bluesoyaji’s blog

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美禰子は露悪家か?三四郎を悩ますものは STRAY SHEEPのなぞ 「三四郎」夏目漱石  

 

広田先生宅訪問

美禰子にとらわれている三四郎ですが、三四郎の頭の中では美禰子をどう見ているのかを整理してみましょう。

そうすることで、美禰子との関係の問題点がはっきりとすると思われます。

本文は、青空文庫から引用しました。

 

三四郎は近ごろ女にとらわれた。恋人にとらわれたのなら、かえっておもしろいが、ほれられているんだか、ばかにされているんだか、こわがっていいんだか、さげすんでいいんだか、よすべきだか、続けべきだかわけのわからないとらわれ方である。三四郎はいまいましくなった。そういう時は広田さんにかぎる。三十分ほど先生と相対していると心持ちが悠揚《ゆうよう》になる。女の一人や二人どうなってもかまわないと思う。実をいうと、三四郎が今夜出かけてきたのは七|分方《ぶがた》この意味である。

 訪問理由の第三はだいぶ矛盾《むじゅん》している。自分は美禰子に苦しんでいる。美禰子のそばに野々宮さんを置くとなお苦しんでくる。その野々宮さんにもっとも近いものはこの先生である。だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との関係がおのずから明瞭になってくるだろうと思う。これが明瞭になりさえすれば、自分の態度も判然きめることができる。そのくせ二人の事をいまだかつて先生に聞いたことがない。今夜は一つ聞いてみようかしらと、心を動かした。

 

 

広田先生が三四郎にとってのメンターなので、美禰子に関するもやもやした気持ちを整理するために訪問します。

しかし、直接先生に、美禰子への思いや美禰子と野々宮さんの関係を相談するわけではありません。

広田先生と話していると、「女の一人や二人どうなってもかまわない」と強気になるのです。「野々宮さんと美禰子との関係が自ずから明瞭に」なると思うのです。

ずいぶん都合のよい態度です。自分の恋心は隠して、いわば、恥をかいたり、傷ついたりするのを避けて、安心を得ようとしています。

広田先生も野々宮さんも、三四郎が目指していく世界の住人です。同じような仕事をし、生活をするはずの先輩であり、目標でもある人です。

同じ世界の住人だから、話も通じやすいし、安心していられるわけです。

ただ、親友に悩み事を相談するようにはつきあえない人でもあります。広田先生はいわば師匠であり、野々宮さんは尊敬すべき先輩です。そんな二人に、特に野々宮さんには美禰子のことは話せない。

三四郎なりに学問の世界で生きていくプライドもあるでしょうから、そう簡単に美禰子への恋心を相談できないのです。

三四郎もつらい立場ですね。

 

 

広田先生の話の後

「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」

「そりゃ……」

「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。これに反して与次郎のごときは露悪党の領袖《りょうしゅう》だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、悪気《にくげ》がない。可愛らしいところがある。ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味《いやみ》のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな気障《きざ》だ」

ここまでの理屈は三四郎にもわかっている。けれども三四郎にとって、目下痛切な問題は、だいたいにわたっての理屈ではない。実際に交渉のある、ある格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する素振《そぶり》をもう一ぺん考えてみた。ところが気障か気障でないかほとんど判断ができない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなかろうかと疑いだした。

 

 

三四郎に足りないのは、与次郎のような正直さかも知れません。「万事正直に出られないような我々の時代」は「みんな気障」と言う広田先生。

三四郎は、美禰子の言動が、正直なのか、気障なのかわからないのです。

「自分の感受性が人一倍鈍いのではないか」と三四郎は、疑問を抱きます。

「その通りだ、三四郎」と断罪したいところですが、「美禰子に対しては」という条件付きで、その通りだと言っておきます。

 

露悪家

「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行《はや》らなくなる」

  広田先生の話し方は、ちょうど案内者が古戦場を説明するようなもので、実際を遠くからながめた地位にみずからを置いている。それがすこぶる楽天の趣がある。あたかも教場で講義を聞くと一般の感を起こさせる。しかし三四郎にはこたえた。念頭に美禰子という女があって、この理論をすぐ適用できるからである。三四郎は頭の中にこの標準を置いて、美禰子のすべてを測ってみた。しかし測り切れないところがたいへんある。

 

 

広田先生の露悪家の説明はややこしいですね。

「人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる」とか「偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色」とか、「きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる」というものです。

今ひとつ、私もわかりにくい。

三四郎はこれを聞いて、美禰子を当てはめます。しかし、美禰子を露悪家とは断定できません。「しかし測り切れないところがたいへんある」と考えます。

 

一人の女性をひとつの露悪家というもの差しで判断しようとすることがそもそも間違っています。生身の人間ですから、当然、多様な面がある。

三四郎は批評家になってしまっています。

 

やってきた原口さんの話

美禰子の絵を描いている絵描きの原口さんが登場します。

 

 

三四郎は多大な興味をもって原口の話を聞いていた。ことに美禰子が団扇をかざしている構図は非常な感動を三四郎に与えた。不思議の因縁が二人の間に存在しているのではないかと思うほどであった。すると広田先生が、「そんな図はそうおもしろいこともないじゃないか」と無遠慮な事を言いだした。

「でも当人の希望なんだもの。団扇をかざしているところは、どうでしょうと言うから、すこぶる妙でしょうと言って承知したのさ。なに、悪い図どりではないよ。かきようにもよるが」

「あんまり美しくかくと、結婚の申込みが多くなって困るぜ」

「ハハハじゃ中ぐらいにかいておこう。結婚といえば、あの女も、もう嫁にゆく時期だね。どうだろう、どこかいい口はないだろうか。里見にも頼まれているんだが」

「君もらっちゃどうだ」

「ぼくか。ぼくでよければもらうが、どうもあの女には信用がなくってね」

「なぜ」

「原口さんは洋行する時にはたいへんな気込みで、わざわざ鰹節《かつぶし》を買い込んで、これでパリーの下宿に籠城《ろうじょう》するなんて大いばりだったが、パリーへ着くやいなや、たちまち豹変《ひょうへん》したそうですねって笑うんだから始末がわるい。おおかた兄《あにき》からでも聞いたんだろう」

「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたってだめだ。好きな人があるまで独身で置くがいい」

「まったく西洋流だね。もっともこれからの女はみんなそうなるんだから、それもよかろう」

 

 

広田先生のサロン(?)に出入りするうちの一人、画工の原口さん。三四郎は耳をそばだてて、先生と原口さんの会話を聞いています。

原口さんの言う「美禰子が団扇をかざしている構図」とは、美禰子が初めて三四郎と池の畔で出会ったときに取っていたポーズです。三四郎はめずらしく「不思議の因縁が二人の間に存在しているのではないか」と、ロマンティックに受け止めます。

美禰子の結婚に関する話などは、三四郎がいちばん聞きたかった内容です。

「自分で行きたい所でなくっちゃ行きっこない」との言葉を聞いて、三四郎は少しは安心できたでしょうか。

美禰子は果たして「まったく西洋流」なのでしょうか。