原口さん宅を辞し、美禰子と二人になった三四郎。美禰子に気持ちを伝えますが、その結果はどうなったでしょうか?
本文は青空文庫から引用しました。
夕暮れには、まだ間《ま》があった。けれども美禰子は少し用があるから帰るという。三四郎も留められたが、わざと断って、美禰子といっしょに表へ出た。日本の社会状態で、こういう機会を、随意に造ることは、三四郎にとって困難である。三四郎はなるべくこの機会を長く引き延ばして利用しようと試みた。それで比較的人の通らない、閑静な曙町を一回《ひとまわ》り散歩しようじゃないかと女をいざなってみた。ところが相手は案外にも応じなかった。一直線に生垣《いけがき》の間を横切って、大通りへ出た。三四郎は、並んで歩きながら、
「原口さんもそう言っていたが、本当にどうかしたんですか」と聞いた。
「私?」と美禰子がまた言った。原口さんに答えたと同じことである。三四郎が美禰子を知ってから、美禰子はかつて、長い言葉を使ったことがない。たいていの応対は一句か二句で済ましている。しかもはなはだ簡単なものにすぎない。それでいて、三四郎の耳には一種の深い響を与える。ほとんど他の人からは、聞きうることのできない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がった。
「私?」と言った時、女は顔を半分ほど三四郎の方へ向けた。そうして二重瞼の切れ目から男を見た。その目には暈《かさ》がかかっているように思われた。いつになく感じがなまぬるくきた。頬の色も少し青い。
「色が少し悪いようです」
「そうですか」
二人は五、六歩無言で歩いた。三四郎はどうともして、二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。しかしなんといったら破れるか、まるで分別が出なかった。小説などにある甘い言葉は使いたくない。趣味のうえからいっても、社交上若い男女《なんにょ》の習慣としても、使いたくない。三四郎は事実上不可能の事を望んでいる。望んでいるばかりではない。歩きながら工夫している。
三四郎の誘いを断る美禰子。三四郎を見る美禰子の目には「暈《かさ》がかかっているよう」に精気がありません。美禰子が原口さんの前で見せた異変の原因は、三四郎の登場でした。
さらに三四郎は、「二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくな」ります。
今まで何度もその機会はあったのに、見逃してきた三四郎ですが、今回は違います。
やがて、女のほうから口をききだした。
「きょう何か原口さんに御用がおありだったの」
「いいえ、用事はなかったです」
「じゃ、ただ遊びにいらしったの」
「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」
「じゃ、なんでいらしったの」
三四郎はこの瞬間を捕えた。
「あなたに会いに行ったんです」
三四郎はこれで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、
「お金は、あすこじゃいただけないのよ」と言った。三四郎はがっかりした。
二人はまた無言で五、六間来た。三四郎は突然口を開いた。
「本当は金を返しに行ったのじゃありません」
美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。
「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」
三四郎は堪えられなくなった。急に、
「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。
「お金は……」
「金なんぞ……」
美禰子は、何度もなぜ来たのかと三四郎に問います。三四郎への愛を三四郎に拒まれた美禰子にとっては、今日の三四郎の登場は、予想外だったのでしょう。
とうとうあなたに会いたいから行ったという三四郎の言葉に、美禰子はため息をつくことしかできません。
結婚を決意した美禰子には、三四郎の行動と言葉は酷な出来事でした。
遅すぎるし、美禰子の反応にはお構いなしです。
二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。それなりで、また小半町ほど来た。今度は女から話しかけた。
「原口さんの絵を御覧になって、どうお思いなすって」
答え方がいろいろあるので、三四郎は返事をせずに少しのあいだ歩いた。
「あんまりでき方が早いのでお驚きなさりゃしなくって」
「ええ」と言ったが、じつははじめて気がついた。考えると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像をかく意志をもらしてから、まだ一か月ぐらいにしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼していたのは、それよりのちのことである。三四郎は絵の道に暗いから、あんな大きな額が、どのくらいな速度で仕上げられるものか、ほとんど想像のほかにあったが、美禰子から注意されてみると、あまり早くできすぎているように思われる。
「いつから取りかかったんです」
「本当に取りかかったのは、ついこのあいだですけれども、そのまえから少しずつ描いていただいていたんです」
「そのまえって、いつごろからですか」
「あの服装《なり》でわかるでしょう」
三四郎は突然として、はじめて池の周囲で美禰子に会った暑い昔を思い出した。
「そら、あなた、椎《しい》の木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか」
「あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた」
「あの絵のとおりでしょう」
「ええ。あのとおりです」
二人は顔を見合わした。もう少しで白山《はくさん》の坂の上へ出る。
三四郎と美禰子の出会いの場面が語られます。ここで美禰子と三四郎は振り出しに戻ってしまい、美禰子の姿は原口さんの描く絵として、絵の中に封印されることになります。
美禰子は現実の世界では、もう三四郎の手の届かないところに行ってしまうのです。
向こうから車がかけて来た。黒い帽子をかぶって、金縁の眼鏡《めがね》を掛けて、遠くから見ても色|光沢《つや》のいい男が乗っている。この車が三四郎の目にはいった時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。二、三間先へ来ると、車を急にとめた。前掛けを器用にはねのけて、蹴込《けこ》みから飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い細面《ほそおもて》のりっぱな人であった。髪をきれいにすっている。それでいて、まったく男らしい。
「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」と美禰子のまん前に立った。見おろして笑っている。
「そう、ありがとう」と美禰子も笑って、男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。
「どなた」と男が聞いた。
「大学の小川さん」と美禰子が答えた。
男は軽く帽子を取って、向こうから挨拶《あいさつ》をした。
「はやく行こう。にいさんも待っている」
いいぐあいに三四郎は追分へ曲がるべき横町の角に立っていた。金はとうとう返さずに別れた。
りっぱな男が美禰子を迎えに来ました。そして美禰子の兄が待っていると言います。これは今から里見家で、お見合い、そして結婚話をするためです。
美禰子に金を借りに行ったときは美禰子の愛を拒んだ三四郎。美禰子に金を返しに行ったときは美禰子の愛を失っていた三四郎。
金と愛は等価交換できないという図式を表しているのかも知れません。