bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

忌野清志郎「covers」と「コブラの悩み」

 

東芝のニュースが世間を騒がしている。

思い出したのが、忌野清志郎の「covers」と「コブラの悩み」というアルバム。

当時のレコード会社の親会社が東芝で、原発に批判的な内容のアルバムの発売を中止させたと言われた。

 

ライブ盤の「コブラの悩み」で清志郎は「東の芝から〜」と歌っていた。

 

先鋭的なミュージシャンは、時代の流れ、未来の姿を感じ取っていたのかと感心する。

興味を持った方は、amazonのリンクを載せておくので、参考にして下さい。

カバーズ https://www.amazon.co.jp/dp/B000BDJ56Q/ref=cm_sw_r_cp_api_CocPybENR83TQ

 

コブラの悩み https://www.amazon.co.jp/dp/B000BDJ6CE/ref=cm_sw_r_cp_api_JddPyb07CSV9X

 

 

「科学コミュニケーション」2017年センター試験 国語 評論文を読んで考えたこと

 

 

2017年センター試験 国語 第1問 評論「科学コミュニケーション」小林傳司

問題文の分析 

 

河合塾のサイトでセンター試験をみることができます。

http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/center/17/

 

各段落要旨をまとめてみた。①~⑬が段落番号です。

 

問題の分析は、河合塾をはじめ多くの方が行い、公表されているのでそちらを参考にしてください。ここでは問題を読んで考えたことを述べたい。

 

 ①現代社会―科学技術に依存した社会

十六、七世紀―「科学」は存在せず、自然哲学の一環、好事家の楽しみ

しかし

十九世紀―「科学者」―職業的専門家―知識生産

さらに

二十世紀―国民国家の競争の時代―技術的な威力と結びつき、戦力→二度の世界大戦

②第二次大戦以降、科学技術―膨張

かつてー思弁的、宇宙論的伝統に基づく自然哲学的性格を失い、先進国の社会体制を維持する装置となった

③十九~二十世紀前半―科学―技術―社会の問題を解決する能力

しかし

二十世紀後半―科学-技術―両面価値的存在

実験室で人工物を作り出すー自然に介入し、操作する能力

          ↓

自然の脅威を制御できる(メリット)

人工物が人類に災いをもたらす(デメリット)

「もっと科学を」→「科学が問題ではないか」

しかし科学者は「もっと科学を」になじんでいる

「科学が問題ではないか」―無知、誤解から生まれた反発と見なす

               ↓

 一般市民に科学教育、啓蒙プログラムを

⑤コリンズとピンチー「ゴレム」=ユダヤ神話の怪物

 人間の命令に従い、仕事をし、外敵から守る

 しかし 不器用で危険な存在、制御しなければ主人を破壊する威力

 科学―全面的に善なる存在か全面的に悪なる存在

   実在と直結した無謬の知識―神のイメージ

          ↓

   科学が自らを実態以上に美化、幻滅を生み出した

   チェルノブイリ、狂牛病―悪のイメージ

⑥コリンズとピンチの処方箋―「神のイメージ」を「へまをする巨人=ゴレムのイメージ」に取りかえること

七つの論争―ケーススタディの提示―科学論争の終結はさまざまな要因が絡むこと

⑦例―ウェーバーの重力波の測定―追試の結果で否定すると自らの実験能力の低さを公表することになる       

⑧どんな結果になれば実験は成功なのかわからないー実験家の悪循環

⑨有力科学者の否定的発言→科学者の意見は否定論へ

つまり

実験では決着がつかなかったが、科学者は非存在の判断へ

⑩コリンズとピンチー「もっと科学を」路線を批判

論争が起こったとき、実験などでは解決できないことを一般市民に期待するのは間違っている

一般市民に伝えるべきことは、科学の内容ではなく、専門家と政治家やメディア、われわれとの関係だ

⑪「神のイメージ」から「ゴレムのイメージ」でとらえなおすという主張

           ↓

 科学を一枚岩とみなす発想を掘り崩す効果

⑫この議論には問題がある(筆者の主張)

