています」

先日見た若い女性が、ケーキを何種類も運んできた。「お好きなものをどうぞ」と言って出て行った。

ケーキはどれも見たことのない、洒落たデコレーションが施されており、一ついただくと、上品な甘さだった。

美彌はあまり口を開かない。主に美彌の母が常二に問いかけ、常二がそれに答えるというやりとりが続いた。

常二は自分の家のことを聞かれたらどう答えようかと心配したが、さすがにそれは話題に出なかった。

常二はようやく打ち解けてきて、話の途中で三人が笑うこともあった。

しかし、美彌が席を外して美彌の母と二人になると、

「あの子は帰国してから小学校で、いろいろとつらいことがあって、この前のような発作を起こすようになったんです」と切り出した。美彌は父の事業のため、カナダで幼時を過ごし、小学校高学年で帰国した。

「ずいぶんよくなってきているのですが、まだ完全には治りきっていないので、どうかそれを理解しておいてくださいね」

「はい、わかりました」と答えたが、美彌の母は、まだ言い足りないと思ったのか、

「あの子をそっとしておいてくださいね。大事な時期なの」そう言って常二の顔を見た。

常二は、その意味を美彌とは男女の深い関係になるなと言っているのだと解釈した。

「約束してくださるわね」

「わかりました」と答えたあと、常二は、何とも憂鬱な気分になった。

美彌の母のこの言葉が常二には呪いの言葉になった。

 

だんだんとボディブローのように効いてくることば

 

会うたびに、「きれいだ」と常二が言うことをねだる美彌。

そう言われると、「うふっ」と言ってはにかむ美彌。

ところが、常二は美彌の母のことばを聞いてからは、美彌にキスを出来なくなり、手もつながごうとしなくなくなった。

もちろん、常二は、美彌といると楽しいし、美彌の美しさに見蕩れることもある。一緒に歩いていて美彌の身体に、自分の手や肩が触れると、常二の身体の芯に戦慄が走る。美彌の豊かに盛り上がった胸のラインや、細いが均整の取れた白い脚を見ると、美彌に欲情する。しかし、常二は首を左右に振って頭の中の妄想を振り落とす。

今日も、美彌と別れて下宿に一人帰ると、常二は我慢できずに自慰行為にふける。美彌の姿を思い出し、どうしようもない衝動に突き動かされて、熱でほてった身体から情念を放出する。そして必ず、後悔の思いがわき起こる。美彌を汚しているように思える。

 

美彌は常二がキスをしなくなったのを不審に思いはじめていた。

学校から一緒に川沿いの道を帰りながら、今日一日の出来事をお互いにしゃべっていたとき、ふと話すのを止めた美彌は、

「ねえ、今日は下宿について行っていい?」と聞いてきた。

常二は美彌をまだ一度も下宿に連れてきていなかった。アルバイトに追われ、二人でゆっくりできる時間がなかったこともあるが、美彌を下宿に連れてくると、その時は、自分の衝動を抑えきれないと自覚していたことが大きかった。

そうなってしまうと、美彌との関係も終わってしまうのではないかと恐れていたのかもしれない。

何より、あの美彌の母の言葉が呪いになって効いていて、美彌の身体に触れることができなかった。

「また、今度にしよう。今日は都合が

「なんで最近手もつながないのよ、おかしいでしょう?」

「私のこと、いやになったの?」立ち止まって、美彌の大きな目が常二の目を見つめる。

常二はその視線に耐えられずに目をそらす。

追い打ちをかけるように、

「おかしいわ、この頃。常二、私に隠し事あるでしょ」

「好きな人できたの?」と小声で聞いた。

「いや、絶対、そんなことない」

「じゃあつれてって」美彌は怒って言った。

「今日は止めておこう」

「私、帰る」と言って一人で駅の方にかけだしていった。

常二はその後ろ姿を茫然と見送ることしかできなかった。

 

柴崎の来訪

 

下宿に柴崎が来た。

大学の講義に常二が出ていないのを心配して来たと言う。

「なんか、しけた顔してるなあ。どうしたんや」

買ってきた飲み物を差し出す柴崎に、常二はつい、美彌とのことを話してしまった。

美彌の母に呼ばれて家に行ったこと。美彌の母から美彌の身体に触れないように釘を刺されたこと。

それ以来、美彌の身体に触れられず、キスもしないし、手もつながないこと。それを美彌が怒ってしまったこと。

黙って聞いていた柴崎は、常二の話が終わると、

「お前はアホか。何でそんな母親の話を真に受けるんや」

「どこの世界に彼女のママのお願いに従う男がいる?いたとしたら、人類は絶滅してるわ」

「人がいいのもいい加減にしろ、美彌のママが美彌に触れるなって?そんなことは美彌本人が決めることやろ、違うか?」

「もう成人したええ大人が、自分の生き方を自分で決められずに、ママの言いなりになってそれで幸せか?」

「美彌さんはそんな甘ちゃんと違うやろ」

柴崎のことばは手厳しかった。ひと言ひと言が常二にはこたえた。

「でも、美彌にはいじめられたことで、心が不安定になる病気があって」

「美彌さんのそれは気の毒だと思うし、お前が心配するのもわからんでもない。」

「でも、彼女はそれを克服しようと戦ってるのと違うのか。お前とつきあってるのもそのひとつや」

「美彌さんのその努力にお前は、腫れ物に触るような態度で接しているのか」

「それが美彌さんとの誠実な向き合い方なんか。考えてみろ」

柴崎にここまで言われて、常二はひと言も反論できなかった。

柴崎の言うとおりだ。何故、それが解らなかったのだろう。

呪いの言葉が、自分の中で、解き放たれていくのが解った。

炭酸ジュースを一気に飲み干すと、柴崎は大きなゲップをした。

 

その晩は柴崎と下宿で飲み明かした。

「彼女が俺を求めて離してくれんのや」

柴崎は美彌の紹介でつきあっている彼女のことを話し出した。

「おとなしい子と思っていたら、情熱的で。会うたびに俺を欲しがる」

「それにこたえるため、俺は会う前に必ず自分で抜いてから、会うようにしてる」

「どれだけ絶倫なんや、お前は」常二は聞いていてあきれるばかりだ。

美彌が言った凸凹カップルということばを違う意味で思い出して苦笑した。

「初めての時は、俺のがでかすぎてうまくいかんかった」

「でも、次から何回も求められて」

酒で赤くなった顔に、目もうつろになっている。

柴崎の彼女は小柄で童顔なので、柴崎の話がにわかには信じられない。

「あのかわいい感じの人が?」

「そうや。お前は女性の怖さをまだ知らんやろ」

「美彌さんも結構」そう言って、にやけた顔を向ける。

「やめろ」

「美彌は違う」

「ええか、僕が美彌さんに連絡するから、来週一緒に会ってちゃんと話をしろ」

「そうやな、美和さんにも来てもらおう」

「俺に任せとけ」柴崎はそう言って、缶ビールを飲み干した。

 

約束の日に常二は、柴崎と一緒に大学前のバス通りにあるカフェの二階の席で、美彌と美和が来るのを待った。

間もなく、美和がその後ろに美彌をつれてやってきた。

柴崎が大きく手を振って二人を席に招いた。

座るとすぐ、美和が常二に真顔で

「大阪湾に沈め」

「あれだけ言ったのに、なんで美彌を泣かせたの」と問い詰めた。

柴崎がまあまあと言って取りなした。

「こいつの話を聞いてくれ」

常二は慎重にことばを選んで、美彌への態度をわびた。美彌の母に原因があるとは思われないように話すのは難しかった。常二は、自分の勝手な思い込みが間違っており、美彌にいやな思いをさせてしまい、心配をかけてすまなかったと謝った。

