河合塾のサイトに過去問があります。問題文、解答、分析つき
http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/08/k01.html
本文は、ここでも読めます。
www.yamanote-j.org/uptown_archive/shisou.pdf
「身体感覚」について、演劇のワークショップでの「靴下の着脱」というトレーニングを題材にした文章。
「知識」を問われることが中心の大学入試で、「身体感覚」を問題にするのがおもしろい。受験対策で難解な評論ばかり読んでいると、このような文章が新鮮に思える受験生もいるのではないか。
内容は簡単そうに見えるが、深くて示唆に富む文章である。
2008年 京都大学 文系国語 評論
《演劇的知》について/安田雅弘
教養というものが持つ魅力の一つに、私たちを自由にしてくれる働きがあると思う。もつれている思考を整理してくれる快感もあるだろう。《演劇的知》という、耳慣れない教養にもそれがある。《演劇的知》とは広く演劇にまつわる教養ととらえてもらってかまわない。端的にいえばそれは「私たちを無意識に縛っているものに気づいていく教養」である。きわめて実践的であるところに特徴がある。
私は舞台の演出家として、俳優の身体や古今のテキストを通して、人問のたたずまいや現代社会の様相をとらえる試みを日々の仕事としている。また年間の相当な日数を、学生や一般の市民に向けた演劇のワークショップにあてている。演劇におけるワークショップとは、この場合、体験型の講義のことである。私は、そうしたフィールドワークを通じて現代日本人の身体や社会を見つめている、といえるかもしれない。
私たちを縛っているもの。それはまず、自分の身体である。私たちは好むと好まざるとにかかわらず、自分の性別や容姿、さまざまな欲望も含めた生理状態と一生付き合わなければならない。身体はまた、生まれた地域や時代、家庭環境を誕生の段階で選ぶことができない。言語や習慣も身体を縛っている大きな要素である。
私たちは自分の身体をどれくらい知っているのだろうか。《演劇的知》の初歩的な問いかけは以下のようなものだ。「ごはんを食べるとき、一体何回噛むのか」、「横断歩道を渡るとき、どちらの脚から歩き始めるのか」、「面白いと思ったとき、どのような反応をするのか」、「そもそもどういうものを面白いと思うのか」......。すなわち身近なしぐさ・行動や思考を把握することである。
ためしに「靴下の着脱」を題材にした、次のようなトレーニングを紹介したい。まず靴下を履いたり脱いだりする。いつも通りの一連の動作である。次に靴下なしでそのしぐさをおこなう。あらためて膝と胴体の位置、指や腕の動きが認識されるのではないかと思う。その上で、昨晩靴下を脱いだ状況、今朝靴下を履いた状況を、靴下なしで再現してみる。わからなくなったら実際に靴下を使って確認する。十分な自己観察ののち、数人の人が見ている前でそれを再現してもらう。私の経験では、ほとんどの人が忠実に再現できない。
着脱のしぐさそのものが違うこともあるが、多くの場合忠実でないのは、視線である。大抵の人は、靴下を凝視してしまう。日ごろ着脱の際、自分がどこに目をやっているのか意識している人は少ない。実際はそれほど熱心に靴下を見ているわけではないのである。他の人に見られることで、視線の置き場所が普段と違ってくる。人前で再現できないものは、観察が不足していると考えられる。
意味合いを広げるために、もう少し踏み込んでみよう。靴下の着脱といった目常的なしぐさは、ほぼ無意識に繰り返されている。またそうでなければ私たちの生活は煩瑣でしようがない。であるからこそ、視線に無頓着なのだ。しかし、あらためて注目してみると、私たちはそこに、身体に埋め込まれた歴史とでもいえるものを発見する。初めて自力で靴下を履いた日のことをおぼえているだろうか。それまでは親に履かせてもらっていたのが、ある日自分でできるようになる。周囲の喜びを通じて、大きな感動があったはずだ。が、私たちはそれをすでに忘れている。
