bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

国公立大学二次試験 2017年 大阪大学 入試問題 文学部 国語 小説 島尾敏雄 「魚雷艇学生」を読んで考えた

 

2017年 大阪大学 入試問題 文学部 国語 小説      島尾敏雄 『魚雷艇学生』

 

http://nyushi.nikkei.co.jp/honshi/17/ha1-31p.pdf

 

分析や解答例は河合塾のサイトでどうぞ。

河合塾(総合教育機関・予備校)/ 2017年度国公立大二次試験・私立大入試解答速報
http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/17/ha1.html

 

著者の島尾敏雄は、鹿児島県加計呂麻島で海軍の特攻兵器 震洋部隊の隊長として従軍した経験を『出発は遂に訪れず』や『出孤島記』に書いています。

問題文は、非日常における異常な心理が描写されています。


受験生のみなさんは、想像力をめぐらし、主人公の心情を理解することが求められます。

平和な現代を生きる受験生も、戦争に対する知識や関心を持っていなければならないというメッセージが込められているのでしょう。

今後も、戦争を扱った文学作品が出題されることはあるでしょう。

おすすめの作品を挙げておきます。


大西巨人「神聖喜劇」
〈第1巻〉 (光文社文庫) 

戦後の日本文学で最高傑作の一つにあげられる問題作です。
読むと主人公と同じように頭脳が明晰になった気がします。
ぜひ一読をおすすめします。


古山高麗雄
「断作戦」―戦争文学三部作〈1〉 (文春文庫) 

古山高麗雄は、大西巨人と同じく軍隊体験を持つ小説家です。

島尾敏雄はこれがおすすめです。

「出発は遂に訪れず 」(新潮文庫 し 11-1) 

「出孤島記 」(新潮文庫 草 164B) 

「魚雷艇学生 」(新潮文庫) 

 

国公立大学二次試験「文系学部廃止」の衝撃 2017年大阪大学 入試問題を読んで考えた

 

2017年 大阪大学 法・外国語・経済・人間科学部(前期)

『「文系学部廃止」の衝撃』吉見俊哉著

 集英社新書

 

ここで見ることができます。

http://nyushi.nikkei.co.jp/honshi/17/ha1-32p.pdf

  

今回はテキストにしてみました。

ただし、設問の傍線部や漢字問題は除きました。

参考にご覧ください。

 

Ⅱ次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。

 大学の知が「役に立つ」のは、必ずしも国家や産業に対してだけとは限りません。神に対して役立つこと、人に対して役立つこと、そして地球社会の未来に対して役に立つことー。大学の知が向けられるべき宛先にはいくつものレベルの違いがあり、その時々の政権や国家権力、近代的市民社会といった臨界を超えています。
 そしてこの多様性は、時間的なスパンの違いも含んでいます。文系の知にとって、三年、五年ですぐに役に立つことは難しいかもしれません。しかし、三〇年、五〇年の中長期的スパンでならば、工学系よりも人文社会系の知のほうが役に立つ可能性が大です。ですから、「人文社会系の知は役に立たないけれども大切」という議論ではなく、「人文社会系は長期的にとても役に立つから価値がある」という議論が必要ななのです。
 そのためには、「役に立つ」とはどういうことかを深く考えなければなりません。概していえば、「役に立つ」ことには二つの次元があります。一つ目は、目的がすでに設定されていて、その目的を実現するために最も優れた方法を見つけていく目的遂行型です。これは、どちらかというと理系的な知で、文系は苦手です。たとえば、東京と大阪を行き来するために、どのような技術を組み合わせれば最も速く行けるのかを考え、開発されたのが新幹線でした。また最近では、情報工学で、より効率的なビッグデータの処理や言語検索のシステムが開発されています。いずれも目的は所与で、その目的の達成に「役に立つ」成果を挙げます。文系の知にこうした目に見える成果の達成は難しいでしょう。
 しかし、「役に立つ」ことには、実はもう一つの次元があります。たとえば本人はどうしていいかわからないでいるのだけれども、友人や教師の言ってくれた一言によってインスピレーションが生まれ、厄介だと思っていた問題が一挙に解決に向かうようなときがあります。この場合、何が目的か最初はわかっていないのですが、その友人や教師の一言が、向かうべき方向、いわば目的や価値の軸を発見させてくれるのです。このようにして、「役に立つ」ための価値や目的自体を創造することを価値創造型と呼んでおきたいと思います。これは、役に立つと社会が考える価値軸そのものを再考したり、新たに創造したりする実践です。
文系が「役に立つ」のは、多くの場合、この後者の意味においてです。