聞いていた美彌は、前と同じように大きな涙をこぼした。

「ちゃんと美彌に向き合っていくから」常二が、三人に向かってそう言うと

美彌は、「私のことを大事にしてくれる?」と尋ねた。

「もちろん、大事にする。美彌のことを好きだ」

「うふっ」と泣き笑い顔で言った。

美和もやっと表情をやわらげ、

「手のかかるカップルだこと。コンサルタント料もらいたいわ」と言った。

「お似合いの二人なんやから、少々のことで、ゴタゴタせんときや」と柴崎は言った。

「あなた、本当にわかってるよね?今度美彌を泣かせたら大阪湾」その言葉を遮って

「以後気をつけます」常二は思わず頭を下げた。

 

柴崎と美和と別れて、美彌と二人で川沿いの道を歩いて、駅に向かった。

美彌の家の近くで夕食を取ろうと電車に乗った。

電車は夕方の帰宅ラッシュで混んでいた。ドアのそばに立つ二人の手と手が触れた。

常二は美彌の手に自分の手を重ね合わせ、強く握りしめた。

美彌は常二の顔を見上げ、「うふっ」と言った。

笑顔がたまらなく愛しかった。

苦楽園で降りて、芦屋方面に続く坂道を手を握ったままゆっくり歩いた。洒落た店が建ち並ぶ一角では、ショーウインドウに映る美彌の姿が、女性誌のモデルのように美しかった。

見落としてしまいそうな小さなレストランに入り、二人でイタリア料理のコースを食べた。美彌はすっかり元気を取り戻して、よくおしゃべりをした。常二はそれを楽しく聞いた。この時間が永遠に続いてほしい、そう願いながら、美彌と過ごす一瞬一瞬が僕たちの大切な人生の瞬間だと思った。

食事のあとのコーヒーを飲みながら美彌が言った。

「もう二度と泣かさないでね」

「約束するよ」

「前もそう言ったでしょ」

美彌がすねた表情を浮かべるので、テーブルの下で美彌のやわらかい太ももを右手でつねった。

美彌は常二を見つめたまま、二重の目を大きく見開いた。

「何するの」声を潜めて常二に顔を近づけて言った。

「その口をつねりたいわ」

「ひどい」

「ひどいのは美彌の方や。僕を信じてくれないなんて」

「じゃあ許してあげるから、もう一回つねって

「変態か」

「お願い」

右手を伸ばして、美彌の太ももをそっと撫でた。

「うふっ」といつもの声を出した。

店を出たあと、苦楽園の駅に歩いて戻る。

道沿いの店から漏れる灯りがやさしい色で、心が和む。

灯りが途切れた街路樹の下の暗がりで、美彌を引き寄せて唇を合わせた。

離れようとすると、美和は常二の首に回した両手に力を込めて、さらに続けた。

いつまでも抱き合っているような時間が流れて目眩がした。

 

塚本の自殺

 

秋の大学祭で、常二は軽音楽部の知人に頼まれ、サポートで二曲だけギターを弾いた。演奏が終わったあと、何人かの学生から、よかったよと声をかけられてうれしくなった。待っていた美彌に聞くと、「よかったわ。でも、なんだか別人みたい」と言った。「惚れ直した?」と聞くと、美彌は「調子に乗ると、大阪湾よ」と笑いながら言った。

その知らせは下宿に来た柴崎から聞いた。

珍しく深刻な顔をした柴崎は、同じゼミの塚本が、自殺したと告げた。

塚本は実家がお寺で、親との折り合いが悪かったらしい。

塚本は先月、初めて常二の下宿を訪ねてきたのだった。

その晩は音楽や彼女のことなど、他愛もない話をして常二の下宿に泊まって帰ったのだが、塚本からはそんなそぶりは一切感じ取れなかった。

柴崎の話を聞いた常二は全身に鳥肌が立った。

柴崎は葬式に行くというのだが、常二はあいにく断れない仕事が入っているので、参列できないと言った。

柴崎は俺がお前の分も併せて参列してくるから、気にするなと言って帰った。

下宿で一人になると、常二は塚本が来たときのことを反芻した。

塚本の表情、言葉を記憶から洗い出す。

何気ない会話の中に原因と思われることはなかったか?

たしか塚本は、常二の親のことを尋ねた。

常二は隠さずに、自分の家は母子家庭で、父には一度も会ったことがない、実家は経時的に苦しくて、学費も仕送りもなく、アルバイトに追われている、そう言うと、お前もたいへんなんやなと塚本は言った。

なぜ、あの時、死ぬことを考えていたなら、相談してくれなかったのか。そうしたら少しでも引き止めることができていたかもしれない。

塚本はおしゃれな人で、いつも人目を惹く個性的な服装をしていた。それがよく似合っており、おしゃれは塚本に聞け、が周囲の評価だった。

実家の寺を継がなければいけないことと、塚本のおしゃれなことが、相容れない要素として自殺に結びつくのか。

常二はそこまで考えて、自分も高校二年生の秋に一度、自殺未遂を起こしたことを思い出した。

その原因は、医者から、今の体調なら、通常の社会生活は一生無理だと宣告されたことだった。

高校に入学してから常二は体調に異変をきたした。毎朝からだが重く、だるく、起きにくくなってしまった。

クラスの友人はサボりだと言って笑ったが、学校の健康診断で尿検査の数値が異常だと言われ、病院で検査をすると、即日入院させられた。

十日間ほど入院していた間に、楽しみだった修学旅行は終わってしまった。

いろいろな検査を受け、告げられた診断が、腎臓に深刻な奇形があり、普通に社会生活を送ることはできないだろうという結果だった。それを聞いた母は動転し、なんとか治らないのかと医者に尋ねたが、医者はしばらく様子を見るしかないという返事だった。手術も投薬もなく、投げ出されてしまったのである。

常二は、それ以来、学校を休みがちになり、勉強も遅れて成績が急下降した。国公立大学に進学することが目標だった常二は、半ばその夢を諦めかけていた。

そんなあるとき、発作的に睡眠薬を大量に飲んでしまったのである。

薬は眠れないからと言って処方されていたものに、ひそかに手に入れていたものを加えて飲んだ。

何かの強い力で吸い寄せられるようにして起こした突発的な行為だった。

たまたま外出先から戻った母が常二の異状を発見し、すぐに救急車で運ばれた。

幸い処置が早くて、命に別状はなく、翌日には退院できた。ただ、退院するとき、医者からきつく叱られた。高校にはそのことは連絡されなかった。一年後、再検査したときには奇跡的に完治していたのだが。

そんな過去がある常二には、塚本の自殺は自分の過去をえぐり出されるようで、痛かった。

夜になると、その当時のことを思い出して、無性に死にたくなった。

何かの引力で高いビルの屋上にひきよせられる。そしてフェンスを乗り越えて、身を投げる。そんな妄想が頭の中で繰り返される。

常二は怖くなって一人で涙を流して夜が明けるのを待った。

夜が明けると妄想は消えて、安心して眠りに陥る、そんな日が何日か続いた。

自分でもこんなことではいけない、妄想を断ち切ろうと思うのだが、自分の力ではできない。

美彌からの連絡には返事ができなかった。心配しているだろうなとは思ったが、今の精神状態では美彌にちゃんと向き合うことができなかった。

常二を心配して、一度下宿に来た柴崎は、塚本のことは気にするな、どうしようもないことだと言って慰めた。

このままでは自分はダメになる、美彌も泣かせてしまうと思うのだが、柴崎には自殺のことは言えなかった。

柴崎から様子を聞いたのだろう、柴崎が来た翌日に、美彌が一人で常二の下宿に来た。

夕方誰かがドアをノックするので重い身体を起こして、出ると、美彌だった。

ひげも剃らず、顔色の悪い常二を見ると、美彌は、わっと声を上げて泣き出し、常二に抱きついた。

部屋に美彌を入れ、心配をかけて済まないと謝った。

美彌は常二に抱きついたまま身体を震わせ、長い時間泣いていた。そしてやや落ち着くと、常二の目を見て、

「ちゃんと話して、何があったの」と言った。

「私に隠し通すつもりなの?」

「何でも聞くって言ってくれたでしょ、私も同じ、何でも聞くから」

そう言うと、常二の手を強く握った。

「塚本が死んで、思い出したんだ」

「何を?」

「自分も死にたかったときがあったのを」

常二は高校生の時の自殺未遂のいきさつを美彌に隠さず話した。塞がっていた傷口が痛みを伴って、また開いてしまった、そんな感覚だと言った。みじめで、恥ずかしい、こんなことは美彌には知られたくなかった。

