bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

STRAYSHEEPの謎を考える 美禰子が口にした「ストレイシープ」とは「三四郎」夏目漱石

いよいよストレイシープの登場です。「迷える子」を美禰子はどんな意味で言ったのでしょうか。

「三四郎」最大の謎を考えてみました。

 

本文は青空文庫から引用しました。

 

美禰子に誘われて三四郎は、広田先生、野々宮兄妹と五人で菊人形を見に出かけます。

途中で急に体調不良になった美禰子。気づいた三四郎は他の三人を置いて会場から出ます。

三四郎は群集《ぐんしゅう》を押し分けながら、三人を棄てて、美禰子のあとを追って行った。

 ようやくのことで、美禰子のそばまで来て、

「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹《あおだけ》の手欄《てすり》に手を突いて、心持ち首をもどして、三四郎を見た。なんとも言わない。手欄のなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧《おの》をさした男が、瓢箪《ひょうたん》を持って、滝壺のそばにかがんでいる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるかほとんど気がつかなかった。

「どうかしましたか」と思わず言った。美禰子はまだなんとも答えない。黒い目をさもものうそうに三四郎の額の上にすえた。その時三四郎は美禰子の二重瞼《ふたえまぶた》に不可思議なある意味を認めた。その意味のうちには、霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、この眸《ひとみ》とこの瞼《まぶた》の間にすべてを遺却《いきゃく》した。すると、美禰子は言った。

「もう出ましょう」

 眸と瞼の距離が次第に近づくようにみえた。近づくに従って三四郎の心には女のために出なければすまない気がきざしてきた。それが頂点に達したころ、女は首を投げるように向こうをむいた。手を青竹の手欄《てすり》から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐあとからついて出た。

 二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦《うず》を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。

「どうかしましたか」

 

 

美禰子の様子は、単に人混みの中で気分が悪くなったのとは違うものです。

「霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。」

 

精神的な疲れ、肉体的な疲れ、それらが苦痛となって訴えているのです。

美禰子は、菊人形の会場に来る前に、野々宮さんと軽く口論をしています。考えのすれ違いがあったのです。

 

会場までの道中で、物乞いをする乞食、七歳ぐらいの女の子の迷子に出会います。

それぞれに広田先生と野々宮さんが批評をします。その時の広田先生の言葉が「責任をのがれる」です。あとで美禰子がこの言葉を引用しています。

 

 三四郎はこの静かな秋のなかへ出たら、急にしゃべり出した。

「どうです、ぐあいは。頭痛でもしますか。あんまり人がおおぜい、いたせいでしょう。あの人形を見ている連中のうちにはずいぶん下等なのがいたようだから――なにか失礼でもしましたか」

女は黙っている。やがて川の流れから目を上げて、三四郎を見た。二重瞼にはっきりと張りがあった。三四郎はその目つきでなかば安心した。

「ありがとう。だいぶよくなりました」と言う。

「休みましょうか」

「ええ」

「もう少し歩けますか」

「ええ」

「歩ければ、もう少しお歩きなさい。ここはきたない。あすこまで行くと、ちょうど休むにいい場所があるから」

「ええ」

 一丁ばかり来た。また橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大またに歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の目には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽くみえた。この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。

 向こうに藁《わら》屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子《とうがらし》を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。

「美しいこと」と言いながら、草の上に腰をおろした。草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は派手《はで》な着物のよごれるのをまるで苦にしていない。

「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促すように言ってみた。

「ありがとう。これでたくさん」

「やっぱり心持ちが悪いですか」

「あんまり疲れたから」

 三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。

 

やや回復した様子の美禰子を見て安心する三四郎。さらに歩けないかと促します。

足元が悪い中、「わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。」

と三四郎は思うのです。

 

ここは、手を貸して介添えするところでしょう。遠慮しているときではありません。まして「わざと女らしく甘えた歩き方をしない」なんて批評する場面でもありません。

相手(美禰子)のことを心配しているなら、そんな遠慮や分析は不要です。

まして、好きな女なら、もっと近づいて介助したくなるでしょうが、三四郎はそれができないのです。

 

腰を下ろす美禰子に対して、さらに歩けないかと促す三四郎。拒む美禰子。仕方なく、きたない草の上に腰を下ろします。

美禰子との間は四尺、およそ1.2メートルの距離があります。

三四郎は、パーソナルディスタンスを取り過ぎじゃないですか?

もっと距離を縮めておく場面です。

 

空を眺める美禰子とのやりとりは、今ひとつかみ合っていません。そこへ、

 ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の陰から出て、いつのまにか川を向こうへ渡ったものとみえる。二人のすわっている方へだんだん近づいて来る。洋服を着て髯《ひげ》をはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに憎悪《ぞうお》の色がある。三四郎はじっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。その後影を見送りながら、三四郎は、

「広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう」とはじめて気がついたように言った。美禰子はむしろ冷やかである。

「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」

「迷子だから捜したでしょう」と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で、

「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」

「だれが? 広田先生がですか」

 美禰子は答えなかった。

「野々宮さんがですか」

 美禰子はやっぱり答えなかった。

「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」

美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。

 

突然、見知らぬ男から憎悪を向けられた二人。若い男女が二人でいることが許せなかったのでしょう。

現代から見れば、「変なおじさん」ですが、これが当時の男女の交際に対する世間の認識なのです。一種の自粛警察です。

 