 古典的な議論では、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーによる「目的合理的行為」と「価値合理的行為」という区分があります。そこでは、合理性には「目的合理性」と「価値合理性』の二つがある、と言われました。「目的合理性」とは、ある目的に対して最も合理的な手段連鎖が組み立てられていくことであるのに対し、「価値合理性」は、何らかの目的に対してというよりも、それ自体で価値を持つような活動です。
 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じたことは、ブロテスタンティズムの倫理は価値合理的行為であったのだが、その行為の連鎖が結果的にきわめて目的合理的なシステムである資本主義を生み出し、やがてその価値合理性が失われた後も自己転回を続けたという洞察です。そこで強調されたのは、目的合理性が自己完結したシステムは、いつか価値の内実を失って化石化していくのだが、目的合理的な行為自体がその状態を内側から変えていくことはできない、という暗澹たる予言でした。ウェーバーは、そのように空疎になったシステムを突破するのに、価値合理性やカリスマといったシステムへの別の介入の回路を考えようとしていたわけです。
 このウェーバーの今なお見事な古典的洞察に示されるように、目的遂行型の有用性、「役に立つこと」は、与えられた目的や価値がすでに確立されていて、その達成手段を考えるには有効ですが、そのシステムを内側から変えていくことができません。したがって目的や価値軸そのものが変化したとき、一挙に役に立たなくなります。

 つまり、目的遂行型ないしは手段的有用性としての「役に立つ」は、与えられた目的に対してしか役に立つことができません。もし目的や価値の軸そのものが変わってしまったならば、「役に立つ」と思って出した解も、もはや価値がないということになります。そして実際、こうしたことは、長い時間のなかでは必ず起こることなのです。
 価値の軸は、決して不変ではありません。数十年単位で歴史を見れば、当然、価値の尺度が変化してきたのがわかります。たとえば、一九六○年代と現在では、価値軸がすっかり違います。一九六四年の東京オリンピックが催されたころは、より速く、より高く、より強くといった右肩上がりの価値軸が当たり前でしたから、その軸にあった「役に立つ」ことが求められていました。新幹線も首都高速道路も、そのような価値軸からすれば追い求めるべき「未来」でした。超商層ビルから海岸開発まで、成長期の東京はそうした価値を追い求め続けました。ところが二○○○年代以降、私たちは、もう少し違う価値観を持ち始めています。末長く使えるとか、リサイクルできるとか、ゆっくり、愉快に、時間をかけて役に立つことが見直されています。価値の軸が変わってきたのです。

中略

すべてがそうというわけではありませんが、概して理系の学問は、与えられた目的に対して最も「役に立つ」ものを作る、目的遂行型の知であることが多いと思います。そして、そのような手段的有用性においては、文系よりも理系が優れていることが多いのも事実です。しかし、もう一つの価値創造的に「役に立つ」という点ではどうでしょうか。
 目的遂行型の知は、短期的に答えを出すことを求められます。しかし、価値創造的に「役に立つ」ためには、長期的に変化する多元的な価値の尺度を視野に入れる力が必要なのです。ここにおいて文系の知は、短くても二〇年、三〇年、五〇年、場合によっては一〇〇年、一〇〇〇年という、総体的に長い時間的スパンのなかで対象を見極めようとしてきました。これこそが文系の知の最大の特徴だと言えますが、だからこそ、文系の学問には長い時間のなかで価値創造的に「役に立つ」ものを生み出す可能性があるのです。
 また、多元的な価値の尺度があるなかで、その時その時で最適の価値軸に転換していくためには、それぞれの価値軸に対して距離を保ち、批判していくことが必要です。そうでなければ、一つの価値軸にのめり込み、それが新たなものに変わったときにまったく対応できないということになるでしょう。たとえば過去の日本が経験したように、「鬼畜米英」となれば一斉に「鬼畜米英」に、「高度成長」と言えば皆が『高度成長」に向かって走っていくというようなことでは、絶対に新しい価値は生まれません。それどころか、そうやって皆が追求していた目標が時代に合わなくなった際、新たな価値を発見することもできず、どこに向かって舵を切ったらいいか、再び皆でわからなくなってしまうのです。

 価値の尺度が劇的に変化する現代、前提としていたはずの目的が、一瞬でひっくり返ってしまうことは珍しくありません。そうしたなかで、いかに新たな価値の軸をつくり出していくことができるか。あるいは新しい価値が生まれてきたとき、どう評価していくのか。それを考えるには、目的遂行的な知だけでは駄目です。価値の軸を多元的に捉える視座を持った知でないといけない。そしてこれが、主として文系の知なのだと思います。
 なぜならば、新しい価値の軸を生んでいくためには、現存の価値の軸、つまり皆が自明だと思っているものを疑い、反省し、批判を行い、違う価値の軸の可能性を見つける必要があるからです。経済成長や新成長戦略といった自明化している目的と価値を疑い、そういった自明性から飛び出す視点がなければ、新しい創造性は出てきません。ここには文系的な知が絶対に必要ですから、理系的な知は役に立ち、文系的なそれは役に立たないけれども価値があるという議論は間違っていると、私は思います。主に理系的な知は短く役に立つことが多く、文系的な知はむしろ長く役に立つことが多いのです。
(吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』より。出題の都合により一部改変した箇所がある。)