コリンズとピンチの「ゴレム」という科学イメージは、彼らの発見ではなく、ポピュラーなメージである。科学の暴走を危惧する小説は多数ある

⑬コリンズとピンチは一般市民は一枚岩的に「科学は一枚岩」だと信じていると認定

             |

  科学者はもちろん、一般市民も科学のほんとうの姿を知らないという前提

  では知っているのはー科学社会主義者であるという答え

 

 

 

感想

①~⑪までの内容はわかりやすいが、⑫と⑬段落の筆者の主張がわかりにくい。

もっと説明が必要なのではないか。受験生は論理の飛躍を感じたかも知れない。

 

そもそも「科学コミュニケーション」という語自体、聞き慣れないものである。

検索をしてみると、著者の小林先生自身が書かれた文章が見つかったので、引用する。

http://pssj.info/program/program_data/42/WS/kobayashi.pdf#search=%27%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%82%B3%E5%8F%B8+%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%27

 

社会の中の科学知とコミュニケーション

小林傳司(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター)

 

知識は利用されて初めて知識、と言える。一切流通、伝達されない知を「知」と呼べるであろうか。ある意味で貨幣と似ている。貨幣の場合、日本では政府が補助貨幣を、日本銀行が日本銀行券(紙幣)を発行しており、それ以外は子どものおもちゃか偽札である。

科学知の場合にはどうであろうか。さまざまな「知」が流通する中で、科学知はきわめて高い威信を持っている。科学哲学は、知識の生産の場面に焦点を当て、その高い威信のよって来るところを議論し、偽札ならぬ疑似科学を「境界設定」しようとしてきた。その試みを否定するつもりはないが、科学知の流通あるいは利用の場面も少し考えてみてはどうであろうか。

先進国では、科学知が社会の根幹を支えている。産業的利用を通じた経済的発展の基礎としての機能、利便性の提供者としての機能、さまざまな意思決定の正統性の根拠としての機能などである。科学に基づく決定に異議を唱えることは不可能であるかのごとき状況が生まれている。他方、「疑似科学」的言説も一定の社会的影響力をもつ事例に事欠かず、また若者の科学離れがエリートの不安を掻き立てている。とは言え、先進国においては、いわゆる迷信の撲滅といった課題は社会的重要性を持たなくなっている点で、発展途上国と状況は大いに異なる。

科学コミュニケーションというキャッチフレーズには複数の出自がある。一つは、今述べた、疑似科学の根絶、若者の科学離れの改善による「正しい科学の理解と支援」という発想である。しかしもう一つの出自はこれとは少し異なる。科学が社会に流通し、問題を解決するとともに、問題を引き起こす可能性が出ていることから生まれた発想である。

例えば地球温暖化問題である。IPCCパネルによる数次の検討を経て、科学者の「大多数」は、地球温暖化がすでに生じており、その原因の多くは人間の活動に帰せられるものであり、緊急に温室効果ガスを削減することが必要だという点で「合意」し始めている。しかし、「正統なる知」としての科学が提出するこのような見解に対して、同じく「正統」に属すると思われる科学者の中に、異論は残っている。またIPCCの報告書も、その信頼性については確率を付したかたちで見解を表現している。科学知の「正統性」はどのように担保されるのであろうか。現時点では、多数派の科学者の意見の一致という意味で「合意」の事柄に見える。しかもこのような「科学知」に基づいて、世界の地球温暖化ガス排出量削減に関する取り決めを作ろうとしているのである。

パンデミックも厄介な事例である。どのような対策が有効なのか、治療法は何か、ワクチンの摂取の優先順位は何か、弱毒性から強毒性に変化するのか、こういった事柄については科学が明確に答えを出せない。にもかかわらず、決定していかねばならない。

このような、不確実性が伴う科学知しかない状況で、何らかの意思決定が迫られる状況が増えている。そのとき、どのような「知」が動員されるべきなのであろうか。科学が、中等教育の理科のような「確実な知」の提供者であれば話は比較的簡単である。しかし現実にはそうではない。イギリスのBSE事件は、こういった不確実な科学知の利用に関する悲劇的な失敗事例であった。イギリスの科学コミュニケーションは、これをきっかけに大きく変わったのである。コミュニケーションの「双方向性モデル」への転換、「欠如モデル」の批判といった議論はこの頃から勢いを増してきた。

