光文社古典新訳文庫
高遠弘美訳
そして、私の思考も、そんな椅子に似た揺籃のようなものではなかったか?外界で生起することを眺める場合でも、私はその中にどっぷりと身を沈めているー私はそう感じた。外界の事物を見ているとき、自分がそれを見ているという意識が私と事物の間に残って、事物そのものを精神の薄い縁飾りで囲んでしまうので、私は事物を構成する素材に直接触れることができなくなる。私が接触する前に、その素材はいわば気化してしまうのだ。濡れた物体に赤熱した物体を近づけても、濡れた部分には直接触れることができないのと同じことだ。間に蒸気の層ができるからである。本を読んでいる間、同時に、私の意識によって広がってゆくー自分自身の最も深い部分に隠された望みから、庭のはずれの、目が届く範囲内で視界に入ってくる外的な光景にいたるまでのーさまざまな状態が織りなす多彩な一種のスクリーンのなかで、もっとも親しいものとして最初から私のなかにあるもの、ドアのノブがドア全体を支配するように、いつも活動しながら残りのすべてを統率しているものは、どんな本であれ、いま読み進めている本が持つ哲学的な豊かさや美しさに対する確信であり、それらを自分のものにしたいという欲求であった。私がその本をコンブレーの、家からは遠すぎて、フランソワーズとしてはカミュの店のようには利用できなかったが、文房具屋や本屋としては食料品屋以上に流行っていたボランジュ食料品店の店先で、両開きのドアにモザイクのように飾られた仮綴じ本や分冊本(それがドアを大聖堂の扉よりずっと神秘的で多くの思想に満ちたものにしていた)に混じって紐で結ばれているのに気がついて買ったのだとしても、それは、先生か、当時の私には、真理と美の秘密を握っていると思われたある友達から、注目すべき本だと言われていたからであって、まだ半ばしか予感できず、半ばは理解できないままのそうした真理や美を知ることこそが、漠然としてはいるが、変わることのない私の思考の目的だったのである。
集英社文庫
鈴木道彦訳
そのうえ思考もまた一つの避難所のようなものではなかったろうか?私は外で起こっていることを眺める場合でも、自分がその避難所の奥に深くもぐりこんでいるのを感じていた。外部にある対象を眺めるとき、それを見ているという意識が私と対象のあいだに残っていて、その対象を薄い精神的な縁でかがってしまい、そのためにどうしても私には直接その物質にふれることができなかった。いわばそれは、私がその物質に接触する前に蒸発してしまう。ちょうど濡れた物体に赤熱した物体を近づけても、いつもまず蒸発した気体の膜が先行するために、湿気にはふれ得ないようなものだ。ところで本を読んでいるときの意識は、私自身の内部の最も深いところに隠されている渇望から、目の前の庭のはずれで視界を限られたおよそ外的なものの姿にいたるまで、さまざまな状態を同時にくり広げるのであるが、その状態によって彩られる一種のスクリーンのなかでまず私にとって最も親密なもの、常に活動しながら残りのすべてを支配するハンドルのようなものは、読んでいる本の哲学的な豊かさと美しさとに対する信頼であり、またそれがどんな本であれ、その哲学的な豊かさとその本の美しさとわが物にしようとする願いであった。なるほど私はその本を、コンブレーのボランジュ食料雑貨店の店先で見つけて買ったのかもしれない。この店は家から遠すぎるので、フランソワーズもカミュの店のようにそこまで買いに行くわけにはゆかなかったが、しかし文房具屋や本屋としてもなかなか繁盛している店で、その両開きのドアは、仮綴じ本や分冊本のモザイクに飾られて、大聖堂の入り口よりもいっそう神秘的でいっそう多くの思想がちりばめられているように見えた。たとえこうしたモザイクのなかにこの本が紐でゆわえてあるのを見つけて買ったのだとしても、これに気づいたのは先生や友人が素晴らしい作品だと言っていたからで、そのころの私には、この先生や友人こそ真理と美の秘密を保持しているように見え、私の思考は、なかば予感しながらなかば理解不可能に見えるこの真理と美の秘密を知ることを、ぼんやりとではあるが永遠の目的としていたのである。
