bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

「ひきこもれ ひとりの時間をもつということ」吉本隆明 だいわ文庫を読んで考えた

「ひきこもれ ひとりの時間をもつということ」吉本隆明 だいわ文庫

 本文は上記から引用しました。

 

吉本隆明といえば、学生運動の思想的な柱、「共同幻想論」、よしもとばななの父などが思い浮かびます。

名前は知っていても、その著作は未読でした。

今回はタイトルに惹かれて電子書籍で購入し、一気に読み終えました。

2002年に発行された本ということで、少し時代の変化を感じる内容も見受けられます。

難解な語句もなく、語り口調で読みやすい本でした。

 

一つだけ引っかかったことは、引きこもりの原因が、親の精神状態にあるという記述でした。これに関しては、私が専門的な知見を持ち合わせていないため、その適否を判断できません。

ここでは、その疑問だけを指摘しておきます。

 

ひきこもりについては、大きな関心を持っています。その理由は二つあります。

一つは、私自身が高校生の頃からひきこもり的な傾向があり、それが社会人になっても変わらず、現在もそうであること。

二つめは、子どもの一人がひきこもり状態にあるからです。

 

自分自身の問題であり、親としての問題でもあるのです。

 

自分自身は、こんな人間だ(ひきこもり的な傾向の強い人間)と認識していて、社会生活は特には困っていません。

親としては、子どものひきこもりは、心配ごとであることは間違いありません。

 

今回の記事は、今、ひきこもり状態にある中高生や大学生、そしてその親の方々の参考になればと思い書きました。

 

 第一章 若者たちよ、ひきこもれ

世の中の職業の大部分は、ひきこもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身につけないと一人前になれない種類のものです。学者や物書き、芸術家だけではなく、職人さんや工場で働く人、設計する人もそうですし、事務作業をする人や他の人にものを教える人だってそうでしょう。

 

 

ひきこもることのマイナスイメージを否定し、むしろ、ひきこもることが必要であるとプラスにとらえている点が重要です。

私は高校で、就職の世話をしていますが、十年以上前からよく聞くのが、「コミュニケーション能力のある人」がほしいという要望です。

言葉数が少なく、何を考えているのかわかりにくい人よりも、社交的で、明るく、誰とでも話ができる人、そんな人物が社会から求められているのです。

 

たしかに、会社組織にはいろいろな年代や考えの人がいます。その中でコミュニケーションを取ることは、重要な要素でしょう。

しかし、いわゆるコミュニケーション能力の高い人は、高校生の10%もいないのではというのが私の実感です。

これは三十年以上、高校で大勢の生徒と接してきた経験から感じているものです。

さらに、コミュ力の高い生徒が必ずしも学力や人間力が高いわけでもありません。

調子がいいだけで、信用度が低いということもあります。

むしろ、地味で目立たない、控えめである生徒の方が、一対一で話してみると、しっかりした考えを持っていたり、他人への共感力が高かったりします。

コミュニケーション能力を重視する風潮は、今後も変わらないでしょうが、絶対的なものではありません。

 

 

家に一人でこもって誰とも顔を合わせずに長い時間を過ごす。まわりからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、ひとまとまりの時間」を持つことが、どんな職業にも必ず必要なのだとぼくは思います。

 

コロナで休校期間が長かったため、人と会わずに、上記のような状態に置かれた人が多いと思います。

学業や学校生活という面では不幸だったかもしれませんが、コロナによる全国一斉休校は、「分断されない、ひとまとまりの時間」をじゅうぶんに与えてくれたと考えると、意味はあったのかもしれません。

 

 

たしかに引っ込み思案で暗い人間は、まわりの人にとって鬱陶しいでしょう。でもその人の中身は、一人で過ごしている間に豊かになっているかもしれない。そしてある瞬間に、「ああ、この人はこういう人なんだ」と誰かが理解してくれるかもしれません。その人なりの他人とのつながり方というのがあるのです。

 

 

今では、ネットでのつながりもあります。ひきこもって、学校での人間関係が作れていなくても、日本や世界のどこかの人と、好きなゲームや音楽などで繋がることは簡単です。

いつか、どこかの誰かがあなたを理解してくれる、そう思うと心配することもありません。

 

ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは、「価値」という概念にぴたりとあてはまります。価値というものは、そこでしか増殖しません。