問一傍線部(a)~(e)を漢字に直しなさい。
問二傍線部(1)「二つの次元」について、それぞれを端的に示す言葉を本文中から抜き出しながら、両者の違いを八〇字以内で説明しなさい。
問三傍線部(2)「一つの価値軸にのめり込み、それが新たなものに変わったときにまったく対応できない」と筆者が述べている理由を、八〇字以内で説明しなさい。
問四傍線部(3)「役に立たないけれども価値がある」という議論と、筆者の立場との相違点について、理系の知に対する文系の知の違いに言及しながら二〇〇字以内で説明しなさい。

 

 要約

大学の知「役に立つ」ー国家、産業だけでなく、いくつものレベルがあり、その時々の政権や国家権力、市民社会を超えている
文系の知ー中長期的スパンでなら工学系より役に立つ
「役に立つ」とは
1目的遂行型ー目的が設定されていて、その実現のため方法を見つけるー理系的な知、文系は苦手
2価値創造型ー価値や目的自体を創造するー文系が「役に立つ」
マックス・ウェーバーの例
目的合理性ーある目的に対しもっとも合理的な手段が組み立てられる
価値合理性ーそれ自体で価値を持つ活動
目的遂行型は目的や価値軸が変化したとき、役に立たなくなる
つまり、目的遂行型「役に立つ」は、与えられた目的に対してしか役に立たない
価値軸は不変でない
理系の学問は目的遂行型の知が多いー短期的
価値創造型ー長期的に変化する多元的価値の尺度を視野に入れる力が必要ー文系の知ー長い時間的スパン
多元的価値の尺度に対し、距離を保ち批判する必要ー新たな価値の発見
価値の尺度が変化する現代ー目的遂行的な知だけでは駄目
価値の軸を多元的に捉える知ー文系の知
自明化している目的、価値を疑い、新しい創造性を出す文系的知が絶対に必要
理系的な知は短く役に立ち、文系的な知はむしろ長く役に立つ

 

 

 

文科省が国立大学の文系学部廃止を打ち出したことへの反論である。
国が求める「役に立つ」の概念が、著者のそれとは大きく異なることは容易にうかがえる。
ちなみに、今年のセンター試験の評論が「科学的コミュニケーション」という題で、科学知に関する内容であった。それについては、以前のブログ記事に考えを書いたので、参考までに読んでみてください。


この大阪大学の入試問題が、センター試験の評論の内容に対する回答になっていると見なすこともできる。

 

研究成果が早く出て、社会にすぐに役立って、儲かるもの。それを求める文科省の文系学部廃止路線に対し、大学入試問題の国語で反論したものである。この文章を選んだ大阪大学の問題作成委員の先生方に敬意を表したい。


国からすれば「蟷螂の斧」に見えたとしても、言い続けることが大切である。次世代を担う受験生のみなさんが、この文章を読み、共感し、後の大学での学びの中に生かしてもらえると、日本の未来に対してたいへん心強い。

 

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書) 

 

国公立大学二次試験 2017年 京都大学 入試問題 国語 理系 「私」をつくる 近代小説の試み を読んで考えた

 

2017年 京都大学 入試問題 国語 理系

「私」をつくる 近代小説の試み


岩波新書(新赤版) 1572
2015年11月20日第1刷発行
著者 安藤宏

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問題文は第3章「あなた」をつくる からの引用で、二葉亭四迷が話し言葉で小説を書くことを迷っていたというエピソードに続く部分である。


夏目漱石、森鴎外、田山花袋の名前が出てきても驚かないだろうが、岩野泡鳴って誰?と思った受験生は多かっただろう。


「パラドックス」という語が設問部分に含まれている。
評論の基礎用語なので、要注意だ。

 

要約

「言文一致体」の「正確さ」について、日常の出来事をありのままに描写するのにふさわしいと考えられた。だがおかしなことでは?
口語はきわめて主観的なもの。当時は、最も客観的で細密と信じられた。写実主義の浸透で、言文一致体の矛盾と面白さがあった。
田山花袋の「平面描写」論は、代表的なものだ。
客観を尊重するため話者の「私」(主観)を隠すことで、叙述に空白が生まれ、読者の想像が入り込むことになった。→パラドックス
一方、岩野泡鳴の「一元描写論」では、一人の人物の視点に立ち、その判断で統一を図れという主張である。

さらにおしつめると「顔」の見える「私」を表に出すことに行き着く。これを実践したのが「白樺派」である。

 

