大西巨人 「いつもそばに、本が」 朝日新聞 2001年2月4日
4月から転勤で、荷物の整理をしていると、クリアファイルに挟まれて新聞記事のコピーが3枚出てきた。
1枚目は、大西巨人の横顔写真と「古典千冊3回読め」と菊池寛 という見出し。
記事内容は、大西巨人が福岡高校時代(1930年代中頃)、学校の講堂で聞いた菊池寛の講話の紹介である。
「諸君が、文学について何かを語ろうと思ったら、まず極め付きの古典を千冊、一冊を三回、読め。すると、諸君は、極め付きの古典三千冊を読んだことになる。そこで初めて、諸君は、文学について発言することができる。」と言った。菊池寛のこの言葉を、私は、感動して(実践的に)肝に銘じた。
さらに、大西巨人は、指導教官であった秋山教授の言葉、「人は、二十五歳までに、良書を言わば『濫読』して、まともな読書の習慣をしっかり身に付けるべきである」を「感動して(実践的に)肝に銘じた」と書いている。
菊池寛の「極め付きの古典三千冊」を読んで初めて、文学について発言できるという言葉は、たしかにそうであろうと納得できる。
しかし、自分が実践できるかと言えば、それは現実的ではない、不可能な数字ではないだろうかと思ってしまう。
この弱気なり、そこまでしなくてもという甘えなりが、現在の自分を作っていることに思い当たる。
楽器のマスターなど、その道の上達のためには、少なくとも一万時間の練習が必要といわれる。一日に三時間練習して、十年間で一万時間を超えることになる。
三千冊の古典読書も、一日三時間で一冊読むとして、一年で三百冊少々、三千冊には十年近くかかる。
どちらにしろ、気の遠くなるような努力とその持続が必要だ。
自分には無理だと思う人が多いのではないか。
そこで見方を変えてみよう。
菊池寛のこの言葉はキャッチコピーであり、頑張れよという励ましだととらえてみてはどうだろうか。
菊池寛は、文芸春秋社を作るほどの人である。ある意味、アイデアも優れていたはずだ。青年を叱咤激励するため、この三千冊の読書というわかりやすいキャッチコピーを示したと見ることができないだろうか。
まずは、自分のやりたいこと、目指していることに、大いに力を注げよ、そのように薦めていると考えよう。
三千冊の古典読書を文字通り実践できるのは、大西巨人レベルの奇才のみなのだから。