 

今回の読書でいちばん、心に響いたのがこの「価値」ということばでした。

私たちは何らかの価値を生み出すために生きているといっていいでしょう。

ところが、ひきこもっていると、何の価値も生み出していないように受け取られてしまいます。

時間や人生を無駄にしていると思われがちです。

著者は、ひきこもって考えていること、得たものに価値があり、しかも、ひきこもった状態からしか価値は増殖しないというのです。

何という価値の転動でしょう。価値のコペルニクス的転回です。

 

たとえば、ひきこもり(的)から大きな価値を生み出しているのが、米津玄師さんです。

その音楽家としての活躍はいうまでもなくすばらしく、今後は世界的に活躍することは間違いないでしょう。

天才と称される米津さんですが、ひきこもり(的)でなかったら、ここまでの才能の発揮と成功はなかったのではないでしょうか。

 

ひきこもりをマイナスではなく、プラスのものとしてとらえる考え方がたいへん参考になりました。

 

夏用マスクをいろいろ購入 お気に入りを紹介します

夏用布マスクをいろいろ購入し、試してみました。

 

不織布のマスクが手に入りやすくなり、ホッとしました。しかし、夏になって気温が上がると、不織布のマスクは蒸れてしまい、あごにあせもができてしまいました。

人前で何時間も話す仕事なので、マスクは必須、しゃべるとマスクの中が蒸れてあせもが出やすいのです。

 

ネットで評判のものを見つけては購入し、10種類以上になりました。

その中から使ってみてよかったものについて、書きます。

あくまで個人で使用しての感想ですので、客観的でない点はご容赦ください。

 

1.KING JIM クリーンルーム用手袋メーカーが作った くりかえし使えるマスク 

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おもて
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うら

安心の4層構造 

表地 吸汗速乾 UVカット機能

フィルター層 高密度ポリエステル生地で静電気防止

メッシュ層 3次元立体編み物で呼吸がラクに

裏地 肌触りがよく 顔の凸凹にフィット

原産国 日本となっています。

 

説明書のスペックが安心感を与えます。さすがKING JIM ポメラは愛用させてもらっていますが、マスクも独自の性能がありそうです。

 

さて、着用感は、蒸れもなく、肌触りもすごくよいです。ゴムの長さも適度にあり、耳が痛くなることもありませんでした。

フィルター内蔵というのも安心感があります。

 

唯一の不満は、生地が4層もあるので、つけていると生地が口の方にずれて、鼻の穴が出てしまうことがあった点です。

 

2.New Heights高機能フェイスマスク

接触冷感・吸水速乾機能を兼ね備えたプリーツ型マスク

滋賀県のスポーツメーカーが製造・販売しているマスクです。

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おもて

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うら

裏地とひもが黒色でスタイリッシュ。

一日つけていても蒸れることがなく、洗濯すると早く乾くので次の日にも使えます。

いくつか購入したマスクの中で、これがいちばん家族の評判はよかったです。

 

私も毎日、これを着用しています

唯一の不満は、使い始めはゴムがきつくて耳が痛くなったことです。何度か洗濯するうちに痛くなくなりました。

私は奥行きの長い頭なので、その分、ゴムがきつく感じるのかも知れません。

 

3.mont・bellウイックロンポケマスク ライト

立体構造で呼吸しやすい 洗ってもすぐに乾く 熱がこもりにくい ポケット付き

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おもて

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うら

フィルターを入れるポケット付き

 

やっと届いたモンベルのマスクです。一度抽選に外れ、二度目に予約でき、待ちかねていたものです。

家族分を購入し、配布しました。

昨日、外出時に初めて使ってみましたが、軽くて息もしやすく、耳も痛くならない、快適なマスクでした。

肌触りと軽さが特筆ものです。

仕事ではまだ使っていませんが、ガンガン使おうと思っています。

三四郎は迷える明治男か?あるいはサイコパスか?STRAY SHEEPのなぞを考える

明治の男はつらかったと思う。

鎌倉時代から数百年にわたって培われてきた武士道の美学と倫理、つまり禁欲と痩せ我慢があらゆる行動の指針になっているにもかかわらず、時代は確実に、金銭と欲望だけが支配する資本主義の方に進みつつあったからだ。つまり、いかにすれば、男子としての品位を汚さず、家族を養うだけの金銭を手に入れ、それでいながら、忠・孝・恩という儒教的モラルを侵犯せずに、おのれの感情に正直でいられるのか? 悩みはつきなかったにちがいない。

