2017年センター試験 国語 第1問 評論「科学コミュニケーション」小林傳司
問題文の分析
河合塾のサイトでセンター試験をみることができます。
http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/center/17/
各段落要旨をまとめてみた。①~⑬が段落番号です。
問題の分析は、河合塾をはじめ多くの方が行い、公表されているのでそちらを参考にしてください。ここでは問題を読んで考えたことを述べたい。
①現代社会―科学技術に依存した社会
十六、七世紀―「科学」は存在せず、自然哲学の一環、好事家の楽しみ
しかし
十九世紀―「科学者」―職業的専門家―知識生産
さらに
二十世紀―国民国家の競争の時代―技術的な威力と結びつき、戦力→二度の世界大戦
②第二次大戦以降、科学技術―膨張
かつてー思弁的、宇宙論的伝統に基づく自然哲学的性格を失い、先進国の社会体制を維持する装置となった
③十九~二十世紀前半―科学―技術―社会の問題を解決する能力
しかし
二十世紀後半―科学-技術―両面価値的存在
実験室で人工物を作り出すー自然に介入し、操作する能力
↓
自然の脅威を制御できる(メリット)
人工物が人類に災いをもたらす(デメリット)
「もっと科学を」→「科学が問題ではないか」
④しかし科学者は「もっと科学を」になじんでいる
「科学が問題ではないか」―無知、誤解から生まれた反発と見なす
↓
一般市民に科学教育、啓蒙プログラムを
⑤コリンズとピンチー「ゴレム」=ユダヤ神話の怪物
人間の命令に従い、仕事をし、外敵から守る
しかし 不器用で危険な存在、制御しなければ主人を破壊する威力
科学―全面的に善なる存在か全面的に悪なる存在
実在と直結した無謬の知識―神のイメージ
↓
科学が自らを実態以上に美化、幻滅を生み出した
チェルノブイリ、狂牛病―悪のイメージ
⑥コリンズとピンチの処方箋―「神のイメージ」を「へまをする巨人=ゴレムのイメージ」に取りかえること
七つの論争―ケーススタディの提示―科学論争の終結はさまざまな要因が絡むこと
⑦例―ウェーバーの重力波の測定―追試の結果で否定すると自らの実験能力の低さを公表することになる
⑧どんな結果になれば実験は成功なのかわからないー実験家の悪循環
⑨有力科学者の否定的発言→科学者の意見は否定論へ
つまり
実験では決着がつかなかったが、科学者は非存在の判断へ
⑩コリンズとピンチー「もっと科学を」路線を批判
論争が起こったとき、実験などでは解決できないことを一般市民に期待するのは間違っている
一般市民に伝えるべきことは、科学の内容ではなく、専門家と政治家やメディア、われわれとの関係だ
⑪「神のイメージ」から「ゴレムのイメージ」でとらえなおすという主張
↓
科学を一枚岩とみなす発想を掘り崩す効果
⑫この議論には問題がある(筆者の主張)
コリンズとピンチの「ゴレム」という科学イメージは、彼らの発見ではなく、ポピュラーなメージである。科学の暴走を危惧する小説は多数ある
⑬コリンズとピンチは一般市民は一枚岩的に「科学は一枚岩」だと信じていると認定
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科学者はもちろん、一般市民も科学のほんとうの姿を知らないという前提
では知っているのはー科学社会主義者であるという答え
感想
①~⑪までの内容はわかりやすいが、⑫と⑬段落の筆者の主張がわかりにくい。
もっと説明が必要なのではないか。受験生は論理の飛躍を感じたかも知れない。
そもそも「科学コミュニケーション」という語自体、聞き慣れないものである。
検索をしてみると、著者の小林先生自身が書かれた文章が見つかったので、引用する。
社会の中の科学知とコミュニケーション
小林傳司(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター)
知識は利用されて初めて知識、と言える。一切流通、伝達されない知を「知」と呼べるであろうか。ある意味で貨幣と似ている。貨幣の場合、日本では政府が補助貨幣を、日本銀行が日本銀行券(紙幣)を発行しており、それ以外は子どものおもちゃか偽札である。
科学知の場合にはどうであろうか。さまざまな「知」が流通する中で、科学知はきわめて高い威信を持っている。科学哲学は、知識の生産の場面に焦点を当て、その高い威信のよって来るところを議論し、偽札ならぬ疑似科学を「境界設定」しようとしてきた。その試みを否定するつもりはないが、科学知の流通あるいは利用の場面も少し考えてみてはどうであろうか。