聞き終わると美彌は、「抱いて」と言った。

常二は頭を何かで殴られたような衝撃を受けた。

美彌は身を以て僕を救いに来たのか。その思いを汲み取らずに拒むことはできない。そう思うと、常二は夢中で美彌を抱きしめた。

濃密な時間が過ぎていった。

夜中に目覚めると、常二の横で美彌が寝入っていた。裸の肩を揺すり、美彌を起こした。

「大丈夫なの、家は」

「美和の家に泊まると言って出てきたから」

キスをせがむので、唇を合わせた。

「うふっ」といつものように言った。

「ねえ、もう一回」そういう美彌の身体をきつく抱きしめた。

翌朝、目覚めて見た美彌の姿は、まぶしいくらい美しく、いとおしかった。花に包まれていた昨夜の喜びをかみしめた。死のうと思った妄想がかき消されてしまった。

二人でシャワーを浴びて、服を着替え、外へ出た。久しぶりの外の世界は、色とりどりの花にあふれ、輝いていた。

駅前のカフェでモーニングセットを二人で食べた。

「二人なら乗り越えられるんだから」

「悪かった、自分を大事にできなくては」

「美彌のことを大事にできないね」

「また泣かせたわね」食べ終わると、美彌が言った。

 

クリスマス前

 

クリスマスが近づくと、中央芝生の時計台は、左右に植えられた大きな樅の木に、色とりどりのあざやかなデコレーションが施されて、絵はがきのように美しかった。

講義が終わると、早くも日が落ちて暗くなった中に、イルミネーションが輝く。

美彌は、うっとりした顔でその光を見つめている。

「ねえ、クリスマスは家に来て。ごちそうするから」

美禰は常二の肩に頭を寄せながら、そう言った。今の二人なら、美彌の母に、なんら負い目を感じることはない。

「うん、行くよ。楽しみだね」

そう言って美彌のほおにそっと口を寄せると、

「うふっ」と言って白い歯を見せた。

 

 

母の死

 

一月下旬の寒い夜だった。

常二は元町のライブハウスのアルバイトを早めに終えて、店で上がりを待っていた美彌と一緒に阪急電車で夙川まで帰った。駅近くのフランス料理店で、常二の誕生祝いの食事をしたあと、美彌を苦楽園の駅まで送っていった。

下宿に帰ったのは十一時を過ぎていた。着替えを済ませて寝る支度をしていたとき、電話が鳴った。

母の親戚と名のる人からの電話だった。それは、母の死を知らせるものだった。

母は、年末から体調がすぐれず、正月明けに入院をしたのだが、容態が急変して、あっけなく死んでしまったのである。進行の早い癌だったと言うことだ。

正月に常二が帰省していたときは、たしかに顔色がすぐれず、調子がよくないが、心配はないと言っていた母が、こんな急に死んでしまうなんて、まったく思いもしなかった。

電話を切り、まだ事態が飲み込めないで、ぼんやりしていると、壁に掛けていたコートが、突然、常二の目の前で、バサッと大きな音を立てて床に落ちた。

その瞬間、常二は、やはり母は死んでしまったのだと確信した。

 

その日からの一週間はどうだったのか、よく覚えていない。

電話の翌朝、あわてて田舎に帰り、初めて会う母の親戚と葬式の打ち合わせをした。そして母を送り出し、小さな骨壺となって帰ってきた母をその親戚に託して、帰ってきた、それだけしか記憶がたどれなかった。

ついこの前まで、二人で一緒に生きてきた母が、突然、常二の前から姿を隠してしまった。その事実がうまく飲み込めない。世界中から自分一人だけが騙されているのではないか、終いにはそう思うようになった。

 

その間、美彌には毎日電話をしていたのだが、美彌が必ず泣き出すので、常二はなだめることばを言うばかりだった。ちゃんとした話は一度もできなかった。

 

一通りの片付けが終わり、下宿に戻って来た常二は、初めて母の思い出をたどれるようになった。

 

母子家庭で、母と常二の二人でずっと育ってきた。

母は、母であり、姉であり、時には父であり、兄でもあった。

美しい母は幼い頃から常二の自慢であった。

小学校で保護者の参観があると、常二は決まって後ろを振り向き、たくさん来ている母親の中で、常二の母がいちばんきれいということを確かめて満足した。

中学校の時に、母が何かの話の中で、お前がおなかの中にできたとき、生まないつもりだったが、人に相談すると止められたので生んだと言ったことがあった。

「生んでくれない方がよかった」と常二が言うと、気の強い母が涙を流した。

それ以来、母を泣かさないと心に決めた。当然、父のことは母に尋ねたことはない。

高校生になると、母の期待に応えたくて、勉強もがんばってきた。

無理をして常二を大学まで活かせてくれた母。そんな苦労が母の身体を蝕んでいたのか。

その母もいなくなってしまった。

常二はこれで本当の一人きりになってしまった。

母は財産を残していなかったので、これからの学費と生活費をどうするかが、目下、最大の悩みになった。

 

翌朝は、美彌と会う約束をしていた。およそ十日ぶりである。

十時に北口で美彌と落ち合う。

美彌は神戸線のホームから上がって来る乗客の群れの中から抜け出して、常二を見つけた途端、小走りで寄ってきて、常二の右手を自分の右手で強く握りしめた。

「お帰りなさい」

「待ってたわ」

「今日は泣かないから」

「その代わり」と続ける。

「その代わり?」

「この手を離さないから」

 

「わかった。いいよ」

「でも、トイレが困る」

「我慢してね」

「それはきびしい」

「美彌も、トイレ行かれへんやろ、それなら」

「あたし?漏らしてやるわ」

「やめろ」

 

駅から出て、テラス席のあるカフェに行く。

「いろいろたいへんだったわね」

美彌がしんみりと言った。

「ああ、とうとう一人になった」

たちまち美彌の瞳に涙の膜ができた。

「あたしがいるでしょ」

「今日は泣かない約束だよ」と、やんわりたしなめると、

「そうね」と言って黙り込んだ。

 

「ねえ」と言って常二の瞳を見つめる。

「大学はどうするの?続けるでしょ?」

「そう、続けたいとは思ってる。授業料が払えるかどうかがネックだけど」

「バイトをもっと増やしてがんばってみるよ」

 

美彌の表情を見ながら、常二は慎重にことばを選ぶ。

「田舎には、もう帰らないつもりだ。こっちで暮らしていく」

美彌の表情が少し明るくなった。

「本当?うれしいわ」

「食べられなかったら、私がごちそう作ってあげる」

「ねえ、今日うちに来ない?早速ごちそう食べさせてあげるわ」

美彌はいい思いつきをしたという顔つきをして、常二を誘った。

 

「うん、いいよ、今日はバイトもないし」

「でも、ママはいいのかな?急に行っても」

「今日はママお出かけなの」

遠慮しなくていいのよと付け足した。

 

それから二人で、夙川に行き、甲陽線に乗りかえて苦楽園に着く。

駅からタクシーで美彌宅に行った。

お手伝いさんも今日はいないという美彌の家に上がると、人気のない静まりかえったお屋敷が、さらに広く感じる。

以前に通されたリビングで、美彌の作ったランチを一緒に食べる。

チキンのグリルとサラダに、何個でも食べられそうな、うまいパンやクロワッサン。

食後のアイスクリームとコーヒーも最高の味だった。

「こんなおいしいものを食べられて、僕はしあわせ」

「うふっ」と美彌は言った。

 