 

なお、分析や模範解答は、河合塾のサイトで出るでしょうから、そちらを参考にして下さい。

http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/17/


著者あとがきから引用する。

日本の近代小説を、内側からの必然にそって、そこに自ずと働く"文法"のようなものを明らかにしてみたい、それによって初めて「名作」が「名作」であるゆえん(普遍性)もまた明らかになるのではないか、と考えてみたのである。

 

 

この本は、大変興味深い内容だが、専門性の高いものだと感じた。
大学で近代文学を専攻している学生向きかなと思っていたが、まさか大学入試、しかも理系にこの文章を出題するとは…
理系の学生にも人文科学の教養を求めているということだろう。

 

じっくり読み直したい方や読んでみたい方は、以下を参考にして下さい。

 

「私」をつくる―近代小説の試み (岩波新書) 

 

ムダな仕事はもう、やめよう! 吉越浩一郎著 かんき出版を読んで考えた

 

ムダな仕事はもう、やめよう! 吉越浩一郎著 かんき出版

 

働き方について、考えることが多くなった。

定年後の人生設計や子どもたちの就職が気になる歳になったからだ。

参考になる部分を引用して、考えてみた。

 

日本人は、働いているうちが自分の本当の人生で、引退後の残りの時間はおまけの「余生」として捉えている人が多い。だから定年を迎えても、自分の人生を充実させるためにお金を使うという発想がない。
 また、日本人はお金を使わないだけでなく、子どもに財産を遺すことをある種の義務だと考える傾向が強い。その結果、死亡時に財産のピークを迎えることになるわけだ。
一方、ヨーロッパの人は、仕事をリタイアしてから自分の本当の人生が始まると考える。いわば老後は「余生」ならぬ「本生(ほんなま)」だ。
 つまり、「本番の人生」を楽しむために働いてきたのだから、本番になればお金を使い惜しみしない。ライフワークとなる趣味があればお金をどんどんつぎ込むし、これまで以上に夫婦で旅行にも行く。

 

著者は外資系の会社で働くことで、ヨーロッパ人の働き方を知り、日本人の仕事と私生活に対する考えと大きく違うことを知る。
日本人は老後を「余生」と考えるのに対し、ヨーロッパの人は老後が本番の人生「本生」と考える。

日本人の平均寿命を八十五歳とすると、六十歳で定年退職したあと、二十年は「余生」があることになる。もう一花咲かせることができる長さだ。

ヨーロッパの人は、趣味にどんどんお金をつぎ込むとあるが、うらやましい限りだ。

私は、定年退職後、北海道にアンモナイトの化石採集に行くという夢がある。ヨーロッパの人を見習いたい。

 

上司と密に連絡をとりながら間違いのない仕事をする人と、上司の指示を仰がず仕事を進めて失敗してしまう人。果たして、仕事人間として大きく成長するのはどちらだろうか。


日本の会社で教えられるのは、前者の仕事の進め方だ。しかし、私の見る限りではホウ・レン・ソウ文化で育ったビジネスパーソンは、なかなか大成しない。もし将来は経営幹部となって活躍したいと考えているなら、目指すべきは後者の仕事の進め方だ。

 

そもそも細かな事まで上司に指示されなければ動けないような働き方に、幸せを見出せるだろうか。仕事は自分の頭で考えるからこそ面白いのであり、そうでなければロボットと同じだ。つまらないと思いながらやる仕事は、集中力も高まりにくい。その点でもホウ・レン・ソウは仕事のスピードを鈍らせる要因だといえるだろう。

 

「ホウ・レン・ソウ」はよく言われ、常識のようになっている。しかし、著者によれば、自分の頭で考えないと仕事はおもしろくないとのことである。

仕事のスピードを鈍らせる要因、つまり、不要なものというのだ。これは斬新な意見だ。参考になった。私も取り入れよう。

 

 

本は形式知の典型だが、それは表面だけをなぞって読んだときの話だ。文章化されたことの裏側には、著者の無数の経験やそこから生み出された暗黙知が隠れている。そこに想像をめぐらしながら注意深く読み進めて行くことは、気づきの力を養ういい訓練になる。
例えば何か本を読んで、理由はわからないが心にひっかかるフレーズはないだろうか。それだけではまだ暗黙知に気づいたとはいえない。ただ、仕事で何か問題を抱えているときにそのフレーズが蘇り、「ああ、こういうことだったのか」と合点が行くことがある。それが暗黙知に気づいた瞬間だ。

 


読書を通して、隠れた暗黙知を読むという考えが非常に示唆的だ。

ビジネス書やハウツーものでは、暗黙知を得られないだろう。やはり、文学や芸術、歴史など幅広い読書を通しての知が求められる。

目先のことに役立つかどうかばかりを求めていてはダメですね。自戒を込めて納得しました。

 

人生はワーク(仕事)だけでないという筆者。ワークもライフも楽しめる人生を送ろうという筆者の提案がとても参考になりました。

 

ムダな仕事はもう、やめよう! 