先進国では、科学知が社会の根幹を支えている。産業的利用を通じた経済的発展の基礎としての機能、利便性の提供者としての機能、さまざまな意思決定の正統性の根拠としての機能などである。科学に基づく決定に異議を唱えることは不可能であるかのごとき状況が生まれている。他方、「疑似科学」的言説も一定の社会的影響力をもつ事例に事欠かず、また若者の科学離れがエリートの不安を掻き立てている。とは言え、先進国においては、いわゆる迷信の撲滅といった課題は社会的重要性を持たなくなっている点で、発展途上国と状況は大いに異なる。
科学コミュニケーションというキャッチフレーズには複数の出自がある。一つは、今述べた、疑似科学の根絶、若者の科学離れの改善による「正しい科学の理解と支援」という発想である。しかしもう一つの出自はこれとは少し異なる。科学が社会に流通し、問題を解決するとともに、問題を引き起こす可能性が出ていることから生まれた発想である。
例えば地球温暖化問題である。IPCCパネルによる数次の検討を経て、科学者の「大多数」は、地球温暖化がすでに生じており、その原因の多くは人間の活動に帰せられるものであり、緊急に温室効果ガスを削減することが必要だという点で「合意」し始めている。しかし、「正統なる知」としての科学が提出するこのような見解に対して、同じく「正統」に属すると思われる科学者の中に、異論は残っている。またIPCCの報告書も、その信頼性については確率を付したかたちで見解を表現している。科学知の「正統性」はどのように担保されるのであろうか。現時点では、多数派の科学者の意見の一致という意味で「合意」の事柄に見える。しかもこのような「科学知」に基づいて、世界の地球温暖化ガス排出量削減に関する取り決めを作ろうとしているのである。
パンデミックも厄介な事例である。どのような対策が有効なのか、治療法は何か、ワクチンの摂取の優先順位は何か、弱毒性から強毒性に変化するのか、こういった事柄については科学が明確に答えを出せない。にもかかわらず、決定していかねばならない。
このような、不確実性が伴う科学知しかない状況で、何らかの意思決定が迫られる状況が増えている。そのとき、どのような「知」が動員されるべきなのであろうか。科学が、中等教育の理科のような「確実な知」の提供者であれば話は比較的簡単である。しかし現実にはそうではない。イギリスのBSE事件は、こういった不確実な科学知の利用に関する悲劇的な失敗事例であった。イギリスの科学コミュニケーションは、これをきっかけに大きく変わったのである。コミュニケーションの「双方向性モデル」への転換、「欠如モデル」の批判といった議論はこの頃から勢いを増してきた。
おそらく、このような問題状況において、科学知の果たす役割は限定的にならざるをえないであろう。とすれば、科学知以外にどのような「知」が動員されるべきなのであろうか。またそのような「知」は科学知とどういう関係を持っているのであろうか。そのような「知」はどのような正統性を持つのであろうか。
*アンダーラインは私が引きました
センターの問題文と関係する内容の文章ですね。アンダーライン部が気になって、自分なりに考えてみました。
「科学の知」は細分化、専門化されすぎて、相関性をみる、連関に気づく、関係性の広がりをとらえるという視点が欠けているのではないか。
科学とは次元の異なるレベルの知は、哲学及び宗教の知となる。
人類を何度も滅亡させられような科学技術があったとする。科学的にはそれが真であっても、私たちには利益をもたらさないのであればそれは不要なものである。
真よりも利益の方が、価値があると考える。
カントが述べた真善美の善にあたる価値を「動員」すればよい。
文部科学省は国立大学の文系学部廃止を打ち出したが、「科学」重視路線でよいのか。
筆者のいうように科学知の果たす役割は限定されるのだから、むしろ、人文系の知を大切にして、科学者も学ぶ必要があるのではないか。
センター試験の評論に戻ると、出題者はこれぐらいの文章は理解してほしいという意図があるのだろう。しかし、なんだかすっきりしない主張を、はたしてどれだけの受験生が読み取れただろうか。
2017年のセンター試験の国語の平均点は、前年よりおよそ23点下がった。肩を落とした受験生も多かったに違いない。この評論文がその一端であるとは言い切れないが、少なくとも影響はあったであろう。
評論文を読んでもさっぱりわからなかったという人のために、少しでも理解の参考になればと思い書きました。
評論文の勉強方法については、別記を参考にしてください。
「国語教師が薦める現代文参考書ベスト3 その1」
http://blog.hatena.ne.jp/bluesoyaji/bluesoyaji.hatenablog.com/edit?entry=10328749687211935571