おそらく、このような問題状況において、科学知の果たす役割は限定的にならざるをえないであろう。とすれば、科学知以外にどのような「知」が動員されるべきなのであろうか。またそのような「知」は科学知とどういう関係を持っているのであろうか。そのような「知」はどのような正統性を持つのであろうか

*アンダーラインは私が引きました

 

センターの問題文と関係する内容の文章ですね。アンダーライン部が気になって、自分なりに考えてみました。

 

「科学の知」は細分化、専門化されすぎて、相関性をみる、連関に気づく、関係性の広がりをとらえるという視点が欠けているのではないか。

 

科学とは次元の異なるレベルの知は、哲学及び宗教の知となる。

人類を何度も滅亡させられような科学技術があったとする。科学的にはそれが真であっても、私たちには利益をもたらさないのであればそれは不要なものである。

真よりも利益の方が、価値があると考える。

 

カントが述べた真善美の善にあたる価値を「動員」すればよい。

 

文部科学省は国立大学の文系学部廃止を打ち出したが、「科学」重視路線でよいのか。

筆者のいうように科学知の果たす役割は限定されるのだから、むしろ、人文系の知を大切にして、科学者も学ぶ必要があるのではないか。

 

センター試験の評論に戻ると、出題者はこれぐらいの文章は理解してほしいという意図があるのだろう。しかし、なんだかすっきりしない主張を、はたしてどれだけの受験生が読み取れただろうか。

 

2017年のセンター試験の国語の平均点は、前年よりおよそ23点下がった。肩を落とした受験生も多かったに違いない。この評論文がその一端であるとは言い切れないが、少なくとも影響はあったであろう。

 

評論文を読んでもさっぱりわからなかったという人のために、少しでも理解の参考になればと思い書きました。

 

評論文の勉強方法については、別記を参考にしてください。

「国語教師が薦める現代文参考書ベスト3  その1」

http://blog.hatena.ne.jp/bluesoyaji/bluesoyaji.hatenablog.com/edit?entry=10328749687211935571

 

 

 

 

 

『夏目漱石』十川信介著 岩波新書 を読んで考えた

 

『夏目漱石』を読んで、気になった箇所を引用する。
(一部表記を変えています)

 

彼は続いて十一年四月には市谷上等小学第八級を卒業、同じ年の十月には神田猿楽町にあった錦華学校小学尋常科第二級後期を卒業するというスピードぶりである。これは当時の学制に飛び級があったためだが、彼がいかに勉強に打ち込んだかを証明するものでもある。いわゆる家族的愛情を受けなかった彼は、その「牢獄」から脱出するために、勉学せざるをえない気持ちに追い立てられていたのだろう。加えて、実家に引き取られたとき、「実家の父にとっての健三は、小さな一個の邪魔者であった。何しにこんな出来損ないが舞い込んできたかという顔つきをした父は、ほとんど子としての待遇を彼に与えなかった」と『道草』にはある。

 

胸が締め付けられる一節である。

漱石は、家庭的に恵まれない子供時代を過ごした。養父母や実の父から愛情を感じることがなかった。その気持ちを勉強に打ち込むことに向けたというのである。

普通は、投げやりになって逆に勉強しなくなったり、ぐれたりすることが多いだろう。

さすが漱石は違う。感心した。

 

そして実母の死である。

 

彼が府立一中を中退し、二松学舎で学んだのはその直後のころである。母の死によって、心を許せる人間はいなくなった。その孤独を癒したい気持ちが、彼を漢詩、漢学に導いたのかもしれない。

 

彼は気を取り直してまた勉学を始めた。身を立てるためには、大学に入らなければならない、だがそのためには嫌いな英語を学ばなければならない。中学の正則科では英語は学ばなかったからである。言うまでもなく、当時大学は東京大学のみである。

 

実の父に疎まれ、唯一の愛する母を早くに亡くして、身を立てるため、勉強に励むのである。


大学に行きたいという気持の深さが、現代の高校生たちとは違うように感じた。


芸術で名をなす人は、若い頃の葛藤が成功の原動力になっていることがある。漱石はまさにその例であったことがわかった。


単に秀才だったから、東大に行き、のちに文豪として成功したのではない。
ハートが並の人間とは違う。漱石すごいなと思わせるエピソードである。


英語が嫌いだったというのも興味深い。後に英文学を研究するため、ロンドンに留学するほどの漱石だが、若い頃は苦手克服に努力したことが想像される。

 

