美禰子に急接近
広田先生の引っ越しを手伝う三四郎と美禰子
二人が急接近する場面です。
三四郎の態度を考察します。
本文は青空文庫 から引用しました。
そのうち
そのうち高等学校で天長節の式の始まるベルが鳴りだした。三四郎はベルを聞きながら九時がきたんだろうと考えた。何もしないでいても悪いから、桜の枯葉でも掃こうかしらんとようやく気がついた時、また箒《ほうき》がないということを考えだした。また椽側へ腰をかけた。かけて二分もしたかと思うと、庭木戸がすうとあいた。そうして思いもよらぬ池の女が庭の中にあらわれた。
二方は生垣《いけがき》で仕切ってある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎はこの狭い囲いの中に立った池の女を見るやいなや、たちまち悟った。――花は必ず剪《き》って、瓶裏《へいり》にながむべきものである。
この時三四郎の腰は椽側を離れた。女は折戸を離れた。
「失礼でございますが……」
女はこの句を冒頭に置いて会釈《えしゃく》した。腰から上を例のとおり前へ浮かしたが、顔はけっして下げない。会釈しながら、三四郎を見つめている。女の咽喉《のど》が正面から見ると長く延びた。同時にその目が三四郎の眸《ひとみ》に映った。
池の女とは、三四郎が野々宮さんを訪ねて行ったときの帰り、池のほとりで出会った女のことです。
そして、野々宮さんの妹よし子の入院先に用事で行った時、再び出会って言葉を交わした女です。
名前はわかっていませんでした。
三四郎は、この女に出会いたくて、池の周りをよくうろついていたのでした。
その女が広田先生の引っ越し先に突然現れたので、三四郎は驚きます。
初めの印象は、「花は必ず剪って、瓶裏にながむべきものである」
綺麗な花は切って花瓶に入れて愛でるのがよいという意味です。
ゆっくりと身近に置いて鑑賞したいということでしょうか。
まるで俳画のようです。三四郎にしては、余裕のある心境ですね。
会釈をして三四郎を見つめる女の目が三四郎の瞳に映ります。『夢十夜』にもこんな描写がありました。
二、三日まえ
二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。艶《えん》なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪《た》えうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。
女の目の描写がややこしい。
美学の先生が用いたヴォラプチュラスという語を女に当てはめて、官能に激しく訴えくるもので苦痛であり、ぜひこびたくなる残酷な目つきと説明しています。
ちょっと漱石の筆が滑りすぎではないのかとツッコミを入れておきます。
目は心の窓と言いますが、これでは女の内面から欲望が溢れ出ていることになります。
獲物を見つけた猛獣といったところでしょうか…
広田さんの
「広田さんのお移転《こし》になるのは、こちらでございましょうか」
「はあ、ここです」
女の声と調子に比べると、三四郎の答はすこぶるぶっきらぼうである。三四郎も気がついている。けれどもほかに言いようがなかった。
「まだお移りにならないんでございますか」女の言葉ははっきりしている。普通のようにあとを濁さない。
「まだ来ません。もう来るでしょう」
女はしばしためらった。手に大きな籃《バスケット》をさげている。女の着物は例によって、わからない。ただいつものように光らないだけが目についた。地がなんだかぶつぶつしている。それに縞《しま》だか模様だかある。その模様がいかにもでたらめである。
三四郎は、探し求めていた女が目前に出現したにもかかわらず、気の利かない反応をしてしまいます。
上から桜の
上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つが籃の蓋《ふた》の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。
「あなたは……」
風が隣へ越した時分、女が三四郎に聞いた。
「掃除に頼まれて来たのです」と言ったが、現に腰をかけてぽかんとしていたところを見られたのだから、三四郎は自分でおかしくなった。すると女も笑いながら、
「じゃ私も少しお待ち申しましょうか」と言った。その言い方が三四郎に許諾を求めるように聞こえたので、三四郎は大いに愉快であった。そこで「ああ」と答えた。三四郎の了見では、「ああ、お待ちなさい」を略したつもりである。女はそれでもまだ立っている。三四郎はしかたがないから、
「あなたは……」と向こうで聞いたようなことをこっちからも聞いた。すると、女は籃を椽の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出して、三四郎にくれた。
名刺には里見美禰子《さとみみねこ》とあった。
「風が女を包んだ。女は秋の中に立っている」
ここも俳句が浮かびそうな描写です。
「『あなたは…』風が隣へ越した時分、女が三四郎に聞いた。」
「風が止んだ時」と言わないところがいいですね。「風が隣へ越す」という表現は初めて見ました。おしゃれな感じです。
恋愛ドラマを観ているみたいです。
「じゃ私も少しお待ち申しましょうか」と言う女の言い方に「大いに愉快」になる三四郎です。ぶっきらぼうに「ああ」と答えます。
三四郎は、言葉が続かないのです。女を前にして、緊張しているのか、女性と話すのが苦手なのかわかりません。とにかく三四郎は不器用です。
あなたにはお目に
「あなたにはお目にかかりましたな」と名刺を袂《たもと》へ入れた三四郎が顔をあげた。
「はあ。いつか病院で……」と言って女もこっちを向いた。
「まだある」
「それから池の端《はた》で……」と女はすぐ言った。よく覚えている。三四郎はそれで言う事がなくなった。女は最後に、
「どうも失礼いたしました」と句切りをつけたので、三四郎は、
「いいえ」と答えた。すこぶる簡潔である。二人《ふたり》は桜の枝を見ていた。梢《こずえ》に虫の食ったような葉がわずかばかり残っている。引っ越しの荷物はなかなかやってこない。
「なにか先生に御用なんですか」
三四郎は突然こう聞いた。高い桜の枯枝を余念なくながめていた女は、急に三四郎の方を振りむく。あらびっくりした、ひどいわ、という顔つきであった。しかし答は尋常である。
「私もお手伝いに頼まれました」
女は病院と池の端で三四郎と出会ったことを覚えています。
三四郎には美禰子と会話を続けるチャンスです。
ところが、「それで言う事がなくなった」。
三四郎のコミュニケーション能力が低すぎます!
読者は、三四郎の態度にイラっとするでしょう。
まるで大人と子供の対話みたいです。
さらに、「何か先生に御用なんですか」と問うあたり、間が抜けています。
これには、さすがに女も、「あらびっくりした、ひどいわ、という顔つきであった」のです。
しかし、不器用でも誠実さがあれば、好感度が上がります。
さて、三四郎はどうでしょうか?
三四郎はこの時
三四郎はこの時はじめて気がついて見ると、女の腰をかけている椽に砂がいっぱいたまっている。
「砂でたいへんだ。着物がよごれます」
「ええ」と左右をながめたぎりである。腰を上げない。しばらく椽を見回した目を、三四郎に移すやいなや、
「掃除はもうなすったんですか」と聞いた。笑っている。三四郎はその笑いのなかに慣れやすいあるものを認めた。
「まだやらんです」
「お手伝いをして、いっしょに始めましょうか」
凝った派手な模様の着物が砂で汚れるのに気づき、注意する三四郎。気にしない女。
掃除はしたのかと尋ねる女の笑顔に、三四郎は「慣れやすいあるもの」を認めます。
女の示す親近感を意識します。
続く(予定)