国公立大学二次試験『青天有月』 松浦寿輝 2016年 京都大学 入学試験 前期 文系国語問題を読む

 

 

オウムガイは古代から生き延びた生物として知られている。生きている姿はどこかユーモラスで魅力がある。

 

似たような生物としてアンモナイトが有名だが、こちらは絶滅してまい、現在は化石としてしかみることができない。


私は、アンモナイトの化石を求めて徳島の山中を探索しているが、まだ一度も遭遇したことがない。

 

京都大学の2016年文系に出題された国語問題である。

 

河合塾のサイトで見ることができます。

http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/16/k01-31p.pdf

 

オウムガイについて書かれた評論である。丁寧に文脈をたどっていけば、地学の教養が無くても読み取れる内容である。


ちなみに最近の高校では、理科の選択に、地学を開講していない学校が多い。地学を教えている学校は少数になってしまっている。


私自身は、地学を履修し、面白かったことを覚えている。

地学担当の先生がたいへん熱心で、私のクラスは、夏休みに香川県まで地学巡検に連れて行ってもらったことがあった。


そのときの刷り込みが、中年の今になって鉱物採集や化石採集の趣味となって目覚めている。

現在、高校生たちが地学を学ぶ機会が少なくなっているのは大変残念だし、将来何らかのマイナスが社会に発生すると思う。

 

さて、本文ではオウムガイの殻に残る成長線の数から、四億二千万年前の月が地球にとても近かったこと、したがって月が巨大に見えたことを述べている。

 

そこから想像と現実の関係について、「知ることは想像することをはるかに越えて豊かで本質的」と主張している。


夜ごと深海から浮上するオウムガイが、波間に揺られながら現代とは比べものにならないくらい巨大な月の光をたしかに見ていた。

想像ではなく、確固とした事実だと筆者はいう。それが化石という物質的な証拠に示されているのだ。


オウムガイの視力がどの程度だったかを私は知らないが、巨大な月とオウムガイの絵を想像してステキだなと思ってしまう。作者のいう「安っぽい文学的感傷でしかない」のだが。

 

 科学的な内容の読み取りだけでなく、著者の感動の拠り所を読み取らせるという、文理融合した内容が出題者のねらいかも知れない。

 

講談社文芸文庫で読めます。

 

青天有月 エセー (講談社文芸文庫) 

 

 

国公立大学二次試験《演劇的知》について/安田雅弘 2008年 京都大学 文系 国語 入試問題を読んで考えたこと

 

河合塾のサイトに過去問があります。問題文、解答、分析つき

http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/08/k01.html 

 

本文は、ここでも読めます。
www.yamanote-j.org/uptown_archive/shisou.pdf

 

「身体感覚」について、演劇のワークショップでの「靴下の着脱」というトレーニングを題材にした文章。

「知識」を問われることが中心の大学入試で、「身体感覚」を問題にするのがおもしろい。受験対策で難解な評論ばかり読んでいると、このような文章が新鮮に思える受験生もいるのではないか。

内容は簡単そうに見えるが、深くて示唆に富む文章である。

 