夏目漱石 十川信介 岩波新書

 

『月3万円ビジネス』藤村靖之著 晶文社 を読んで考えた

 

『月3万円ビジネス』
藤村靖之著
晶文社

がとても面白かった。


月に3万円しか稼げないビジネスには競争も生じません。だから仲間と協力して進めることができます。みんなで生み出して、みんなで教え合う…「分かち合いのビジネス」が実現できるかもしれません。
グローバリズムの未来に明るい絵を描くのは、もはや脂ぎったオジサンだけでしょう。多くの人が真の豊かさを求めて、ローカル化を指向し始めました。やがては経済が地域で持続的に循環する社会に移ることでしょう。

「月3万円ビジネス」というのは、支出が少ない生活スタイルと重ねることが必須です。でも、その生活スタイルが愉しくなくては、不幸せになってしまいそうです。

 

月3万円と聞くと、小銭が稼げる副業を連想するが、そうではない。自分だけ得をするとか、儲けのいい仕事とかと全く逆のことである。
私も脂ぎった人は苦手だが、世の中の主流は、まだグローバリズムであったり、経済発展であったりする。
真の豊かさを求めてローカル化を指向するという考えは、内山節先生の主張とも重なる。詳しくは、『半市場経済』に書かれている。


第二章「月3万円ビジネス」の実例 では、21のビジネスが紹介されている。どれも初めて知る興味深い内容である。
その中で自分でもやってみたいと思ったのは、無農薬緑茶自家栽培ビジネスである。
お茶の栽培には大量の農薬が使われているそうだ。そこで自分で無農薬のお茶を作り、それを飲むと言うことがやりたくなった。ただし、ビジネスではなく、自家消費用にである。
緑茶は健康にも良いそうだし、毎日何杯かは必ず飲んでいるので、無農薬の安全なお茶を飲みたい。また、緑茶の栽培には1キログラムあたり2平方メートルほど必要とあるので、そんなに広い土地は必要でない。田舎であれば、自宅の狭い庭で充分だ。手軽に挑戦できそうである。


第三章 地方で仕事を作るセオリー


僕たちの世代は過激でした。
レーニンや毛沢東の本を読んで、わかったような気分になって「正義」を振りかざしていました。どうやら自分に酔っていたようです。
大きなことばかり叫びます。自己陶酔の極みです。でも余裕がない。余裕がないから攻撃的になり、挙句の果ては孤立して挫折します。
30年もこんな人生を送ってきて得られた教訓はたった一つ。「人は正しいことが好きなのではなくて、愉しいことが好きなのだ」ということでした。
主題は正しさではなくて愉しさーこの方が気が利いているような気がします。いいことを愉しくやる。誰でも参加できます。「大きいことを言うだけ」はオジサンに任せて、いいこと、小さいことをみんなで愉しくやる。小さければ小さいほどいい。その方がすぐに取り掛かれるし、誰も反対しない。結果も出やすい。結果が出ると、広く伝わって多くの人が同調して社会の変容がもたらされるかもしれません

(引用の一部に省略があります)


著者の藤村裕之さんは現在70歳代。学生運動を経験してきた世代であろう。正しいことよりも、愉しいことを追求するという主張に共感した。愉しくなければ持続することが難しい。


私も、長年生きていると、しかたなくするとか、やらなければならないからやるという発想にならされてしまい、やっていて愉しいという感覚が持てなくなってしまう。
また都会暮らしをしていると、自分の手で何かを作ることがなくなり、何でもお金を出して買うことに慣れきってしまう。


著者の勧めるビジネスは、体を動かすことが多い。自分の手で何かを作る。そこに本当の愉しさがあることに気づかされる。


自分の生活を振り返ってみると、ネットで欲しいものを見つけては買い漁ることが多かった。その時は欲しいと思っても、手に入れると必要なものではなかったり、気に入らない点が出てきたりして、使わなかったことをもある。
消費することでストレスを解消していたことがわかった。