片付ける間、私の部屋で待っていてと言われて案内された二階の美彌の部屋は、ちょっとしたマンションぐらいの広さがあった。

入ったすぐはリビングで、ソファが置いてあり、そこに座ると、窓から西宮の街が見下ろせた。

部屋は全体がヨーロッパ調で、マホガニー色のアンティークの家具が落ち着いた雰囲気を醸している。

おしゃれな雑貨類が飾られたサイドテーブル、画集や洋書が並ぶ本棚。部屋の奥にはアップライトのピアノが据えてあった。

 

常二は美彌と自分の境遇の違いを考えていた。

こんな豪勢な邸宅で、豊かなものに囲まれて育ってきた美彌と、母子家庭で育ち、その母を亡くして、今や身体一つになってしまった自分と。

同じ人間としてこの世に生を受け、これ程の違いがあるのはどういうことだろう。

運命というものがあるのなら、二人の運命はあまりにも違いすぎる。その二人が交わっているのは、お互いに相手のことが好きだという一点だ。中央芝生での偶然の出会いから始まって、今こうして二人、お互いを必要として付き合っている。

そんなことをぼんやり考えていると、壁面に飾られた鏡の中で、美彌の目と、常二の目が合った。

いつの間にか、美彌がドアを開けて部屋に入ってきていた。

しばらく、鏡の中の美彌は動かずに、じっと常二を見つめていた。

 

その瞬間、常二の心が美彌の気持ちに共振して、大きく動揺した。

塚本が自殺して、常二が落ち込んでいたとき、常二の下宿をひとりで尋ねてきたときの美彌の表情と同じだったからである。

 

あの時、美彌は常二を救いに来た。

今日の美彌もあの時と同じ目をして常二を見つめている。

そう気づくと、常二は急に胸が苦しくなってきた。

 

鏡の中の美彌はゆっくり動いて視界から消えて、現実の美彌が常二の前に座った。

そして、美彌の目が常二の目を見据えた。

「ねえ、怒らないでね」

「約束して」

「約束する、怒らない」

「これを使って」

美彌はそう言って、厚みのある封筒を差し出した。

「ちょうど後期分、六十万円入っているわ」

 

常二は驚いて、美彌の顔を見た。

美彌は首を横に振り、「黙って受け取って」

そして、毎月少しずつ返してくれたらいいからと付け加えた。

「私のお金だから、心配しなくていいの」

「ねえ、お願い、受け取って」

常二は黙り込んだ。

「こんなものであなたを引き止めようとしているのではないの」

常二は頷いて、封筒を受け取った。

「心配してくれてありがとう、借りておく。ちゃんと返すから」

「返さなかったら、大阪湾に沈めるわ」

「やめて」

「じゃあ、返せなかったら、一日、私の言いなりになるのはどう?」

そう言うと、美彌は常二に激しく抱きついてきた。

強く抱きしめると、「うふっ」と言った。

 

また濃厚な時間が流れた。

美彌のベッドから抜け出すと、美彌は常二の名前を呼んで、シーツの中から両手を差し出した。

常二はベッドに戻り、シーツをめくると、美彌の豊かな上半身があらわになった。

「きれいだね」と言うと、「うふっ」と笑った。

「お金は、返せなくていいのよ」と言った。

 

店長の話

 

母が亡くなってから二週間ほど、ライブハウスのアルバイトを休んでいた。

今日は早めに店に入ると、店長だけが出勤していた。

店長に長い間休んでいたことのお詫びを言った。

 

「いろいろたいへんだったなあ」

店長はわびる常二に声をかけた。

「もう落ち着いたか?遺産整理で、もめたりしなかったか?」

「何も残していなかったので、大丈夫でした」

「君は、これで一人きりになったのか」

「ええ、もともと母と二人だったので」

「そうか寂しくなったな」

「大学は続けられるのか?」

「なんとか授業料を作って続けようと思っています」

「君さえよければ、もっとシフト入ってもらってもいいよ」

「ありがとうございます。その時にはお願いします」常二は頭を下げた。

 

店長は、母親と二人暮らしをしているそうだ。母親の体調がよくなく、介護をしている。

店長は常二に座るようにすすめ、カウンターに二人並んで腰掛けて話した。

今日の店長は珍しく饒舌だった。

 

「僕は二十歳過ぎの時に大切な家族を震災で亡くしてな」

初めて聞く話だった。

「東京でバンドがメジャーデビューの直前まで行っていたけど、稼ぎがなくて」

「当時結婚したばかりの妻と生まれて間もない赤ちゃんをあいつの実家の神戸に帰していたんだ」

「僕だけが東京に残り、バンドを売りに出そうともがいていたときに、あの震災があって」

そこで店長は話を切った。

常二は思わず店長の横顔を見つめた。

 

「あいつの実家は全壊し、下敷きになって二人とも死んでしまった」

「あいつの両親も一緒、四人とも遺体で見つかった」

「二十歳で死んでしまった」

 

「賀集君は今いくつ?」

「二十一です」

「そうか、あの子も生きていたら、ちょうど君ぐらいになってるのか」

そう言うと店長は常二を見た。

常二は聞いていると胸が苦しくなり、涙があふれ出した。

 

「僕はバンドを止めて、こちらに帰ってきて、そのあとは職を転々とした」

「母が病弱だったから、世話をしてきた」

「音楽で食う夢は諦めたが、音楽と関わっていたくて、今の仕事をやってる」

 

「いろいろなことが偶然そうなっていくんだよ。辛くてもそれを受け入れて、生き続けていく」

「君も若くして母親を亡くしたのは、偶然の一つなんだ。それを受け入れて前に進んでいくんだ」

「君は決して一人でない。必ずまわりに、励ましや助けを与えてくれる人がいる」

「僕にもそんな人がいたから、死なずに今まで生きてきた」

 

店長のことばが常二の心に深く届いた。いつまでも母の死とわが身の不幸を嘆いていても仕方がない。

自分以上の深い悲しみを背負って生きている人が目の前にいる、常二はそう思うと少し勇気が出てきた。

 

店長は、

「好きな人がいるなら、今の瞬間、瞬間、大事にしてあげろよ」

「死んでしまうと、大事にしてあげたくてもできない」

「後悔ばかりだ、あの時もっと大事にしておけばとね」

「これがあとあと苦しい」

 

常二は美彌のことを考えていた。

大事にするからと口では言いながら、本当に美彌を大事にしてきたのだろうか。

好きだから、お互い気に入っているからというだけで、一緒にいる、ありきたりの関係になっていないだろうか。

 

「そういえば、よく来ているあの美人が彼女か?」

「はい」

「彼女もお前のことがきっと心配でたまらないだろう。泣かすなよ」

 

店長と並んで話していると、まるで父親と話しているような気がしてきた。

常二は父に会ったこともないが、おそらくこんな感じで話をするのだろうなと思うと、なんともいえない気持ちになった。

店長は、家族を失ってから二十年以上も生きてきた。その歳月は途方もなく重いもののように思えた。

常二の父がどこかに生きているとすると、二十年ほどをどんな思いで生きているのだろう。

 

店長も、人には決して話さないことを僕に話して、僕を救おうとしてくれている。

本当にありがたいことだ、常二は感謝の気持ちで何かに祈りたくなった。

心の中で店長と、亡くなった奥さん、お子さんに手を合わせた。

 

 

美和の婚約

 

学食のカフェで美彌と一緒に後期の成績表を見た。

後期試験は、毎日、美彌と一緒に時計台の図書館に籠もって勉強した。

アルバイトに追われる生活の中で、常二は無事進級できる単位を取っていた。常二は安心とするとともに、この数ヶ月の頑張りに満足でもあった。

 