2008年 京都大学 文系国語 評論

《演劇的知》について/安田雅弘

 教養というものが持つ魅力の一つに、私たちを自由にしてくれる働きがあると思う。もつれている思考を整理してくれる快感もあるだろう。《演劇的知》という、耳慣れない教養にもそれがある。《演劇的知》とは広く演劇にまつわる教養ととらえてもらってかまわない。端的にいえばそれは「私たちを無意識に縛っているものに気づいていく教養」である。きわめて実践的であるところに特徴がある。
 私は舞台の演出家として、俳優の身体や古今のテキストを通して、人問のたたずまいや現代社会の様相をとらえる試みを日々の仕事としている。また年間の相当な日数を、学生や一般の市民に向けた演劇のワークショップにあてている。演劇におけるワークショップとは、この場合、体験型の講義のことである。私は、そうしたフィールドワークを通じて現代日本人の身体や社会を見つめている、といえるかもしれない。
 私たちを縛っているもの。それはまず、自分の身体である。私たちは好むと好まざるとにかかわらず、自分の性別や容姿、さまざまな欲望も含めた生理状態と一生付き合わなければならない。身体はまた、生まれた地域や時代、家庭環境を誕生の段階で選ぶことができない。言語や習慣も身体を縛っている大きな要素である。
 私たちは自分の身体をどれくらい知っているのだろうか。《演劇的知》の初歩的な問いかけは以下のようなものだ。「ごはんを食べるとき、一体何回噛むのか」、「横断歩道を渡るとき、どちらの脚から歩き始めるのか」、「面白いと思ったとき、どのような反応をするのか」、「そもそもどういうものを面白いと思うのか」......。すなわち身近なしぐさ・行動や思考を把握することである。
 ためしに「靴下の着脱」を題材にした、次のようなトレーニングを紹介したい。まず靴下を履いたり脱いだりする。いつも通りの一連の動作である。次に靴下なしでそのしぐさをおこなう。あらためて膝と胴体の位置、指や腕の動きが認識されるのではないかと思う。その上で、昨晩靴下を脱いだ状況、今朝靴下を履いた状況を、靴下なしで再現してみる。わからなくなったら実際に靴下を使って確認する。十分な自己観察ののち、数人の人が見ている前でそれを再現してもらう。私の経験では、ほとんどの人が忠実に再現できない。
 着脱のしぐさそのものが違うこともあるが、多くの場合忠実でないのは、視線である。大抵の人は、靴下を凝視してしまう。日ごろ着脱の際、自分がどこに目をやっているのか意識している人は少ない。実際はそれほど熱心に靴下を見ているわけではないのである。他の人に見られることで、視線の置き場所が普段と違ってくる。人前で再現できないものは、観察が不足していると考えられる。
 意味合いを広げるために、もう少し踏み込んでみよう。靴下の着脱といった目常的なしぐさは、ほぼ無意識に繰り返されている。またそうでなければ私たちの生活は煩瑣でしようがない。であるからこそ、視線に無頓着なのだ。しかし、あらためて注目してみると、私たちはそこに、身体に埋め込まれた歴史とでもいえるものを発見する。初めて自力で靴下を履いた日のことをおぼえているだろうか。それまでは親に履かせてもらっていたのが、ある日自分でできるようになる。周囲の喜びを通じて、大きな感動があったはずだ。が、私たちはそれをすでに忘れている。
 私たちの身体は、そうした無数の動作と、感動の記憶の堆積である。《演劇的知》の一つは自分の身体の歴史を掘り返し、埋もれている感覚を再確認し、それらにかかわる心の動きを思い起こすことにある。いわば発掘を通じた、身体との対話である。身体への感動は実在感の基礎であって、そこから尊厳も発生する。その感動を忘却することは、自己の喪失感に、ひいては他者への思いやりや周囲への無配慮につながると考えられる。
 ホスピタリティに満ち、物質的に豊かなわが国にあって、自殺やリストカットなど自傷行為の報告は枚挙にいとまがない。他の国と比べて驚くほど多いという話も聞く。近年問題になっているうつ病やひきこもりも無関係ではないだろう。議論の際、往々にして他者とのコミュニケーション障害が問題になるが、私は他者との対話以前に、自己との、つまり身体との対話が多くの現代日本人には決定的に欠けているのではないかと感じている。演劇のトレーニングの中には、それを補填する多くの方法や教養があふれている。

 

靴下の着脱というしぐさを再現するとき、視線の置き場所が違うという。無意識に行っているしぐさも、「身体に埋め込まれた歴史」があり、「無数の動作と感動の記憶」が堆積されていると述べている。


私たちには自分では気づかないような所作のクセがあるのだろう。姿勢や歩き方も含めて、無意識で行っていることがほとんどだ。それを意識してなぞってみると、埋め込まれた歴史に気づき、自分の身体との対話が可能になる。

 

そこから他者への尊厳も発生するという視点が斬新だ。身体感覚の忘却が自己の喪失感に、さらに他者への思いやりのなさや無配慮につながるという主張が深い。ここが読み取れない、理解できない読み手がいるかも知れない。


他者とのコミュニケーション以前に自己の身体との対話が現代日本人には欠けているという主張に納得させられた。

 

前回のブログに身体感覚に関係する書物を取り上げているので、興味のある方はそちらも御覧下さい。

http://bluesoyaji.hatenablog.com/entry/2017/02/21/201624


参考までに、この文章の続きを掲載しておきます。この部分は京都大学の入試には使われていません。

 