なんらかの手仕事をすることで、充分に心も満たされると思う。シンプルなものでも手作りであれば愛着が湧く。


自分には、今すぐ月3万円ビジネスに取り掛かるのは無理であっても、長期的に指向していきたいと考えた。


興味を持たれた方は、ぜひ一読をお勧めします。

 

月3万円ビジネス 

 

『半市場経済』内山節 角川新書 を読んで考えた その2

 

『半市場経済』内山節 角川新書 を読んで考えた 

 http://bluesoyaji.hatenablog.com/entry/2017/02/02/191149

続きです。

 

引用

課題はどんな社会をつくりたいのか、どんな社会のなかで生きていきたいのか、どんな結び合いのなかで、どんな働き方がしたいのかである。
別の表現をとるなら、どんな価値を創造しながら生きていきたいのかだといってもよい。そしてそれを追求していくと、必然的に、市場経済の原理だけで形成されない、あるいは市場経済の原理を超えた経済活動にたどり着く。市場を活用してはいるが、目的は市場経済の原理とは別のところにある営みである。本書ではそれを「半市場経済」と位置づけているが、それは人間たちの本来の経済活動でもあった。

  
本書のタイトルに関して述べられた部分である。「半市場経済」とは、「人間たちの本来の経済活動でもあった」という点に注目したい。

「半」という語からの連想で、片足を現在の市場経済に置きながら、何か新しいことに取り組むというイメージを抱いてしまうが、そうでない。むしろ、「本来の経済活動」と述べられているように、本質的なものである。

もう一つ、ここでは「価値を創造しながら生きていきたいのか」という表現に、注意したい。

私たちは生きていくうえで、何らかの価値を創造するという視点を忘れてはいないだろうか。単に働いて金を儲けて消費して、生きている。そこに価値の創造はあるのかと自問してみる。生きてるだけで丸もうけという考えもあるが、それはさておき、内山先生のこの言葉に、自分が生み出す価値ということを改めて考えさせられた。

さらに続ける予定。

 

 

「論理的に考える/書く」は、人間の本能とは異なるので、身につけるには辛抱強い訓練が必要。安達裕哉 を読んで考えた

 

 http://blog.tinect.jp/?p=36542

人間は元来「論理的に考える」のは苦手である。
脳の構造そのものから逃れることはできない。
逆に「論理的に考えること」は訓練次第で身につく、と考えることもできる。
例えば、国語の勉強である。
「主人公が次のような行動をしたのはなぜか?理由を説明せよ」といった理由を尋ねる設問がある。何回も何回も「○○だから。」と語尾につけて解答し、それにマルバツをつけられていくうちに、「スジが通っている」「通っていない」を徐々に判断できるようになっていく。
「著者のいいたいことは何か?要約せよ」という設問に、多くの人は文中に書かれていることではなく、「自分が思ったこと」を答えてしまう。
中略 

「国語」は非常に重要な訓練の場なのだ。

「学校教育は役に立たない」と言われがちだが、社会に出てから必要な技能の訓練方法についての知恵が、学校教育には数多く含まれている。

ちょっとした「研修」や「読書」で身につくタイプの技能ではないのだ。
従って、もし部下/新人が「論理に弱い」のであれば、それは学校教育と同じような、辛抱強い訓練が必要であることを意味する。

 

ざっくりと趣旨を抜き出すとこうなった。


筆者の意見には同意である。その上で考えた点をいくつか述べたい。

 

高校の国語の授業で行っていること

 

評論では、段落要旨の抜き出しをする。著者の意見や主張が書かれている部分を探し出し、抜き出す。
接続語の「つまり」の後には大事なことが書いてあるから注意する、何度も同じ言葉が出てくると、それがキーワードだから注目する。

 

小説では、登場人物の心情を読み取ることが大切である。
これこれの行動をした、こんな表情だ、といった本文の内容から、客観的に見て、登場人物は「孤独感を感じている」「絶望している」などの心情を考え出す作業を行う。
たとえば、夏目漱石「こころ」で、友人Kが自殺した場面がある。

主人公の私は、Kが残した遺書をその場で読み、自分のことを悪く書いていないことを確認し、そのまま遺書をその場に戻すという行動をとる。
そのときの私の心情を考える。Kが私を非難する内容を遺書に書いていないか、とにかくそれが一番気になる。確かめると、そんなことは書いていない。私はホッとする。