だが、そのつらさから、世界でも類を見ない文学が生まれた。それが漱石の文学であり、鴎外の文学である。

 

「鴎外の坂」新潮社 鹿島茂先生の書評より引用 https://allreviews.jp/review/1292

 

 

 

「三四郎」を読み終えたときのもやもや感の正体が、この文章でわかりました。

美禰子を好きなのに、素直に気持ちを表せない三四郎。禁欲と痩せ我慢、儒教的モラルにとらわれ、感情に正直でいられなかった三四郎。

学問の世界で生きて行くには、広田先生や野々宮さんのようにならなければならない。田舎の母親も東京に呼び寄せなければならない。

三四郎には「明治の男」のつらさがのしかかっていたはずです。

 

広田先生や、与次郎、野々宮さん、よし子、原口さんとは、普通に話したり、交際できたりするのに、美禰子にだけはそれができない三四郎。

 

三四郎は、サイコパス的か?というテーマが設定できるのではないかとも思います。

 

「サイコパスの主な特徴として挙げられるのが感情の一部が欠如しているという点である。特に自分以外の人間に対して、愛情であったり思いやりであったりなどといった感情が欠如しているため、非常に自己中心的な言動や行動を取ってしまう傾向にある。」

(weblio辞書 実用日本語表現辞典より引用)

 

 

美禰子とのやりとりは、一貫して、自己中心的な言動、行動を取っています。

読み進めていくうちに、美禰子が気の毒になり、三四郎にはほとんど共感できませんでした。

 

よく言われるのが、田舎から出てきた三四郎が、都会の女、美禰子に振り回されるという図式です。しかし、丁寧に読むと、美禰子が三四郎に振り回されているとしか言いようのない展開になっています。

これがもやもやポイントの大きな原因です。

 

美禰子が絵のモデルにもなるほどの美人であるのは間違いありません。それに釣り合うとしたら、三四郎は、限りなくイケメンでないといけないはずです。

あるいは、美禰子の好みにぴったり合う男であるはずです。

ところが三四郎は、美禰子が好む絵画の知識は全くなく、音楽の教養もありません。カソリックと思われる美禰子に対し、キリスト教には全く縁のない男なのです。

二人が共有できるものは何でしょうか。

広田先生を取り巻く人間関係くらいでしょうか。

あるいは、両親を早く亡くしている美禰子と父を亡くしている三四郎、つまり、親が揃っていない子同士という点でしょうか。

 

出会いからお互い惹かれ合っているのに、物語が進行しても、二人の関係は深化しません。美禰子からの愛を三四郎が拒む場面が続きます。

三四郎がようやく美禰子に向き合ったのは、最後に、結婚が決まった美禰子に借りていた金を返すときだけです。

 

好きな相手への情熱や本能的衝動、思い切った行動などは、三四郎は、まるで発揮しないのです。

 

さらにもやもや感を抱かせるのは、よし子の存在です。

美禰子と同居するよし子に、三四郎は、母親的なものを認め、安心して応対できるのです。美禰子にたびたびよし子のことを尋ねて、美禰子を刺激しています。よし子は美禰子への当て馬なのです。与次郎からも、よし子を嫁にもらえとすすめられるほどです。

三角関係までにはなり得ていませんが、奇妙な関係です。

 

ともかく、美禰子への情熱、本能の発動、愛情の表明が欠如していた三四郎が、美禰子と結婚できないのは当然の結果でした。

 

情熱や本能で動く男が小説に描かれるのは、「三四郎」が新聞連載された2年後、1910年(明治43年)に谷崎潤一郎の「刺青」が発表されるまで待たなければなりませんでした。

 

 

迷える羊は誰に出会ったのか?STRAY SHEEPのなぞはこれだった

迷える羊は誰に出会ったのか?