 《演劇的知》は、大きく分けて三つあると私は考えている。一、個体としての身体に気づく教養。二、生活している社会に気づく教養。三、歴史の中に生きていることに気づく教養。紙幅の関係から、あとの二つについては簡単に触れるにとどめたい。
 私たちの暮らす社会も私たちを縛っている。それが何をどのように縛っているのかに気づく上で《演劇的知》は、たとえばドラマを活用する。ワークショップの現場で話を聞くと、自分は無感動な、変化に乏しい日々を送っていると感じている人は多い。ドラマはテレビや新聞の中にあるもので、自分とは無縁なものだと思っている。つまり、感情の動きにひどく鈍感になってしまっているのである。そうした人に、一定の時間をかけて身近な材料からドラマを作ってもらう。結果として、参加者の多くは周囲にドラマが満ちていることに気がつく。《演劇的知》には、豊かな感情生活を回復する働きがある。
 また、三次元空間で一定の時間の中を生きているという世界観も私たちを縛っている。それを相対化する、つまり長い歴史の広い世界のほんの一点でしかない自分の存在を感じる時間が人間には必要だ。そうした時間を持たないと人間は思い上がり、深刻な紛争や過度の環境破壊を繰り返す。実はこの三つ目の教養は、悲劇の観劇体験にほかならない。一般に人間社会や人生を俯瞰の視点から描いたものを悲劇、同じ視線でながめたものを喜劇と考える。悲劇、つまり「巨大な哀しみ」には人間存在を肯定する作用がある。
 この教養は、歴史の中に自分を発見するためのものである。今の自分が生きていることは、単に生物として生きているだけでなく、さまざまな人や歴史の上に自分が立たされていることだと思い知ることでもある。果たしてそのようなものとして演劇は機能しているのだろうか。解決のつかない国際紛争や、とどまることのない環境破壊の現状を見るにつけ、人類はまだ《演劇的知》が十分に機能した時代を持っていないのだと思う。

「思想」2007年5月/岩波書店

 

ちなみに、京都大学の入試問題の二問めの小説は、中島敦の「文字禍」です。一問目だけでも読み応えがあるのに、さらに中島敦とは、さすがです。

 

疲れが取れない人におすすめします。「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 藤本靖著 講談社+α文庫 を読んで

 

疲れが取れなくて、いつも身体も心も何となく重いので、タイトルに惹かれて読んでみた。


身体感覚を鋭くして、身体の使い方をチューニングする方法が、たくさん紹介されている。


その中で、3つ、声の出し方、人と会うとき疲れない方法、呼吸法について紹介する。

 

読みやすくするため、引用の一部の表記を変えています

 

話し上手になる声の出し方

話そうとすると緊張するのは、普段の呼吸の浅さが強調されるから。
もう一つは、いいたいことをうまく伝えられないから。
これは、頭が回らないからだ。

 

頭が回る声の出し方は、
「口だけでなく、鼻(鼻腔)も含めて発声すること」

 

目の下、目の上、こめかみ、後頭部の4か所を同時に響かせて、その振動が360度全方向の空間へと広がる感覚を持つ。

 

鼻腔に響かせて声を出すと頭がクリアになってすっきりするので、楽しい気分で筋道の通った話ができるようになる。

 

教えるという仕事がら、発声やボイストレーニングの本をたくさん読んできた。

どの本も参考にはなったが、その方法が難しくて、身につかなかったり、続かなかったりしてきた。

 

この鼻腔に響かせるという方法は、やりやすいし、覚えやすい。
ただ、話に熱が入ると、鼻腔を意識することが抜けてしまう。
何度もやってみて、意識するクセを身につけようと思う。

 


おへそセンサーの使い方

人と会うと疲れるのは、
緊張するから。
根底にあるのは不安。
人に相対したときに「安心感」を感じられないから、身構え、緊張せざるを得ない。

 

頭でいくら「安心だよ」といい聞かせても、身構えて緊張するという身体の無意識の反応を止めることはできない。

 

自分のおへその上に両手を重ねておく。
そして、そこに自分のおへそがあるということを感じて自分の呼吸に意識を向ける。

 

呼吸が深くなって、胸が柔らかく動くのが感じられる。

おへその存在を感じてリラックスしているこの感覚が「身体が安心している」状態。

 

「自分のおへそと相手のおへそがひもでつながっているような感覚を持つ」こと。

 

おへそセンサーでつながって話していると、普段より相手に親しみを感じて、また自分の身体がリラックスして居心地がよいので、いつまでも一緒にいたいと感じるかもしれない。

 

おへそセンサーという言葉にインパクトがある。


頭で安心と言い聞かせても、身体は無意識に身構えるとあるのが納得する。


ひもでつながっているような感覚をどう感じられるのか、これは実践を積み重ねる必要がある。
相手を選ぶトレーニングかもしれない。

 

最後は、呼吸法について。

 

ストロー呼吸

ストローから息を吐くように呼吸するということだけを意識していればよい。

ストロー呼吸を行うと、自分自身をしっかりと支える感覚が生まれるので、ストレスに対して必要以上に身構えて緊張したり、呼吸を止めてしまったりすることがないので疲れにくくなる。

自分をしっかりさせることが必要なあらゆる状況で、ストロー呼吸は役に立つ。

 

これは簡単ですぐに実践できた。
このストロー呼吸は単純で効果もわかりやすく、よい方法だ。

 