私には自分のせいでKが自殺したという思いがあるので、遺書に自分に都合の悪いことが書いてあると困るからである。逆にそんなことは何も書いていなかった=私はKの自殺とは無関係の証明になる。だから、遺書を元通りに現場に置いておくという行動をとる。
「こころ」を読んだ高校生は、これらのことを問いかけられて初めて気づく。そういう作業を意識的に行わないと、自分で考えて気づくことができない。

 

論理的に考えるようになるには、文章を書くことが一番である。小論文を書いてみることをおすすめする。


具体的には、「型で習得!中高生からの文章術」樋口裕一 ちくまプリマ-新書
第二章 小論文の書き方 の中に、「型を守ろう」という詳しい説明があるので、これを読んでその通りに実践すると書けるようになる。

中高生を対象としている本だが、大学生や社会人で、論理力を身につけたいと考える人に、特におすすめである。

第一学習社や学研といった「小論文・作文」指導に定評のあるところやリクルート等が、社会人向けの小論文添削指導を安価で提供すればよいと思うが、どうですか。

 

型で習得! 中高生からの文章術  ちくまプリマ-新書

 

 

国語教師が薦める現代文参考書ベスト3 その2

 

今回は、小論文の参考書を紹介する。

田村のやさしく語る小論文
田村秀行
代々木ライブラリー

 

センター試験廃止後の新テストでは、国語、数学に記述問題を取り入れるという。誰が採点するのか。大学の先生も大変ですねと心配してしまう。

現在の入試でも国公立大学の二次試験では記述問題が多い。では、わざわざ新テストを導入しなくても、今のままでよいのではないか。昔は国公立大学一期校、二期校と入試があって、それぞれ個別に試験を受けていた。それでいいのではと思ってしまうが。
現在の高校では、記述問題や小論文を説く力を付けるための授業は、まず行っていない。現代文と国語表現という授業の中で、文章を書くことを扱うことはあるが、記述問題や小論文に特化した講座は少ないだろう。
記述問題は別の機会に考えるとして、小論文を書く力を付けるためにはどんな勉強をすればよいのか。

よく高校生から聞かれるが、その時にはこの「田村のやさしく語る小論文」をまず読むことを薦めている。これが一押しだ。

内容は、
第一部 小論文について知っておくこと
第二部 小論文の書き方の約束
第三部 小論文のための訓練法
となっており、第一部は語り口調なので、活字が苦手な高校生も取っつきやすいだろう。作文と小論文の違いといった基本や、どんな勉強をしたらよいか、新聞のどこを見ればよいかなど、わかりやすく、しかも本質を丁寧に教えてくれる。

難しいことを難しく表現する書き手は多いけど、難しいことをやさしく表現する人は少ない。田村先生は本当にわかりやすい。

一部引用をする。

新聞のどこを見ればよいのだろうか


 まず、コラムは、文章になっていないから、ダメ。あれは、途中に▼の印が出てきて「。」で区切ってないでしょ。だから、接続語や指示語でつながれてないし、▼のところで話が飛んじゃってるからいけないの。それから、最後に必ず政治家の皮肉になるというワンパターンもよくない。


朝日新聞「天声人語」神話の否定。そのとおりだ。

 

全部読むことは当然大事だが、時間がない人は、言葉づかいや記号の使い方など、ちょっと気になることを、目次で調べてそこを読むという勉強方法がお勧めである。

目次には具体的な項目がたくさん並んでおり、これを眺めるだけでも小論文の勉強の全体像がつかめる。

受験生だけでなく、教え子から小論文の添削を頼まれた先生や、うちの子供に書く力を付けたいと思っている保護者のみなさん、小論文を書く訓練を受けてこなかった大学生にもぜひお勧めである。

 

田村のやさしく語る小論文―代々木ゼミ方式 https://www.amazon.co.jp/dp/489680340X/ref=cm_sw_r_cp_api_cjfQybGR99ZR8

 

『半市場経済』内山節 角川新書 を読んで考えた

 