岩波文庫
吉川一義訳
といっても私の思考こそ、もうひとつの隠れ家と言えるのではないか。私は、その隠れ家の奥にもぐりこんで外のできごとを眺めている気がする。自分の外にある対象を見つめるとき、それを見ているという意識が私と対象のあいだに残り、それが対象に薄い精神の縁飾りをかぶせるため、決して対象の素材にじかに触れることができない。その素材は、いわば触れる前に蒸発してしまうのだ。灼熱した物体を湿った対象に近づけると、その手前に必ず気化ゾーンが生じ、対象の湿り気そのものに触れることができないのと同じである。本を読んでいるあいだ、私の意識がつくる玉虫色のスクリーンには、心の奥底に深く秘めた希求から、庭の向こうの地平線上に見える完全に外的な光景にいたるまで、じつに多様な状態が映し出されていた。まず私のうちに存在したもっとも内密なもの、把手のようにたえず活動して残余のすべてを統御していたささやかなものは、読んでいる本の哲学的豊穣さ、美点にたいする信頼であり、それをわがものとしたいという欲求であり、それはどんな本であろうと変わらなかった。その本は、私がコンブレーのボランジュ食品店の店先で見かけて買い込んだもので、家から遠すぎてカミュの店のようにフランソワーズが買い出しに行けないが文房具と本の品揃えは優れているその店の大聖堂の扉よりはるかに神秘的でさまざまな思索をちりばめた観音開きの両の扉に、モザイク状に並べたパンフレットや雑誌類にまじって紐で結わえつけられていた束のなかにあり、注目すべき本として教師か仲間に推奨されていたのを思い出したのである。推奨してくれた人は、当時の私には真実と美の秘密を掌握している人に思われ、真実と美のなかば予感され、なかば理解不能なところを認識するのが、漠然としているとはいえ永久に変わることのない私の思索の目的と思えたのである。
失われた時を求めて 第1巻スワン家のほうへ
読書について語る場面です。
内容を箇条書きすると、
自分の思考についてとその比喩
読書中の意識
本を買った店と理由
ワープロソフト一太郎の読みやすさを使って調べてみました。
高遠訳 鈴木訳 吉川訳
総文字数 830文字 893文字 770文字
文数 7文 8文 9文
段落数 1段落 1段落 1段落
平均文長 119文字 112文字 86文字
平均句読点間隔 21文字 25文字 22文字
文字使用数 漢字 30% 26% 30%
カタカナ 5% 5% 5%
吉川訳の総文字数の少なさが目立ちます。多い鈴木訳に対して86%です。
また、平均文長も短く、長い高遠訳に対して72%です。
省エネ?な読書には、吉川訳がおすすめかもしれません。
では、実際に読んでみたときのわかりやすさを考えてみます。
*あくまで個人の感想です。
高遠訳は、後ろの2文が異様に長く、わかりにくかったです。今回、取り上げた部分の三分の二くらいを2文が占めています。
また、ハイフンや括弧付きの挿入句があって、文の流れが切れるので読みづらく感じました。英語の直訳文を連想しました。
鈴木訳は、指示語が多く丁寧な印象があります。
吉川訳は、文数が多く、平均文長が短いので、簡潔で読みやすく感じました。
「失われた時を求めて」を早く読了するためには吉川訳、原文のニュアンス(?)を味わいながら読むには高遠訳、丁寧な言葉遣いには鈴木訳と言ったところでしょうか。
さて、私は、鈴木訳は全巻購入済み、高遠訳も電子書籍で6巻「ゲルマントのほうⅡ」まで購入済みでした。
吉川訳は2巻までしか買っていません。
生きている間に「失われた時を求めて」を読了するという目標のためには、岩波文庫の吉川訳を買い足そうか、悩ましい結論となりました。