bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析や国語の勉強方法など。みなさんのお役に立てばうれしいです。

強くなる本 岡本太郎 を読んで 第2弾

創ることは力

 

創ること、味わうこと

つまり創造するということは、

人間の根源的な情熱だ。

と同時に、瞬間瞬間に

ハリを失っていく現代生活に、

明るい生き甲斐をもたらす

原動力でもあるのである。

 

 

 

 

味わうことも創造だ

 

たとえつまらない作品でも、見た人がすばらしいと感じたら、それはすばらしいのだ。

どんなすばらしい作品でも、つまらないと思ったらつまらない。

だからひとつの作品にはすばらしいということと、つまらないということの二つの面が出てくる。

作品自体は少しも変ってはいないのに。

中略

受け取る側によって作品の存在の根底から問題がくつがえされてしまう。

こうなると作品が傑作だとか駄作だとかいっても、そのようにするのは作家自身ではなく、味わう方の側だということがいえる。

そうすると、鑑賞するということ、味わうということは、実は価値を想像することだという理屈が成立つ。

その元になるものは誰かがつくったとしても、味わうことによって創造に参加するのだ。

だから必ずしも自分で筆を握り絵の具をぬったり、楽器をいじったり、あるいは原稿用紙に字を書きなぐったりしなくても、十分に創造の場というものはあるわけだ。

創造するということはなにも、なにかものをつくりあげることばかりではない。

 

 

 

こどものように絵を描く

 

前半略

ところが「絵」を描くということになると、石膏デッサンだ、花の写生だとわき目もふらない。

それにしち面倒くさい描法の約束ごとがあって、なかなかうまくはいかない。

ギクシャクしているうちに描きたいというみずみずしい衝動のほうが消えてしまってイライラするだけ。

けっきょく、面白くなくなってやめてしまう人が多い。

これは絵の技術についての考え方が、根本的にまちがっているのだ。

端的にいえば、「芸術はうまくあってはいけない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」ということだ。

私はそれが根本的な三原則だと思うのだ。

芸術が職人的なうまさをもっていなければ芸術ではない、という考え方に支配されているからこそ、描いたものが不手際なら、決していい気持ちがしないし、そのために創る意欲さえ失ってしまう。

こどもの絵は決してうまくもなく、きれいでもないにもかかわらず、なにかほほえましく、こちらの気持ちを打ってくる。

それはこどもが、うまく描いてやろうとか、きれいに描いてみよう、心地いいものをつくろうなどという意識をもたず、おていさいなんて考えないからだ。

こどもの素っ裸な心、魂がそのままでいるから楽しいのだ。

なにもこどもに限ることはない。

それはやはり非常に人間的な要素を含んでいる。

われわれにもそれと同じ心の状態がある。

心の中にはどんなに歳をとり苦労してからでも、こどもがいるのだ。

こだわらない気持ちで描けば、必ずなにか溢れるような豊かな直裁な生命感がうち出されるに違いない。

それは当然観るものを同質的に楽しませてくれる。

うまくなくても、きれいでなくても、そういうものが生活の中に入ってくれば、

それは豊かなふくらみとなり、生きがいを感じさせずにはおかない。

 

 

 

 

感想

 

私にはものを創作するということに憧れがあります。

文章だったり、音楽だったり、絵画だったり。

でも、自分は下手だから人に見せるのは恥ずかしい、少し習って上手くなってからにしようなど考えてしまって、結局、なにもやっていません。

 

これは私だけでなく、同じ思いをしている人も多いのではないでしょうか。

芸術、創作、クリエイティブなことなどは才能のある人、プロフェッショナルな人がやることであり、素人の自分には無理なこと、無縁なこと思い込んでしまっています。

 

ところが岡本太郎の考えは全く正反対です。

 

「芸術はうまくあってはいけない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」

と言うのです。

しかも、単なる素人への慰めではなく、

 

「こだわらない気持ちで描けば、必ずなにか溢れるような豊かな直裁な生命感がうち出されるに違いない」

と、積極的にその効能を示してくれています。

 

「うまくなくても、きれいでなくても、そういうものが生活の中に入ってくれば、

それは豊かなふくらみとなり、生きがいを感じさせずにはおかない」

どうです、みなさんも、もう何か描きたくなりませんか?

岡本太郎の言葉の持つエネルギーに触れると、心の中に何かやってみようという活力が溢れてきます。