「美彌の成績見せて」

美彌は白い歯を見せて、成績表を常二に渡した。

「えっ、全部優やん」

「一年の時も全優よ」

「文学部で一番の成績だったから、大学から奨学金をいただいたわ」

美彌はさらりと言う。

「いくらもらったの?」

「六十万円」

「六十万?そんなにもらえたの?うらやましい」

「それがあなたの所に行ったじゃない」

美彌に借りて後期の授業料を支払った金のことだ。

「そうだったのか」

常二はこの女には、絶対にかなわないなと思った。

 

「ねえ、次の日曜日、仕事あるの?」

「次の日曜は、空いてる」

美彌は、美和から新居に引っ越したので遊びに来ないかと招待されたので、一緒に行きましょうと誘った。

「お土産は私が用意しておくから」と美彌が言った。

 

その日は夙川から乗り込んできた美彌と落ち合い、三宮まで出て、JR神戸線で塩屋まで行った。駅から山側に少し歩くと、美和の新居に着いた。

新居と言っても築年数の経った大きな一軒家だった。

 

常二は美彌と顔を見合わせた。

「えらい大学に遠いところやな」常二が不審に思って、ささやくと、美彌は、

「美和の実家からも遠いわ。御影やから」と言った。

 

呼び鈴を鳴らすと、美和が笑顔で出迎えた。

応接間に案内されて美彌と並んで座った。

「今日は遠いところまで来てくれてありがとう」

美和は、ずっと笑顔で、目が輝いている。本当にうれしそうに見える。

「お茶でも飲んでゆっくりしていてね」

奥に入った美和を見送りながら、美彌が、「美和、きれいになったでしょう?」と言う。

「そう、前から美人だったけど、一段と色気が増したというか、艶っぽいね」と常二が答えた。

 

しばらくすると、ドアが開いて美和が男性を連れて入ってきた。

「紹介するわ、婚約したの、私たち」

美和が紹介する男性の顔を見て、常二と美和は同時に「えーっ」と声を出してしまった。

その男性は、常二たちの大学の法学部の助教授、山田先生だったからである。

この先生の民法の講義を今年、常二と美彌は一緒に受けていたのだ。

常二は、にわかに理解できなくて、美和に「どういうこと?」と間抜けな質問をしてしまった。

「私たち、今年の秋に結婚することになったの。それまでは婚約中の身よ」とうれしそうに答えた。

「おめでとう、美和」美彌がすかさず言った。

「おめでとうございます」常二も続けていった。

「ありがとう」美和はそう言って、まだ大学の関係者には話していないと言った。

「とりあえず、座って」と言う美和のことばで、四人ともソファに腰を下ろした。

 

「先生、おめでとうございます」美彌はそう言って、改めて丁寧にあいさつした。

「ええ、ありがとう」山田先生も、笑顔で答えた。

講義で見る顔とは違って、穏やかな顔をしている。

講義で遠くから見ているだけの先生の顔をこんなに間近で見るのは、不思議な感じがする。

 

美和が話してくれた二人のいきさつはこういうことだ。

山田先生の講義を聴くうちに、美和は先生の研究室を訪れて質問をするようになった。最初は質問のためだったが、それが毎日のことになり、しまいには先生にお弁当を作って届けるようになった。

山田先生は独身で、同じように研究室を訪ねてくる女子学生も他に何人も居たのだが、美和の美貌と積極的な訪問が、先生のお堅いガードを崩したということだ。

二人でお忍びのデートを重ねるようになり、先生が今年の四月から教授に就任することが決まって、それをけじめにして婚約したそうだ。

 

「じゃあ、美和は大学教授夫人になるのね」

「そうなの。驚いたでしょう?」

「誰かいい人ができたのはわかってたけど、山田先生だとはわからなかったわ」と美彌は言った。

 

紅茶とケーキをいただき、二人の馴れ初めや、デートのエピソードを聞いた。

阪神間では学生に見られてしまうので、デートは主に京都や奈良まで出かけていたそうだ。

古寺巡りも恋する二人には、しっとりとした時間を過ごせていいものかもしれない、と常二は勝手に考えた。

美和は、東京でテレビ局のアナウンサーを目指すつもりだったが、やめて家庭優先にすると言った。結婚後も大学は続けて、卒業するとも言った。

美和は一年の時に、全国誌の週刊誌の表紙に、顔写真が掲載されたことがある。テレビ局の女子アナウンサーにも引けを取らない美貌である。大学教授夫人でもじゅうぶんにやっていけると常二は思った。

 

常二が先生に、美和とけんかをすることがありますかと尋ねると、

「年の差が大きいので、けんかになりません」と言った。

「おいくつ違うのですか」常二が聞くと、美和が、

「十七歳の差よ」と言った。

「十七歳」美彌と常二が声をそろえた。

「でも先生は若々しく見えるから、そんなに離れているようには見えませんよ」常二がフォローした。

「先生、美和さんを怒らせると、大阪湾」と常二が言いかけると、

「やめなさい」

美彌が常二の横腹をつついた。

 

四月になるまで伏せといてねという美和は、「結婚式には二人を招待するから、ぜひ来てね」と言って、辞去する常二と美彌を見送った。

塩屋駅までの坂道を下りながら、

「美和、幸せそうだったね」としみじみ言った。

「そうだね、よかったね」

常二の方をちらっと見て、

「結婚かあ、うらやましいわ」

常二が黙っていると、

「ちゃんと聞いてた?」

「ねえ、嘘でもいいから、いつか、その時が来たら結婚しよう、ぐらい言って」

「嘘はよくないでしょ、大事なことなんだから」

「それに、美彌に嘘をついたら、大阪湾に沈められる」

「阪上家の掟よ」美彌がすかさず言う。

「これからのこと、一緒に考えていこう」

美彌は二重の目を大きく見開いた。

「本当?」

「本当だよ」

美彌は、常二の腕をつかんで、

「うふっ」と笑った。

 

美彌のママと対決

 

四月になって、三回生に進級した常二は、前期の授業料をなんとか納めることができた。

アルバイトを詰め込んで、ライブハウスだけでなく、家庭教師と塾の講師も始めた。週末にはくたくたになる。学業もあるので、ゆとりのない生活が続いている。

ある日、学食で一緒にランチを食べたあと、美彌がママとけんかをしたと常二に言うので、話を聞こうと学生会館のカフェに行った。

「ママがあなたとのつきあいに口をはさむから、けんかになっちゃった」

「就活もあるから、あなたと会うのもほどほどにしなさいって言うの」

「内定が出るまで、会うのを控えたらって」

「あなたはゆくゆくは、家を継いでもらわないといけないんだからって言うから、私は自分のやりたいようにする、家に縛られたくないって答えたの」

「ママは私が今まで逆らったことがなかったから驚いていたわ」

 

阪上家は貿易業を営んでいる。将来は美彌が会社を継ぐのだろうか、そんな話は美彌から聞いたことはなかった。

「美彌は就活、どうするの?」

「私はしないつもりよ」常二は初めて聞いて驚いた。

「じゃあ、何をする?」

「もう決めてるの」

 

今日の美彌は強気である。母親とのけんかのことが、美彌を興奮させているのかもしれない。こんな時は美彌に逆らわないに越したことはない。

「あたし、カフェを作るの」美彌は初めてその考えを話し出した。

 

常二も美彌もコーヒーが好きで、よくいろいろな店に飲みに行く。

美彌の家の近所にも素敵なカフェが何軒かあり、美彌のお気に入りになっている。

そうした店は、焙煎機を据え付けてあったり、独自に輸入した豆を販売していたりで、スペシャルティコーヒーと呼ばれる特別なコーヒーを扱っている。

 

「苦楽園の近くか、夙川あたりに小さなお店を出すの」それが私の夢だと言った。

「いいねえ、美彌にぴったりだと思う」

「でしょう?おいしいコーヒーをたくさんの人に知ってもらいたいの」

コーヒーとカフェ経営の勉強を始めているという美彌。

「いやじゃなかったら」美彌が、常二の顔を上目で見た。

「いやじゃなかったら?」

「あなたを雇ってあげる」美彌はさらりと言った。

「高く付くよ」

「早く私の借金返しなさい」と返されてしまった。

 

