夏目漱石「夢十夜」と上田秋成「青頭巾」
夏目漱石「夢十夜」第一夜
第一夜は、男が女との約束を待ち続ける話。百年待てば、会いに来るという女の言葉を信じて男は墓石の前で座り続けます。
青空文庫から引用します。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html
夏目漱石 夢十夜
第一夜
こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐すわっていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云た。自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。
自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑かな縁の鋭どい貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂もした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑かになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。
しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。
すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動た。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思ず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
大変ロマンチックなお話です。
男が百年間、女を待ち続けるというこの設定は、上田秋成の「青頭巾」を連想させます。
「青頭巾」は、「雨月物語」所収の話です。
旅する僧が立ち寄った村で奇妙な話を耳にします。そして僧が訪れた荒れ寺で目にしたのは、愛欲にとりつかれて、死んだ最愛の男の子を食べてしまい、鬼と化した住職の姿です。
住職に「江月照松風吹 永夜清宵何所為」という句を授け、一年後、その寺を訪れると、まだ住職が小さな声で、二句を唱えています。
僧が一喝すると、あとには骨と住職が被っていた青頭巾のみが残っていたという話です。
漱石の夢十夜は、女との再会を待ち続ける男。青頭巾は、愛欲の妄執から脱するため、句を唱え続ける住職。どちらも愛が絡んでいて、執着する姿が共通しています。
男は百年立つ間、住職は悟りを得るまで、ともに座して待つのです。
夏目漱石は、上田秋成の青頭巾を読んで、夢十夜(第一夜)の着想を得たのではないでしょうか。
私は初めてこの第一夜を読んだとき、「これ青頭巾やん」と思いました。
漱石が上田秋成を読んでいたのかどうか知りませんが、もしそうだとすると、この第一夜は、漱石のロマンチックな部分がよくでている話だと思います。
ちなみに、青頭巾は、谷崎潤一郎が「芦刈」という小説の中で、「江月照松風吹 永夜清宵何所為」の句を取り入れています。興味のある方はぜひ一読してください。
青頭巾は、水木しげるのマンガでも読めます。
まぼろし旅行記 (ちくま文庫―妖怪ワンダーランド)
改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)