『半市場経済』
内山節
角川新書


内山節先生の著作を愛読してきた。
働き方について書かれた本とあるのに惹かれて読んでみた。
内容が深く、読後にズシリと重く響いてきたので、何回かに分けて記録しておきたい。

 

神話の終焉
今の日本の若い世代は2つのことを知っている。1つは、経済成長が幸せの基盤ではないことであり、もう一つは、現在の企業社会での労働が人間たちを幸せから遠ざけているということである。

 

今の若者の親の世代がちょうど高度経済成長期に育ち、バブル期に働き出した世代ではないか。
そうであるなら、著者のいう2つのことを理解している親の世代は少ないはず。
経済成長を求め、企業社会で生きることを当然だとしてきた世代。
親子の確執があちこちで起こっていないか?


先進国が富を独占する時代は終わり、それは大学新卒者の4分の1が非正規雇用になる時代、全体の4割近くが非正規雇用になる時代を生み出している。しかも正規雇用の職場でも、ブラック企業というしかないような働き方を強いる企業が広まっている。

 

現在は、高卒の半数が大学に進学をする時代。まずは正規雇用を目指すことになる。新卒一括採用というレースに勝ち残らなければならない。
しかも、ブラック企業が至る所に存在する。電通事件の記憶も生々しい中、一流企業とされてきた会社も中に入るとブラック企業だったということが、充分に起こり得る。
私が今の若者なら本当に悩みこんでしまいそうだ。どうすればいいのか?

 

新しい経済デザインと社会デザインを
振り返ってみると、1960年代から80年代にかけても、戦後的生き方に幸せを感じない人々は存在していた。70年代には「脱サラ」と言う言葉が流行したし、都市を捨てて農業を志す人たちや陶芸などの手仕事を目指す人が生まれてくるのも1970年代である。企業との関係を唯一の「縁」として生きることの鬱陶しさは、この時代にも認識されていた。
中略
しかし今日の様々な動きは、それだけに支えられているのではない。世界史的には先進国の凋落と言う現実がある。雇用や労働の質は劣化し、より多くの消費など不可能な人々も増加してきた。グローバリズムという言葉とともに、経済の部面では市場原理主義が蔓延している。露骨な競争が経済社会を覆い、何のために働くのかもわからなくなってきた。これまでの価値基準で生きようとしても、圧迫感に追いかけられるばかりなのが今日の状況である。それは必然的に、この社会を変えなければ、私たちはどうにもならないところにきているのではないかという思いを人々にいだかせる。

 

長い引用になったが、特に後半のグローバリズム云々は、アメリカのトランプ大統領の選出との関連性を思わせる。


数年前に大学の説明会に参加すると、どの学校もグローバルな人材を育成しますと声高に話していたことを思い出した。私らの世代は、海外留学すると日本の企業には就職出来ないと言われていたので、この変化に違和感を感じた。


グローバリズム=拡大、進化、発展とのイメージだが、間違いだった。
行き詰まり、格差、対立。これが現状か。内山先生は、どう考えているのか。

 

明らかになってきた事は、社会デザインと経済デザイン、自分たちの生き方のデザインは、一体的に構想していかなければいけないということである。

 

内山先生は、難解な内容を平易な言葉で表現される。これが最大の魅力であり、読書の味ともなっている。
次回に続く

 

半市場経済 成長だけでない「共創社会」の時代 (角川新書) 

 

 

国語教師が薦める現代文参考書ベスト3 その1

 

新・田村の現代文講義  代ゼミ方式1

評論編

田村秀行  代々木ライブラリー


現代文には、客観的な解法があるということを最初に説明した参考書として画期的だった。

あくまで本文の客観的読解と分析をすること、設問の意図をくみ取り、選択肢を見極めること、自分の意見や感想は頭から追い出すこと。
これらを知らずに、現代文は日本語だから簡単だとか、読書すれば解けるようになるとか、フィーリングで解けるとかいろいろいう人がいるが、すべて間違いである。
まず本文を読む。その後、設問を読む。この基本を理解しよう。


