オウムガイは古代から生き延びた生物として知られている。生きている姿はどこかユーモラスで魅力がある。
似たような生物としてアンモナイトが有名だが、こちらは絶滅してまい、現在は化石としてしかみることができない。
私は、アンモナイトの化石を求めて徳島の山中を探索しているが、まだ一度も遭遇したことがない。
京都大学の2016年文系に出題された国語問題である。
河合塾のサイトで見ることができます。
http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/16/k01-31p.pdf
オウムガイについて書かれた評論である。丁寧に文脈をたどっていけば、地学の教養が無くても読み取れる内容である。
ちなみに最近の高校では、理科の選択に、地学を開講していない学校が多い。地学を教えている学校は少数になってしまっている。
私自身は、地学を履修し、面白かったことを覚えている。
地学担当の先生がたいへん熱心で、私のクラスは、夏休みに香川県まで地学巡検に連れて行ってもらったことがあった。
そのときの刷り込みが、中年の今になって鉱物採集や化石採集の趣味となって目覚めている。
現在、高校生たちが地学を学ぶ機会が少なくなっているのは大変残念だし、将来何らかのマイナスが社会に発生すると思う。
さて、本文ではオウムガイの殻に残る成長線の数から、四億二千万年前の月が地球にとても近かったこと、したがって月が巨大に見えたことを述べている。
そこから想像と現実の関係について、「知ることは想像することをはるかに越えて豊かで本質的」と主張している。
夜ごと深海から浮上するオウムガイが、波間に揺られながら現代とは比べものにならないくらい巨大な月の光をたしかに見ていた。
想像ではなく、確固とした事実だと筆者はいう。それが化石という物質的な証拠に示されているのだ。
オウムガイの視力がどの程度だったかを私は知らないが、巨大な月とオウムガイの絵を想像してステキだなと思ってしまう。作者のいう「安っぽい文学的感傷でしかない」のだが。
科学的な内容の読み取りだけでなく、著者の感動の拠り所を読み取らせるという、文理融合した内容が出題者のねらいかも知れない。
講談社文芸文庫で読めます。
青天有月 エセー (講談社文芸文庫)