「そうそう、さっきの続き。ママがね、子供できないようにちゃんと避妊しなさいって言ったの」

「そんなことまで言われたくないから、子供ができてもママには抱かせないからって、つい言っちゃったの」

「そしたら」

「そしたら?」

「ママが逆上して言い合いになって、出てきちゃった」

「で、今日は帰らないから」美彌はそう言って、「泊めてね」と平気な顔をして言った。

常二は内心、阪上家の女性の怖さにおののいた。

 

美彌が母親のことばに対して怒る気持ちはわかる。美彌も大人だから、母親からあれこれ言われたくないだろう。

一方で、美彌の母の立場なら、天涯孤独で何も持たない男に熱を上げている娘のことが心配になるのもわからないことはない。

常二は、次からはちゃんと避妊しようと思った。

 

「今までもずいぶんママは、ああしなさい、こうしなさいって口出ししてきたわ」

「私はこれまでママの言うとおりにしてきたけど、それが正しいことではないと思ったの」

「あなたとつきあいだして、ママに自分の考えを言えるようになったわ」

常二は自分がどう関わっているのか、わからなかった。しかし、美彌は自分とつきあうようになってから、確実に強くなっている。

「私は親離れしないといけないし、ママも子離れしないといけないのよ」

 

この親子げんかの主な原因は、自分にある、そう思うと常二は放っておけなくなった。

今すぐ美彌に母と仲直りを促すことは、やめておいて、美彌の機嫌が直ったら、母親との関係を修復するように説得してみよう、常二はそう決めた。

 

今夜は家庭教師の仕事があったので、仕事が終わるまで、美彌に下宿で待ってもらうことにした。

二時間の仕事を終えて下宿に戻ったのは九時を回っていたが、美彌は、夕食を作って待っていた。

二人で一緒に食べていると、まるで新婚生活のように思えた。

そう言うと、美彌は「うふっ」と笑った。

美彌と一緒にベッドに入った。美彌は強く抱きついてきて、「ちゃんとつけてね」と耳元でささやいた。

 

朝のベッドの中で、美彌の白いなめらかな背中の肌を指でたどりながら、常二は物思いに耽った。

 

母の死から四ヶ月経った。

美彌や店長、柴崎や美和たちに助けられながら、生き続けている。

そして、美彌と中央芝生で出会ってから一年になる。

その間、いろいろなことがあった。

つきあいだした頃は、よく泣いていた美彌。

何より驚くのは、美彌があの母親とけんかするまでの強い人になったことである。

 

さて、二人の中をどう取り持つか、考えてみたが、妙案を思いつかない

 

目覚めた美彌に、常二は「今日ママに会いに行きたい」と告げた。

「どうするの?」心配そうな顔で聞く美彌。

「とにかく二人のことを理解してもらおう」

「ママに少しでも僕たちのことを安心してもらえたら、けんかにならないんじゃないのかな」

「いいわ、話をして、だめなら駆け落ちよ」

「また過激なことを言う」

「覚悟しといてね」と美彌は言った。

 

常二はひげを剃り、白い綿シャツにチノパンツをはいた。少しでもきちんと見える格好をしておきたい。

美彌に「これなら大丈夫かな?」と見てもらうと、

「イケメンだから大丈夫よ」と答えになっていない返事をされた。

 

苦楽園からタクシーで美彌宅に向かう。

美彌の手をずっと握っている。

「うまく話せるかな」

「あなたなら大丈夫」と美彌は短く答えた。

 

広いリビングで美彌の母を待った。

美彌はいったん自分の部屋に行って来るといって、常二を残してリビングから出て行った。

しばらくして、美彌の母が入ってきた。

「いらっしゃい」と言って、白い歯を見せた。美彌とよく似ている。驚くほど若く見える。

「阪上さん、昨夜は美彌さんはうちに泊まってもらいました。ご心配をかけて申し訳ありません」

常二は立ち上がって、まず頭を下げた。

「いいえ、こちらこそ、ご迷惑をかけて」

美彌の母は笑顔を見せる。そして急に、

「お母様がお亡くなりになったそうで、お気の毒です」

「もう、落ち着かれましたか?」顔を曇らせて尋ねた。

「はい、ありがとうございます。美彌さん初め、いろいろな人に助けられて」

「なんとか学業も続けられています」

「たいへんでしたね。お一人になられて」と慰めるように言った。

 

「今日は、美彌さんのお母さんに聞いていただきたいことがあって伺いました」

「承りましょう」

常二は緊張した。

「私と美彌さんの交際を心配なさらないでいただきたいのです」

「もちろん、お母さんにご心配をかけないように二人で努力していきます」

「ただ、私たちはまだ学生ですし、仕事も財産もありません。今、お母さんに安心してもらう材料は何も持ち合わせていないのです」

「あるのは美彌さんと一緒にずっと仲良くしていきたいという気持ちと、二人で助け合っていきたいという気持ちだけです」

「二人で周囲の方に理解していただけるように、誠実に接していくつもりです」

そこまで一気に言うと常二は、美彌の母に自分の話がどこまで届いたのか、確信が持てなかった。

言い終えたとき、美彌が入ってきた。ドアの傍で常二の話を聞いていたらしい。

「私は常二となら、楽しく生きていけるの。他の人ではできないわ」美彌が硬い表情で言った。

美彌の母は、しばらく考えているようだった。

美彌は常二の横に腰を下ろし、常二の手を強く握った。

 

「あなたたちがそう言うのなら、私たち親を安心させてもらいたいの」

美彌の母はそう切り出した。

「賀集さん、責任を取れますか、美彌とずっと仲良くしていくという」

「責任ですか?覚悟はできています」

「では私たちを安心させるために、籍を入れてください」

 

「籍を入れる、ということは結婚すること?」常二は思わずつぶやいた。

「それなら安心して美彌のことを見られますから」

「夫は、私が承知すれば、反対しません。美彌のことなら、なおさらです」

「わかりました。美彌さんと」

「二人で話をさせてください」と美彌の方を見た。

「私の部屋へ行きましょう」美彌はそう言った。

 

部屋に入り、ドアを閉めた美彌は神妙な顔つきで

「ほんとうにいいの?」と尋ねた。

常二は突然の展開に半ば茫然としていた。ここで頭を冷まして、入籍するという意味を考えよう。

美彌とはこれからもずっと一緒にいたい、美彌の親には反対されたくない、二人で誰にもはばからずに過ごしたい、その条件、求められた答えが、入籍すること。

想定していなかった考えを提示されて、常二は慎重になっている。

黙り込んで考える常二に美彌は、

「いつでも私とずっと一緒にいたいでしょ?」

「それなら入籍して」と少しふるえる声で言った。

常二は美彌の目を見た。美彌の目は、あなたのためにもいいことでしょう、と訴えかけるように見えた。

「わかった、美彌が望むならそうしよう」

「うふっ、うれしいわ」

美彌が常二に抱きついて、口づけをした。

長い間そうしていた。

 

唇を離し、美彌の顔に流れる涙を見た。

「泣いてるやん」

「大事にしてね、ずっと」

「大事にするよ」

「泣かせたら大阪湾よ」

「冗談と思えないのが阪上家の怖さだな」

「今さら怖じ気づいて逃げないわよね?」美彌が笑いながらにらんだ。

 

二人でリビングに降りて、美彌の母と向き合った。

常二から返事を聞くと、母はぱっと明るい笑顔を見せて、「美彌、よかったね、おめでとう」

と言った。

「早いほうがいいから、来週の日曜日に婚姻届を出しましょう。その時は主人にも会ってもらいたいから、かまわない?」

「わかりました。日曜に伺います」

夕食を一緒にと誘われて、それまでの時間を美彌の部屋で過ごした。

「お化粧を直す間、待ってて」

常二をソファに座らせ、幼いときのアルバムを見ていてと渡した。

 