この本は、一気に読み終えるよりも、気になる方法を試してみて、その都度、身体感覚をつかむようにした方がよい。


私は読み終えるまで、かなり時間がかかった。
自分の症状に対応した箇所を熟読して、身体で確かめるという読み方をおすすめします。

 

「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる! (講談社+α文庫) 

 

『うつヌケ』田中圭一 角川書店を読んで考えた

 

第3話 田中圭一の場合で、うつの「突然リターン」の原因が、「はげしい気温差」にあることに気づく場面があります。

引き金になるものは、さまざまあり、

気圧の変化も外部要因だそうです。

 

そこで、気温や気圧の変化がわかるアプリを探してみました。

「ズキンちゃん」という頭痛対策のアプリが役立ちそうです。

気温と気圧のグラフがわかりやすく、体調の変化の予想ができそうです。

 

ズキンちゃん

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 iPhone用です。私のiPhone5でも使えました。

 

他に「頭痛〜る」というのもあります。

pocke, Inc「頭痛ーる:気圧予報で体調管理 - 気象病・天気痛対策アプリ」
https://appsto.re/jp/QRo8J.i

 

これは、私のiPhoneでは動かなかったので、確認できませんでした。

 

さらに、山用に使っていたcasioのprotrekという腕時計を思い出しました。気温や気圧が測定できます。

画像の999が気圧で、16.4が気温です。

見づらいですが、999の上には、気圧変化のグラフがあります。

 

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 これがあれば、いつでも気温や気圧の変化がわかり、体調への影響もつかむことができそうです。

 

私の時計は数年前のものなので、新しいものをAmazonで調べました。

ご参考になれば。

[カシオ]Casio 腕時計 PROTREK カシオ プロトレック トリプルセンサーVer.3搭載 ソーラーウォッチ PRG-270-1AJF メンズ 

 

 

マンガ「うつヌケ」田中圭一 角川書店 を読んで

 

「うつヌケ」田中圭一  角川書店

第1話
田中圭市の場合①
絵が手塚治虫を連想して親しみやすい。

助手との対話形式なので読みやすい。

著者のうつが治るきっかけとなった本『自分の「うつ」を直した精神科医の方法 』河出書房新社 を早速アマゾンで注文した。

第3話 田中圭市の場合③
気持ちが沈むのは、激しい気温差が原因だと気づく。
これはなるほどと思った。

第13話 精神科医・ゆうきゆうの話
認知の歪みを解消する方法が参考になった。

第20話まで、どの回も、それぞれ異なるケースで、具体的な内容が、わかりやすく描かれている。

うつという深刻で、複雑な題材だが、マンガ化がとても有効で、すっと読めた。
たぶん活字だと読みづらい内容もあると思う。

第20話 総まとめに、「うつは『なる』ものじゃなくって誰の心の中にも『眠っている』ものだと思うんです」という一節がある。

私は「うつ」と診断されたことはないが、うつは他人事とは思えない。
私自身も「憂うつ」な気分に取りつかれることがたびたびあった。身近にうつで苦しんでいる方もいる。

しかし、この本で得た知見で、うつに対する疑問や不安がある程度、解消された。

うつに関心のある方や、うつで苦しんでいる家族、知人がいる方におすすめします。

 

うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち 

 

 

国公立大学二次試験 大阪大学文学部 国語 小説『海炭都市叙景』で大学入試現代文を味わう

 

大阪大学 文学部 2016年 前期

大学入試 現代文 小説
『海炭都市叙景』 佐藤泰志

河合塾のサイトで読むことができます。

http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/16/ha1.html

 

文庫本でおよそ6ページ、冒頭から半分弱の分量。

冬山に初日の出を見に行った兄と妹の物語。歩いて下山すると言って別れた兄を妹は待ち続ける。兄は決して戻ってこなかった。


妹「わたし」の視点で描かれている。
文章は簡潔で的確。非常に読みやすい。兄と妹の会話にカギカッコはつかない。

 

受験生たちはどんな気持ちでこの問題に取り組んだのだろう。
おそらく感受性の鋭い人は、物語の世界に没入して、「わたし」の心情に共鳴して泣けてしまったのではないでしょうか。


こんな「泣き」の小説、よく出したなあというのがまず思ったこと。そして受験生の何人かは悲しくなりすぎて、他の問題に手がつかなかったのではないか。


どんな状況でもクールに感情を保ち、問題の分析と解答作成が可能な人材こそ、大阪大学にふさわしいのだろう。でも、こんな悲しい小説出題するなよと目頭を押さえながら、嗚咽をこらえる受験生が、本当は文学部にふさわしい感性を持っているとも考えられる。


問題作成をした大阪大学の先生はそこまで考えていたのかな。
近年まれに見る小説問題の良素材。すばらしい。必読です。小学館文庫で読めます。

 

海炭市叙景 (小学館文庫) 

 

 「note」に書いた文章を再掲しました。