 

インフルエンザから回復して美禰子に会いに行く三四郎。

本文は青空文庫から引用しました。

 

朝飯後、シャツを重ねて、外套《がいとう》を着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。玄関によし子が立って、今|沓脱《くつぬぎ》へ降りようとしている。今兄の所へ行くところだと言う。美禰子はいない。三四郎はいっしょに表へ出た。

「もうすっかりいいんですか」

「ありがとう。もう直りました。――里見さんはどこへ行ったんですか」

「にいさん?」

「いいえ、美禰子さんです」

「美禰子さんは会堂《チャーチ》」

 美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。三四郎はまったく耶蘇教《やそきょう》に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。前へ立って、建物をながめた。説教の掲示を読んだ。鉄柵《てっさく》の所を行ったり来たりした。ある時は寄りかかってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。

 やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌《さんびか》というものだろうと考えた。締め切った高い窓のうちのでき事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟《えり》を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。

 かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端《たばた》の小川の縁《ふち》にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。雲が羊の形をしている。

 忽然《こつぜん》として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世《うきよ》へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。縞《しま》の吾妻《あずま》コートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いとみえて、肩をすぼめて、両手を前で重ねて、できるだけ外界との交渉を少なくしている。美禰子はこのすべてにあがらざる態度を門ぎわまで持続した。その時、往来の忙しさに、はじめて気がついたように顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。

「どうなすって」

「今お宅までちょっと出たところです」

「そう、じゃいらっしゃい」

 女はなかば歩をめぐらしかけた。相変らず低い下駄《げた》をはいている。男はわざと会堂の垣《かき》に身を寄せた。

「ここでお目にかかればそれでよい。さっきから、あなたの出て来るのを待っていた」

「おはいりになればよいのに。寒かったでしょう」

「寒かった」

「お風邪はもうよいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね」

 男は返事をしずに、外套の隠袋《かくし》から半紙に包んだものを出した。

「拝借した金です。ながながありがとう。返そう返そうと思って、ついおそくなった」

 美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。しかし手に持ったなり、しまわずにながめている。三四郎もそれをながめている。言葉が少しのあいだ切れた。やがて、美禰子が言った。

「あなた、御不自由じゃなくって」

「いいえ、このあいだからそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、どうか取ってください」

「そう。じゃいただいておきましょう」

 女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香《かおり》がぷんとする。

「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎《びん》。四丁目の夕暮。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。空には高い日が明らかにかかる。

「結婚なさるそうですね」

 美禰子は白いハンケチを袂《たもと》へ落とした。

「御存じなの」と言いながら、二重瞼《ふたえまぶた》を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉《まゆ》だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎《うわあご》へひっついてしまった

 女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。

「我はわが愆《とが》を知る。わが罪は常にわが前にあり」

 聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。

 

 

美禰子は教会に行っていました。三四郎は初めてそれを知ります。

好きだった人の、根本的な大事なものを知らなかったということです。相手への深い理解はできなかったでしょう。

三四郎は、美禰子宅に金を借りに行ったとき、美禰子を待つ応接間で、カソリックの連想をしています。美禰子にはキリスト教的なものがあったということでしょう。

 

「空に美禰子の好きな雲が出た。

 かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端《たばた》の小川の縁《ふち》にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。雲が羊の形をしている。」

 

三四郎の心情描写だととれば、三四郎は感傷的になっていることがわかります。

初めて見せる人間くさい三四郎の姿かも知れません。

 

家に来るように促し、さらに気配りする美禰子に、三四郎は、ここでよいと言って、言葉少なく、半紙で包んだ金を差し出します。

金は二人を結びつけるものではなく、二人の間を引き離すものとなってしまいました。

 

美禰子が金を受け取れば、ほんとうに縁の切れ目になってしまいます。

受け取ったとき、美禰子は、白いハンカチを取り出し、においを嗅いだあと、不意に三四郎の顔の前にハンカチを突きつけます。「ヘリオトロープ」と美禰子が静かに言います。三四郎は思わずのけぞってしまいます。

美禰子からの突然の香水の攻撃。美禰子のねこパンチです。三四郎が驚くのも当然です。

「ヘリオトロープ」の香水は、三四郎が美禰子に選んだものでした。その花言葉は、「献身的な愛」「夢中」「熱望」です。

皮肉なことに、三四郎には欠けていたものばかりです。三四郎の、美禰子への態度にこれらの要素が少しでもあれば、美禰子が他の男と結婚を急ぐことにはならなかったでしょう。

