引っ越しの手伝いで、美禰子と心が通うようになった三四郎。
広田先生の本を片付ける場面では、二人が恋人同士のようにいちゃつく、ほほえましい様子が描かれています。
本文は青空文庫から引用しました。
美禰子と三四郎が戸口で本をそろえると、それを与次郎が受け取って部屋の中の書棚へ並べるという役割ができた。
「そう乱暴に、出しちゃ困る。まだこの続きが一冊あるはずだ」と与次郎が青い平たい本を振り回す。
「だってないんですもの」
「なにないことがあるものか」
「あった、あった」と三四郎が言う。
「どら、拝見」と美禰子が顔を寄せて来る。「ヒストリー・オフ・インテレクチュアル・デベロップメント。あらあったのね」
「あらあったもないもんだ。早くお出しなさい」
三人は約三十分ばかり根気に働いた。しまいにはさすがの与次郎もあまりせっつかなくなった。見ると書棚の方を向いてあぐらをかいて黙っている。美禰子は三四郎の肩をちょっと突っついた。三四郎は笑いながら、
「おいどうした」と聞く。
「うん。先生もまあ、こんなにいりもしない本を集めてどうする気かなあ。まったく人泣かせだ。いまこれを売って株でも買っておくともうかるんだが、しかたがない」と嘆息したまま、やはり壁を向いてあぐらをかいている。
三四郎と美禰子は顔を見合わせて笑った。肝心《かんじん》の主脳が動かないので、二人とも書物をそろえるのを控えている。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝《ひざ》の上に開いた。勝手の方では臨時雇いの車夫と下女がしきりに論判している。たいへん騒々しい。
「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪《あたま》で香水のにおいがする。
絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛《くし》ですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。
「人魚《マーメイド》」
「人魚《マーメイド》」
頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。この時あぐらをかいていた与次郎がなんと思ったか、
「なんだ、何を見ているんだ」と言いながら廊下へ出て来た。三人は首をあつめて画帖を一枚ごとに繰っていった。いろいろな批評が出る。みんないいかげんである。
コミュニケーション能力が低いこれまでの三四郎とは打って変わって、別人のように美禰子と楽しそうにいちゃつく三四郎の姿が印象に残ります。
なんだ、やればできるじゃないか三四郎、と声を掛けたくなる場面です。
顔を三四郎に寄せてくる美禰子。三四郎の肩をつつく美禰子。ボディタッチです。そしてふたりは顔を見合わせて笑います。
ひそひそ声で話しかける美禰子。顔を近づける三四郎。美禰子の髪から香水の香りがたちあがります。これが三四郎の本能を直撃したことは間違いありません。
裸体の女の絵(人魚像)を見て、頭をすりつけた二人は同じ事をささやきます。
「マーメイド」!
漱石先生にしては珍しく、官能的な描写が続きます。これでふたりが互いに好意を抱いていないとは決して言えません。恋人同士のじゃれ合いとしか読み取れないのです。
次には、現代から見るとふさわしくない表現が含まれます。文学鑑賞という次元で考察するため、そのまま引用します。
「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説が全集のうちにあったでしょう」
三四郎はきれいに忘れている。先生にその梗概《こうがい》を聞いてみると、オルノーコという黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、奴隷《どれい》に売られて、非常に難儀をする事が書いてあるのだそうだ。しかもこれは作家の実見譚《じっけんだん》だとして後世に信ぜられているという話である。
「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。
「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いてもよくって」と聞いた。その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。おのずから酔った心地《ここち》である。けれども酔ってすくんだ心地である。どうぞ願いますなどとはむろん言いえなかった。
与次郎と美禰子の軽妙な会話のカモにされた形の三四郎ですが、美禰子の振りに対して、気の利いた反応ができません。
ああ、三四郎が関西出身なら、どんなによかったでしょう。
美禰子のせっかくのツッコミに対して、ボケで返すことができない三四郎。
会話の妙を楽しむ訓練を受けてきていない三四郎が気の毒でなりません。
酔った心地でいる場合じゃないだろう、三四郎。
先に見た恋人同士のような親密さは、所詮、美禰子が演出したものだったのでしょう。
三四郎はこの後、チャンスを活かせるのでしょうか。気になります。
続く(予定)