bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

京都大学の国語問題を解いて考えた 2021年 文系 西谷啓治「忘れ得ぬ言葉」

京都大学2021文系国語
第一問 西谷啓治「忘れ得ぬ言葉」

f:id:bluesoyaji:20210226214936j:image
f:id:bluesoyaji:20210226214918j:image
f:id:bluesoyaji:20210226214923j:image
f:id:bluesoyaji:20210226214929j:image

形式段落の要旨をまとめました。

1京都大学生として下宿していたころ、親しい友人のなかで山崎深造だけは別格でおとなだった


2京都二年目に私はチブスの疑いで入院した。


3山崎は入院に関して万事世話をしてくれた。
退院直後、彼は自分のことばかり話す私におぼっちゃんだなと言った。
その一言が私には忘れ得ぬ言葉となった。
友人への思いがないことに気づくだけでなく、それまでの自分の心の持ち方に気づかされた。


4世間を知っているという自覚があったが、山崎の言葉で彼に実在的に触れたことで、世間に実在的に触れることができた。


5言葉の本源は生身の人間が語るところにある。
書物の言葉は筆者の存在が薄れてくるが、語られた言葉は発した人間と一体となり実在性を持って自分のうちに定着する。

 

6山崎の言葉は思い出す毎に私に近づき、私も彼の奥へ入っていく。
生死や時間を越えて実感を増す。
本当の人間関係は不思議な縁がある。

 

要旨のまとめ
単なる経験、知識だけでは本質的に人間、世間を理解したとはいえない。相手の人間に実感として触れ、その言葉が自分の骨身になるまで定着し、忘れ得ぬ言葉となる。それが本当の人間関係である。

 

解説

出典の西谷啓治は哲学者で、京都大学で教授を務めました。京都学派と呼ばれています(Wikipedia)


随想的な本文の読解は難しくないでしょう。むしろ設問への答え方が難しいと思います。
本文の表現をどれだけ使うか、あるいはすべて言い換えて自分の言葉でまとめるか、悩ましいです。
大学の採点基準がどうなっているのか、うかがい知れませんが、一般的には、記述は自分の言葉で解答を作成するのがよいといわれています。


予備校の模範解答を参照してみました。河合塾は自分の言葉で言い換えてあり、駿台は本文の記述を用いていました。


私が作成した解答を両予備校のものと比べてみると、駿台のものに近かったです。

河合塾のような言い換えはレベルが高く、受験生(高校生)には難しいのではないでしょうか。

もちろん、解答の理想として参考にすべきですが、高校生のみなさんには駿台の解答の方がおすすめです。

 

さて、京都大学がこの文章を読ませるのは、どんな意図があるでしょうか。


1960年、今から60年ほど前に発表された文章ですが、これを現代の私たちが読むとどう感じるでしょう。
現代の私たちは、インターネットやSNSの普及で、知識や友人を得る機会は増えています。
しかし、生身の人間と深く向き合うことは逆に少なくなってきているのではないでしょうか。
子供の時から兄弟も少なく、近所の子たちと触れあう機会も激減しています。
付き合うのもSNSを通して、あるいは、共通の場面だけでは、相手と深い関係を結ぶことはできないでしょう。
あたりさわりのない関係がよしとされるのが現代の特徴かもしれません。


京都大学は、そういった風潮の学生に対し、危機感を抱いていて、この問題文にあるように、忘れ得ぬ言葉を交わすような、人生の転換となるような、濃密で実在的な関係をすすめているのではないでしょうか。
そうすることで、学生が、かつて西谷啓治が経験したような、「人間」や「世間」にふれ、「おとなの段階」に移行することを期待しているのでしょう。
それをお節介ととるか、適切な人生の指針ととるかは受け手次第ですが。

 

あと、仏教の「縁」を二度、言及している点も目につきます。この文章の発想の根幹に仏教の影響が強くあると思われます。

一般的には公立学校の教育では、宗教の扱いは限定的であり、むしろタブーとされています。しかし、知識や教養として宗教を学んでおくことは、こういった文章を理解するためには必要なものかもしれません。