むしろ、美禰子には、三四郎に対して「献身的な愛」「夢中」「熱望」がありました。

美禰子も三四郎も、お互い、望んだ姿の相手には出会えなかったのです。

これが「STRAY SHEEP」「迷える羊」の答えです。

 

三四郎は、「結婚なさるそうですね」「御存じなの」のやりとりのあと、何も言えません。

「おめでとうございます」くらいは言いましょう。

美禰子はため息を漏らして、「我はわが愆《とが》を知る。わが罪は常にわが前にあり」とかすかにつぶやきます。

「旧約聖書」詩篇第51篇3節に出てくる。ダビデ王の「懺悔の歌」として有名。(出典https://crd.ndl.go.jp/reference

 

懺悔をするのは美禰子ではなく、三四郎の方ではなかったのか。

三四郎を諦めた後、兄の友人と結婚することを決めた美禰子。しかも、よし子が先に縁談で断った相手です。言い方は悪いが、よし子のおこぼれです。

兄が結婚するので、美禰子も急いだのかも知れません。両親は早くに他界しています。

 

せめて、いい男との結婚であってほしいと思います。

 

 

 

結婚を決意した美禰子の気持ちを覆せるか 三四郎の言葉は届くのか STRAY SHEEPのなぞを考える

原口さん宅を辞し、美禰子と二人になった三四郎。美禰子に気持ちを伝えますが、その結果はどうなったでしょうか? 

 

本文は青空文庫から引用しました。

 

夕暮れには、まだ間《ま》があった。けれども美禰子は少し用があるから帰るという。三四郎も留められたが、わざと断って、美禰子といっしょに表へ出た。日本の社会状態で、こういう機会を、随意に造ることは、三四郎にとって困難である。三四郎はなるべくこの機会を長く引き延ばして利用しようと試みた。それで比較的人の通らない、閑静な曙町を一回《ひとまわ》り散歩しようじゃないかと女をいざなってみた。ところが相手は案外にも応じなかった。一直線に生垣《いけがき》の間を横切って、大通りへ出た。三四郎は、並んで歩きながら、

「原口さんもそう言っていたが、本当にどうかしたんですか」と聞いた

「私?」と美禰子がまた言った。原口さんに答えたと同じことである。三四郎が美禰子を知ってから、美禰子はかつて、長い言葉を使ったことがない。たいていの応対は一句か二句で済ましている。しかもはなはだ簡単なものにすぎない。それでいて、三四郎の耳には一種の深い響を与える。ほとんど他の人からは、聞きうることのできない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がった。

「私?」と言った時、女は顔を半分ほど三四郎の方へ向けた。そうして二重瞼の切れ目から男を見た。その目には暈《かさ》がかかっているように思われた。いつになく感じがなまぬるくきた。頬の色も少し青い。

「色が少し悪いようです」

「そうですか」

 二人は五、六歩無言で歩いた。三四郎はどうともして、二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。しかしなんといったら破れるか、まるで分別が出なかった。小説などにある甘い言葉は使いたくない。趣味のうえからいっても、社交上若い男女《なんにょ》の習慣としても、使いたくない。三四郎は事実上不可能の事を望んでいる。望んでいるばかりではない。歩きながら工夫している。

 

 

三四郎の誘いを断る美禰子。三四郎を見る美禰子の目には「暈《かさ》がかかっているよう」に精気がありません。美禰子が原口さんの前で見せた異変の原因は、三四郎の登場でした。

さらに三四郎は、「二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくな」ります。

今まで何度もその機会はあったのに、見逃してきた三四郎ですが、今回は違います。

 

 

 

やがて、女のほうから口をききだした。

「きょう何か原口さんに御用がおありだったの」

「いいえ、用事はなかったです」

「じゃ、ただ遊びにいらしったの」

「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」

「じゃ、なんでいらしったの」

 三四郎はこの瞬間を捕えた。

「あなたに会いに行ったんです」

 三四郎はこれで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、

「お金は、あすこじゃいただけないのよ」と言った。三四郎はがっかりした。

 二人はまた無言で五、六間来た。三四郎は突然口を開いた。

「本当は金を返しに行ったのじゃありません」

 美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。

「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」

 三四郎は堪えられなくなった。急に、

「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。

「お金は……」

「金なんぞ……」

 

 