私たちの身体は、そうした無数の動作と、感動の記憶の堆積である。《演劇的知》の一つは自分の身体の歴史を掘り返し、埋もれている感覚を再確認し、それらにかかわる心の動きを思い起こすことにある。いわば発掘を通じた、身体との対話である。身体への感動は実在感の基礎であって、そこから尊厳も発生する。その感動を忘却することは、自己の喪失感に、ひいては他者への思いやりや周囲への無配慮につながると考えられる。
ホスピタリティに満ち、物質的に豊かなわが国にあって、自殺やリストカットなど自傷行為の報告は枚挙にいとまがない。他の国と比べて驚くほど多いという話も聞く。近年問題になっているうつ病やひきこもりも無関係ではないだろう。議論の際、往々にして他者とのコミュニケーション障害が問題になるが、私は他者との対話以前に、自己との、つまり身体との対話が多くの現代日本人には決定的に欠けているのではないかと感じている。演劇のトレーニングの中には、それを補填する多くの方法や教養があふれている。
靴下の着脱というしぐさを再現するとき、視線の置き場所が違うという。無意識に行っているしぐさも、「身体に埋め込まれた歴史」があり、「無数の動作と感動の記憶」が堆積されていると述べている。
私たちには自分では気づかないような所作のクセがあるのだろう。姿勢や歩き方も含めて、無意識で行っていることがほとんどだ。それを意識してなぞってみると、埋め込まれた歴史に気づき、自分の身体との対話が可能になる。
そこから他者への尊厳も発生するという視点が斬新だ。身体感覚の忘却が自己の喪失感に、さらに他者への思いやりのなさや無配慮につながるという主張が深い。ここが読み取れない、理解できない読み手がいるかも知れない。
他者とのコミュニケーション以前に自己の身体との対話が現代日本人には欠けているという主張に納得させられた。
前回のブログに身体感覚に関係する書物を取り上げているので、興味のある方はそちらも御覧下さい。
http://bluesoyaji.hatenablog.com/entry/2017/02/21/201624
参考までに、この文章の続きを掲載しておきます。この部分は京都大学の入試には使われていません。
《演劇的知》は、大きく分けて三つあると私は考えている。一、個体としての身体に気づく教養。二、生活している社会に気づく教養。三、歴史の中に生きていることに気づく教養。紙幅の関係から、あとの二つについては簡単に触れるにとどめたい。
私たちの暮らす社会も私たちを縛っている。それが何をどのように縛っているのかに気づく上で《演劇的知》は、たとえばドラマを活用する。ワークショップの現場で話を聞くと、自分は無感動な、変化に乏しい日々を送っていると感じている人は多い。ドラマはテレビや新聞の中にあるもので、自分とは無縁なものだと思っている。つまり、感情の動きにひどく鈍感になってしまっているのである。そうした人に、一定の時間をかけて身近な材料からドラマを作ってもらう。結果として、参加者の多くは周囲にドラマが満ちていることに気がつく。《演劇的知》には、豊かな感情生活を回復する働きがある。
また、三次元空間で一定の時間の中を生きているという世界観も私たちを縛っている。それを相対化する、つまり長い歴史の広い世界のほんの一点でしかない自分の存在を感じる時間が人間には必要だ。そうした時間を持たないと人間は思い上がり、深刻な紛争や過度の環境破壊を繰り返す。実はこの三つ目の教養は、悲劇の観劇体験にほかならない。一般に人間社会や人生を俯瞰の視点から描いたものを悲劇、同じ視線でながめたものを喜劇と考える。悲劇、つまり「巨大な哀しみ」には人間存在を肯定する作用がある。
この教養は、歴史の中に自分を発見するためのものである。今の自分が生きていることは、単に生物として生きているだけでなく、さまざまな人や歴史の上に自分が立たされていることだと思い知ることでもある。果たしてそのようなものとして演劇は機能しているのだろうか。解決のつかない国際紛争や、とどまることのない環境破壊の現状を見るにつけ、人類はまだ《演劇的知》が十分に機能した時代を持っていないのだと思う。
「思想」2007年5月/岩波書店
ちなみに、京都大学の入試問題の二問めの小説は、中島敦の「文字禍」です。一問目だけでも読み応えがあるのに、さらに中島敦とは、さすがです。