常二は田舎から戸籍謄本を取り寄せて、日曜日に入籍を済ませて、美彌の父にも会った。

美彌の父は終始上機嫌で、美彌を大事にしてくれるなら何でも応援すると言った。。

食事を終えると、美彌と部屋で話をした。

 

「美和の婚約が大きいと思うの」

美和の母と美彌の母は知り合いで、仲がよい。美和の婚約を聞いた美彌の母が、うらやましく思っていたようだ。自分の娘も結婚させたいと思ったのは間違いないだろう。

これまで従順だった娘が、常二とつきあうようになって、ずいぶん変化して、親の言うことに逆らうようになった。これ以上、母子関係をこじらせるよりは、入籍させて心配をなくした方がいい。

結婚相手が大学教授と学生とでは張り合えないが、一人娘の阪上家にとっては、身内のいない常二がいっそ婿養子にするのに都合よいとでもと考えたのかもしれない。

これが美彌の語ったことだ。

常二はなるほど、そういうこともあるかもしれないと思った。

どうであろうと、これで二人の運命が決まったという思いで常二は胸が一杯になった。

店長が言った、偶然を受け入れて前へ進むということばを思い返した。

常二の母は、お前は人がいいから自分の意見を言えない気の弱いところがあるとよく言っていた。

母の死も、美彌との入籍の遠因になったのかもしれない。

母は、喜んでくれているだろうか。

 

美彌は、「考えごと?」と常二の顔をのぞき込んでいった。

「ああ」

「どんなこと、考えてたの?」

「美彌があと何年かしたら、ママのように怖い奥さんになるのかと」

「沈めてやる」と言って、両手で常二の首を絞めた。

「やめろ、息ができん」美彌の手を売りほどいた。

「あなたはもう阪上家の一員になったのだから、覚悟しておきなさい」

 

入籍に驚く

 

当面、二人の入籍は公表しないことにしたが、美和と柴崎だけには知らせることにした。

常二のアルバイトは、今のまま続けることにした。ライブハウスと塾と家庭教師である。

下宿もそのまま住み続ける。ある程度、生活費のめどが立てば、二人で折半して、美彌の家に近い北口か夙川に部屋を借りようと決めた。

とにかく二人とも学業をきちんと続けて、卒業することを約束した。

 

翌日、大学の学生会館のカフェで待ち合わせた美和と柴崎は、美彌の口から入籍したと聞くと、

「にゅうせき、なに、籍を入れたの?」美和は目を見開いて美彌と常二の二人を交互に見る。

「ほんま?だましたら、あかんで。結婚したんか?」柴崎は信じられないという顔をして常二を見た。

「妻の氏を選んだから、僕は阪上常二になった」

「阪上君って呼ぶのか?別人やん」

「今まで通り賀集でいいよ」と常二が答えた。

「これであなたも阪上ファミリーの一員ね」と美彌と同じようなことを言った。

「しでかしたら大阪湾に沈むわよ」

「本当にそれ、脅しやから、やめて」

「今から水泳の練習やっといたら?」と柴崎がフォローにならないことを言う。

「とにかく、美彌、常二さん、おめでとう。お祝いをしなくちゃ」美和が笑顔で言う。

「しばらくは、あなたたち以外には知らせないつもりなの、お願いね」

「秋に美和の結婚式もあるし、めでたいこと続きやな」柴崎が言うので、

「お前のとこはないのか?」常二が聞いた。

「俺のところは、就活のことでけんか中や。俺が東京の会社を受ける言うたら、あいつ、遠距離は無理やから別れるって」柴崎は特徴のあるあごを突き出して言う。

「あの子は絶対、お前と別れないと思うわ、僕は」

「どうして?」と美彌が聞いてきたが、とても口に出せないことなので、答えなかった。

柴崎には常二の言おうとしたことが伝わって、「あいつ、情熱的やから」と言ってにやけ顔をした。

近いうちに四人でお祝いの食事でもしようと言って、美和と柴崎と別れた。

 

土曜日のライブハウスの仕事を終えると、夙川で乗りかえて苦楽園に行き、タクシーで美彌の家に行く。

着くのは十二時前になるが、いつも美彌が食事の用意をして待っている。

美彌の母と父は先に休んでいることが多かった。

二人で今日一日あったことを話ながら、常二は食事を取る。美彌は横で食べ終わるのを待っている。

食事が終わると、二人で片付けをして、美彌の部屋に上がる。

二階にも浴室があり、シャワーを浴びて、美彌のベッドで寝る。

日曜日は二人で過ごせる唯一の一日だが、深夜まで起きている二人は、朝、遅い時間までベッドの中で過ごすことが多かった。

常二はカーテンから漏れる朝の光の中で、白く浮かび上がる美彌の顔や身体を見る。

いつまでも起こさずにずっと見ていたくなる、見飽きない美しさだった。

 

父の手紙

 

後期の授業が始まったある日、常二の下宿に分厚い封書が届いていた。

差出人は田舎の母の親戚の名前だった。

母のことで何かあるのかといぶかりながら読んでみると、常二の父と思われる人物から連絡があったという内容であった。

同封されていたその男からの手紙には、母との関係や別れた事情など、当人でないとわからない事情が書かれていた。

内容から判断して、母と交際のあった人物であることは間違いなかった。

何らかの伝手で母の死を知って、連絡してきたのだろうと親戚の手紙にはあった。。

 

男の言うには、母との間に子供ができていたのは知っているが、生まれる前に別れたため、一度も会ったことがない。

自分は別の家庭を持ち、子供もみんな独り立ちをしている。かつて交際した人が亡くなり、その人との間に自分の子供が残されていると思うと、ぜひ一度会ってわびたいというものだった。

 

常二は手紙を読んで、なんともいえない不愉快な気分になった。

母を捨てた男が、いい歳になって、過去の自分の過ちをわびたいという。

それをするには遅すぎるし、常二に謝られてもどうしようもない話だ。

わびるなら母に、母が生きているうちにわびてほしかった、と常二は思う。

 

母にはどれだけの苦労があったことか。母は再婚もせずに、一人息子の常二を育て上げ、大学まで入れて、病気になり、急死した。その人生が果たして幸せなものだったのか、今の自分にはわからない。

手紙には男の名前と東京の住所が記されていた。

 

時間が二十年ほど前に巻き戻されたような奇妙な気持ちになった。

顔もわからないその男と若くて美しい母と。二人は出会って、愛し合って、そして別れた。

その事実があり、常二が生まれたという事実があり、今、それを知らされて困惑する常二がいる。

常二は自分のためよりも、母のために会いに行くべきなのかと悩んだ。

自分にはもともと、父親という存在がなかった。今さら父だと言って目の前に現れても、単なる一人の男であり、血のつながりがあろうがなかろうが、それは関係なく、父とは思えないだろう。

一方、死んだ母のためには、この男と会って、母の話をすることが母の供養になるのだろうか、という思いが少しあった。

この男に会うのか、連絡だけ取るのか、無視を決め込むのか、決断できなかった。

 

手紙を読んだ数日後、美彌は学生会館のカフェで、

「あなた、何か考え事してるでしょ?」

「何か隠してるでしょ、この二三日」と言って、常二の目を見つめた。

美彌の指摘に常二は内心驚いた。

「隠さずに話して」美彌は詰めてくる。

 

「父がわかったんだ」常二が言うと、美彌は大きな二重の目を見開いて、

「ええっ」と短く声を上げた。

「あなたのお父さん?」

「そう」

「手紙が来て、会いたいと言ってきた」

「で、どうするの?」

「わからない」

「今、ずっと考えている」

そう答えると、美彌は、遠慮がちに

「会いたいの?」と尋ねた。

「わからない。ただ母のために会った方がいいのかなと迷っている」

「ここでは何だから、今夜美彌の家で話そう」常二はそう言って、話を切り上げた。

 