田村先生は、設問を先に読んでしまうと、設問作成者の意図が先に頭に入り、本文執筆者つまり作者、筆者の意図が正確に読みとれないと言う。
そのとおりだ。


この「現代文講義」がでた後、すぐに「例の方法」という参考書が出たので読んで比べてみた。こちらの本は、先に設問を読むことで、本文を読まなくても正解が導き出せるというトンデモナイことを書いてあって、驚いた。
大学に入ってからも必要な読解力を身につけることを完全に無視して、受験で点取ればよいという考えなのが残念だ。

 

田村先生の言うとおりに本文をまずしっかり読む。その時に、重要だと思う部分にペンで線を引くという作業をする。接続語をマルで囲む。目だけでなく、手で読む作業を伴う。これが必須だ。
最初はどこに線を引けばいいかわからないが、何度も繰り返し出てくるキーワードや筆者の主張、意見が書かれている部分など、大事そうだと思う部分に線を引く。これは、数をこなして慣れることが必要だ。


現代文が苦手という人はほとんど、目印を本文に付けるという作業をやっていない。後で設問を見て考えるときに、本文に目印がないと、また最初から読み直さなければいけなくなり、時間の無駄だ。線を引いた部分を中心に前後を見て、設問の解答の根拠を探す作業をする。これが入試現代文に求められる知的作業だ。

 

現代文が苦手な人は、この作業を勘だけでやっている。一回読んだ記憶の中だけで、目印なしで探すのだから、大変だ。

設問の選択肢は、この本文の根拠を言い換えてあったり、短縮してあったりしているものが正解になる。


センター試験はあと数年でなくなるが、マーク式問題は私大を中心に、無くなることはないだろうから、田村先生の説く、選択肢の見分け方をマスターしておくことは絶対必要だ。
細かいことは「現代文講義」を読んで学んで欲しい。大事なことは、田村方式を身につけると、応用が利き、どんな内容の文章であっても、ある程度の点が取れるようになると言うこと。つまり、安定した国語得点が見込めるようになる。この安心感は大きい。


今年2017年のセンター試験でも、国語の平均点が、昨年度より20点ほど低くなったと報じられた。国語が得意な上位層は影響がないが、やや不得意な人は、影響をもろに受けてこの20点ほどに泣いたのではないだろうか。特に理系の人たち。20点少々と言えば、難易度ランクで2ランクぐらい下がってしまう。出願先の変更を余儀なくされてしまう。これは気の毒だ。


これから受験を控えている方は、田村の「現代文講義」をマスターして、ゆらぎのない安定した読解力を身につけて、志望校に合格して欲しい。

 

 新・田村の現代文講義―代々木ゼミ方式 (1) 評論〔基本問題〕篇 https://www.amazon.co.jp/dp/4896803728/ref=cm_sw_r_cp_api_ggfQybCDCR072

 

 

化石採集 勝浦町 山歩き

 

 


勝浦町で再び化石の採集に挑戦しました。
お正月なのに暖かい日で、沢を登り始めると、汗をかくほどです。

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あちらこちらに先行者が石を割った形跡があります。それをおこぼれがないか一通り確認してさらに登ると、黒い泥岩の転石の中に、貝の化石が入っているのを見つけました。

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辺りをよく見回すと、一抱えほどの落石に貝の化石が密集しているものが見つかりました。堅くてハンマーでは割れません。近くに片手で持てるサイズの石を見つけてそれを割り、採集することが出来ました。

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白い部分が貝化石です

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もう少し登ると頂上ですが、時間切れで化石の路頭は確認できませんでした。

白亜紀の地層なので、1億年以上も前の貝です。しばし悠久の時間を想います。

 

登りは夢中でどんどん上がることが出来ましたが、下りはルート取りを間違え、身動きできなくなるときもあり、慎重に下りました。

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このピンがすごいグリップ


今回は、ピン付きの地下足袋を着用しました。これがグリップ絶大です。急な斜面でも安定した足取りで、体がふらつくことなく登れました。下りもルート間違いをのぞいては、滑ることなく安心して下ることが出来ました。さすが山仕事用の地下足袋です。
今までは登山靴や、トレラン用のシューズでしたが、ハードな場所ではよく滑りました。ピン付きの地下足袋の威力を体感しました。靴下は五本指ソックスを履いています。
地下足袋なんてかっこわるいかなと思っていましたが、山では実用的なものが一番と見直しました。

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