三四郎は、男が去ったあと、広田先生や野々宮さんのことを口にします。美禰子と二人きりになったことをまずいことだと認識したのでしょうか。

これに対して美禰子は痛烈なひと言を返します。

「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」

これは、乞食や迷子に対して見向きもしない人々を広田先生が評した言葉でした。

 

つまり、現実に関わろうとしない人、傍観者の意味です。

 

美禰子から見ると、広田先生も野々宮さんもそのような存在に見えているということです。

 

三四郎は驚きます。

「その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。」

 

美禰子の不調よりも、広田先生や野々宮さんへの体面を気にする三四郎。

美禰子に内心を見通されたと思い込んで勝手に屈辱を感じています。

 

下心を見ぬかれたならまだしも、体面を気にすることを見抜かれたと思い、屈辱まで感じる三四郎。

美禰子への恋心よりも、世間(広田、野々宮)へのメンツを重視するような男では、美禰子の心は動かないでしょう。

しかも見透かされたといって屈辱まで感じるプライドはいったい何なんでしょうか。

 

東大生だから?

広田先生や野々宮さんのように学問研究の世界に生きようとしている人間だから?

 これが漱石の言う「自己本位」なのでしょうか。

たしかに、それも大事ですが、今、現実には美禰子が目の前で苦しんでいる、それが一番大事にすることではないでしょうか。

 

それではダメだろう、三四郎!と叱りたくなる場面です。

 

 

「迷子」

 女は三四郎を見たままでこの一言《ひとこと》を繰り返した。三四郎は答えなかった。

「迷子の英訳を知っていらしって」

 三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。

「教えてあげましょうか」

「ええ」

「|迷える子《ストレイ・シープ》――わかって?」

三四郎はこういう場合になると挨拶《あいさつ》に困る男である。咄嗟《とっさ》の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間《はんま》であると自覚している

 |迷える子《ストレイ・シープ》という言葉はわかったようでもある。またわからないようでもある。わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。すると女は急にまじめになった。

「私そんなに生意気に見えますか」

その調子には弁解の心持ちがある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。

三四郎は美禰子の態度をもとのような、――二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片づかない空のような、――意味のあるものにしたかった。けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいで戻《もど》せるものではないと思った。女は卒然として、

「じゃ、もう帰りましょう」と言った。厭味《いやみ》のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調《くちょう》であった。

 

「ストレイシープーわかって?」と美禰子に問われた三四郎は、黙り込みます。そして「半間」であることを自覚しています。

半間とは、まぬけなこと。気のきかないこと。

反応できない三四郎の態度は、discommunicationディスコミュニケーション(相互不達)の極致ですね。

いいかっこしなくていいので、何かひと言、美禰子に返していたら、違っていただろうに。

 

三四郎は、

「わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。」

三四郎は、考え込んで黙り込んでしまいます。

その結果、美禰子は、

「私そんなに生意気に見えますか」

と口にします。

 

ここまで言わせるとは、

美禰子が哀れでなりません。

 

ところが三四郎は、これに対して、

「今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。」

 

美禰子の本心がわかりかけたのに、そのことが「恨めしい」と思うのは、なぜでしょう?

現実よりも理想の方が大事だと考えているからです。

美禰子の態度をもとのような意味のあるものにしたかったと願う三四郎。

三四郎に気に入られたい美禰子の気持ちを理解することができないのです。

三四郎のこの態度が美禰子を傷つけたのは間違いありません。

 

帰りましょうと言う美禰子。

「ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調であった」

 

野々宮さんとの交際はあるが、考えが合わない。しっくりしない。

そこに現れた三四郎に美禰子は、自分を理解してくれる者ではと期待しています。

ところが、三四郎の態度もどこか煮えきらず、つかめない。

美禰子の失望を思うと、気の毒になります。

 

三四郎は、美禰子に対して、せめて共感なり、理解なりができなかったのでしょうか。

 

 空はまた変ってきた。風が遠くから吹いてくる。広い畑の上には日が限って、見ていると、寒いほど寂しい。草からあがる地息《じいき》でからだは冷えていた。気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。美禰子も――美禰子はこんな所へすわる女かもしれない。

「少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか」

「ええ、すっかり直りました」と明らかに答えたが、にわかに立ち上がった。立ち上がる時、小さな声で、ひとりごとのように、

「|迷える子《ストレイ・シープ》」と長く引っ張って言った。三四郎はむろん答えなかった。

 美禰子は、さっき洋服を着た男の出て来た方角をさして、道があるなら、あの唐辛子のそばを通って行きたいという。二人は、その見当へ歩いて行った。藁葺《わらぶき》のうしろにはたして細い三尺ほどの道があった。その道を半分ほど来た所で三四郎は聞いた。

「よし子さんは、あなたの所へ来ることにきまったんですか」

 女は片頬《かたほお》で笑った。そうして問い返した。

「なぜお聞きになるの」

 三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘《ぬかるみ》があった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。

「おつかまりなさい」

「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄《げた》をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。

「|迷える子《ストレイ・シープ》」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸《いき》を感ずることができた。

 

せっかくのチャンスを棒に振った三四郎。さらに、よし子のことを尋ねて美禰子に不審を抱かれます。いや、不興を買ったというほうが適切です。

 

最後に美禰子が口にした「ストレイシープ」。

美禰子に対する態度を決めかねている三四郎に向かって、「あなたも私と同様、迷える子なのよ」と言いたかったのでしょう。

 

続く(予定)