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人間は元来「論理的に考える」のは苦手である。
脳の構造そのものから逃れることはできない。
逆に「論理的に考えること」は訓練次第で身につく、と考えることもできる。
例えば、国語の勉強である。
「主人公が次のような行動をしたのはなぜか?理由を説明せよ」といった理由を尋ねる設問がある。何回も何回も「○○だから。」と語尾につけて解答し、それにマルバツをつけられていくうちに、「スジが通っている」「通っていない」を徐々に判断できるようになっていく。
「著者のいいたいことは何か?要約せよ」という設問に、多くの人は文中に書かれていることではなく、「自分が思ったこと」を答えてしまう。
中略
「国語」は非常に重要な訓練の場なのだ。
「学校教育は役に立たない」と言われがちだが、社会に出てから必要な技能の訓練方法についての知恵が、学校教育には数多く含まれている。
ちょっとした「研修」や「読書」で身につくタイプの技能ではないのだ。
従って、もし部下/新人が「論理に弱い」のであれば、それは学校教育と同じような、辛抱強い訓練が必要であることを意味する。
ざっくりと趣旨を抜き出すとこうなった。
筆者の意見には同意である。その上で考えた点をいくつか述べたい。
高校の国語の授業で行っていること
評論では、段落要旨の抜き出しをする。著者の意見や主張が書かれている部分を探し出し、抜き出す。
接続語の「つまり」の後には大事なことが書いてあるから注意する、何度も同じ言葉が出てくると、それがキーワードだから注目する。
小説では、登場人物の心情を読み取ることが大切である。
これこれの行動をした、こんな表情だ、といった本文の内容から、客観的に見て、登場人物は「孤独感を感じている」「絶望している」などの心情を考え出す作業を行う。
たとえば、夏目漱石「こころ」で、友人Kが自殺した場面がある。
主人公の私は、Kが残した遺書をその場で読み、自分のことを悪く書いていないことを確認し、そのまま遺書をその場に戻すという行動をとる。
そのときの私の心情を考える。Kが私を非難する内容を遺書に書いていないか、とにかくそれが一番気になる。確かめると、そんなことは書いていない。私はホッとする。
私には自分のせいでKが自殺したという思いがあるので、遺書に自分に都合の悪いことが書いてあると困るからである。逆にそんなことは何も書いていなかった=私はKの自殺とは無関係の証明になる。だから、遺書を元通りに現場に置いておくという行動をとる。
「こころ」を読んだ高校生は、これらのことを問いかけられて初めて気づく。そういう作業を意識的に行わないと、自分で考えて気づくことができない。
論理的に考えるようになるには、文章を書くことが一番である。小論文を書いてみることをおすすめする。
具体的には、「型で習得!中高生からの文章術」樋口裕一 ちくまプリマ-新書
第二章 小論文の書き方 の中に、「型を守ろう」という詳しい説明があるので、これを読んでその通りに実践すると書けるようになる。
中高生を対象としている本だが、大学生や社会人で、論理力を身につけたいと考える人に、特におすすめである。
第一学習社や学研といった「小論文・作文」指導に定評のあるところやリクルート等が、社会人向けの小論文添削指導を安価で提供すればよいと思うが、どうですか。
型で習得! 中高生からの文章術 ちくまプリマ-新書