夜、美彌の家で、男からの手紙を美彌に読ませた。

美彌は一通り読み終えて、手紙を返した。

「あなたも会いたいでしょう?」

「いや、今さら会いたくもない」

「小さいころは父親がいないことを理解できずに、母を困らせたこともあったけど」

「会わなくていいの?」

「母のことが気にはなるが、それを聞き出しても、もう過去のことだから」

「やっぱり、このまま会わないでおこう」

「いいの?」

「いいよ」と答えて、常二はもうこの話はやめようと告げた。

 

その夜、美彌の家に泊まった常二は、夜中に息苦しくなって、眠りが浅くなった。

そして、黒い影が見えたと思った瞬間、目を覚ました。いやな夢を見たようだ。

妙に胸騒ぎがして、横を見ると美彌が壁の方を向いて寝ている。

さっきの黒い影は人ではないのか、と思うと心配になり、美彌を起こさないようにそっとベッドから出ると、灯りをつけてベッドの周りに誰もいないことを確かめた。

隣の部屋に行き、灯りを灯して、あたりを見渡した。ドアには内から鍵がかかっているのを確認した。すべての窓も施錠されているのを確かめてからベッドに戻ると、美彌が苦しそうに息をしていた。

「大丈夫?美彌」と声をかけると、美彌は激しい息づかいで過呼吸を起こしていた。

顔を見ると苦しそうに目を閉じて、呼びかけても反応できないでいる。

以前に、発作を起こして以来、すっかりよくなっていて発作を起こすこともなかったので、この発作に常二はあわててしまった。

「救急車を呼ぼうか?」常二の問いかけにも反応しない美彌の苦しそうな表情を見て、常二は時計を見ながら電話をした。時計は1時半を指していた。

15分ぐらいで到着すると聞かされた常二は、すぐに着替えて、救急車のサイレンが近づくのを待った。

 

救急車が到着したときには、騒がしい音で美彌の母も起きてきて、心配そうに運ばれる美彌に声をかける。

「ぼくがついて行きます」と美彌の母に言って救急車に乗り込んだ。

 

西宮の救急病院では、以前からの発作が起こったのだろう、特別に検査や入院をする必要はない、念のため、かかりつけの病院で明日、見てもらうとよい、と言われた。。

常二はホッとして、診察室のベッドでようやく呼吸も元に戻った美彌の顔を見た。

「ごめんね、心配かけて」

美彌は常二の顔を見ると、涙を流した。

「心配しなくてもいいよ。大丈夫、家に帰ろう」

美彌はふっと気を抜いた表情を見せた。

タクシーを呼んで、美彌を家に連れて帰った。

 

美彌の発作の再発は、常二の父のことが原因であるのは明らかだ。常二が父に会いに東京に行ってしまうと、二度と帰ってこないのではないか、美彌はそんな心配をしたのではないか。

もうすっかり直ってしまったと思っていたが、美彌の発作は大きな心労があると、起こるようだ。

常二はそう考えると、今回の発作は自分がなんとかしたいと考えた。

 

翌日は、二人とも大学の講義を休み、美彌の家で過ごした。

昼前までベッドで寝ていた美彌は起きてきたが、顔色がすぐれず、口数も少なかった。

常二は美彌を連れて庭に出て、白の玉砂利を敷き詰めた平らなところに連れて行った。

常二は父からの手紙を取り出すと、美彌の見ている前でそれを細かく破り、砂利の上に集めて、取り出したライターで火をつけた。

「あっ」美彌が短く声をあげた。

手紙の紙くずから青白い煙が立ち上り、空に消えていった。

 

「これでおしまい」

「もう父には会いに行かない。父なんて初めからいない。僕には美彌がいる」

茫然とする美彌を引き寄せ、抱きしめた。

「美彌に心配をかけない、約束するよ」

「うふっ」と美彌は声を上げた。

 

美彌の母は、美彌が発作を再発したことを心配して、常二にしばらくは美彌の傍にいてやってほしい、大学やアルバイトはここから行ってほしいと言った。

美彌もその方がうれしいというので、常二はしばらくの間、美彌の家にいることになった。

 

朝になるとあわてて食事と身支度を済ませ、少し離れたバス通りまで二人で走って行く。

バスで苦楽園の駅まで行き、夙川、北口で乗り換え、大学に通う。常二は帰りには、そのままアルバイト先に向かう。元町のライブハウス、家庭教師、そして塾。

最終のバスに間に合えば、バスで、間に合わないときはタクシーで美彌の家に帰る。遅く帰っても、美彌が必ず起きて待っている。

食事を済ませて、おしゃべりをして、一緒に寝る。

その繰り返しだが、美彌もあれから日が経つと落ち着いてきて、顔色もよくなり、元どおり元気になった。

 

北山公園を散歩

 

秋になった。

美彌の家から二人で近所の植物園まで散歩した。

坂道を上り、バス道を横切って公園に入ると、変わった造りの温室がある。

色とりどりの花々がところ狭く置かれている。食虫植物の大きな袋が目につく。

小さなサボテンの鉢が飾られた棚には、ユーモラスな表情の人形が腰掛けていた。

美彌は珍しい種類の花の写真を熱心に撮っている。

「カフェのディスプレイの参考にするの」そう言って、ほほえんだ。

 

和風の建物があり、門までの小道の紅葉は格別に鮮やかだった。

二人は何度も立ち止まって、この赤がいいとか、こちらの黄色も素敵とか言い合った。

秋を満喫させる色彩の風情に酔いしれる。

和風庭園の苔の上に散った紅葉の葉の美しさは、今しか堪能できない美であった。

園内の遊歩道に沿って歩いていくと、中国風の建物があり、それを取り巻く池に散った紅葉の葉は絨毯を広げたようだ。

いろいろな角度から美彌は写真を撮っている。

「秋を切り取っておくのよ」そう言って、カメラを構える。

少し小高い丘の道を上っていくと、奥には静まりかえった池があった。

水面に周囲の木の紅葉が反映して、逆さ絵になっている。

静寂ということばがぴったりの場所で、東屋のベンチで休んで、持ってきたお茶を飲んだ。

「心が落ち着くね」

「毎日の喧騒を忘れそう。街から近いのに、こんなに静かなところがあるなんて贅沢ね」

「小さなしあわせ、でも、これ以上の幸せはないだろうね」

「本当にそう思う?」

「ああ、美彌といるだけで生きてるって感じ」

「泣かせたら大阪湾だしね」

「まだ言うか?阪上家の怨念が僕に取りついている

「バカ言わないの。ゆくゆくは二人で家を継ぐんだから」

「そうなるのかな。でもまだまだ先でしょ」

「あたしが追い出さない限りはね」

「おお怖っ」

「いつまでも大事にしてね」

来た道を戻って、公園の広場に出ると、子供が三四人、走り回って楽しそうに遊んでいる。

美彌はその姿を見ると、「子供かわいいな」と独り言を言った。

二組の親が芝生に腰を下ろして子供たちを見まもっている。

常二は美彌の気持ちを想像した。

「僕たちも子供ができたら、ここに連れてこようね」

「何人ほしい?」

「そうだな、美彌が産めるだけほしい」

「何人産ます気なの?一人でもたいへんよ」

「じゃあ、三人。女の子と男の子、組み合わせは美彌に任せる」

「いいわ、三人産んであげる」そう言って常二の腕をつかんだ。

「ママも喜ぶだろうね」

「ママは、若いおばあちゃんですねって言われるわ」

「それが楽しみなのよ、きっと」と言った。

 

空一面に、うろこ雲が広がっている。

「あの雲のように穏やかに流れていきたいな」

「ずっと一緒にね」

美彌の手を取り、固く握る。

「うふっ」といつもの声を出した。