美禰子は、何度もなぜ来たのかと三四郎に問います。三四郎への愛を三四郎に拒まれた美禰子にとっては、今日の三四郎の登場は、予想外だったのでしょう。

とうとうあなたに会いたいから行ったという三四郎の言葉に、美禰子はため息をつくことしかできません。

 

結婚を決意した美禰子には、三四郎の行動と言葉は酷な出来事でした。

遅すぎるし、美禰子の反応にはお構いなしです。

 

 

 二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。それなりで、また小半町ほど来た。今度は女から話しかけた。

「原口さんの絵を御覧になって、どうお思いなすって」

 答え方がいろいろあるので、三四郎は返事をせずに少しのあいだ歩いた。

「あんまりでき方が早いのでお驚きなさりゃしなくって」

「ええ」と言ったが、じつははじめて気がついた。考えると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像をかく意志をもらしてから、まだ一か月ぐらいにしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼していたのは、それよりのちのことである。三四郎は絵の道に暗いから、あんな大きな額が、どのくらいな速度で仕上げられるものか、ほとんど想像のほかにあったが、美禰子から注意されてみると、あまり早くできすぎているように思われる。

「いつから取りかかったんです」

「本当に取りかかったのは、ついこのあいだですけれども、そのまえから少しずつ描いていただいていたんです」

「そのまえって、いつごろからですか」

「あの服装《なり》でわかるでしょう」

 三四郎は突然として、はじめて池の周囲で美禰子に会った暑い昔を思い出した。

「そら、あなた、椎《しい》の木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか」

「あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた」

「あの絵のとおりでしょう」

「ええ。あのとおりです」

 二人は顔を見合わした。もう少しで白山《はくさん》の坂の上へ出る。

 

 

 

三四郎と美禰子の出会いの場面が語られます。ここで美禰子と三四郎は振り出しに戻ってしまい、美禰子の姿は原口さんの描く絵として、絵の中に封印されることになります。

美禰子は現実の世界では、もう三四郎の手の届かないところに行ってしまうのです。

 

 向こうから車がかけて来た。黒い帽子をかぶって、金縁の眼鏡《めがね》を掛けて、遠くから見ても色|光沢《つや》のいい男が乗っている。この車が三四郎の目にはいった時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。二、三間先へ来ると、車を急にとめた。前掛けを器用にはねのけて、蹴込《けこ》みから飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い細面《ほそおもて》のりっぱな人であった。髪をきれいにすっている。それでいて、まったく男らしい。

「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」と美禰子のまん前に立った。見おろして笑っている。

「そう、ありがとう」と美禰子も笑って、男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。

「どなた」と男が聞いた。

「大学の小川さん」と美禰子が答えた。

 男は軽く帽子を取って、向こうから挨拶《あいさつ》をした。

「はやく行こう。にいさんも待っている」

 いいぐあいに三四郎は追分へ曲がるべき横町の角に立っていた。金はとうとう返さずに別れた。

 

 

りっぱな男が美禰子を迎えに来ました。そして美禰子の兄が待っていると言います。これは今から里見家で、お見合い、そして結婚話をするためです。

 

美禰子に金を借りに行ったときは美禰子の愛を拒んだ三四郎。美禰子に金を返しに行ったときは美禰子の愛を失っていた三四郎。

金と愛は等価交換できないという図式を表しているのかも知れません。

 

 

 

 

 

美禰子の異変を目にする三四郎 原口さんのアトリエで STRAY SHEEPのなぞを考える

三四郎が、よし子と一緒に野々宮さんの下宿に行ったとき、野々宮さんから、よし子の見合い話が出ました。

 

翌日、三四郎は国から届いた金を持って学校に出て、与次郎から、美禰子が絵のモデルとして毎日通っている画家の原口さんの住所を聞き出します。

 

広田先生を病気見舞いに訪れますが、先客があり、辞して原口さん宅へ向かいました。

日が経っているように感じますが、よし子の縁談を聞いた翌日の出来事です。

 

本文は青空文庫から引用しました。

 

「かけたまえ。――あれだ」と言って、かきかけた画布《カンバス》の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はただ、

「なるほど大きなものですな」と言った。原口さんは、耳にも留めないふうで、

「うん、なかなか」とひとりごとのように、髪の毛と、背景の境の所を塗りはじめた。三四郎はこの時ようやく美禰子の方を見た。すると女のかざした団扇の陰で、白い歯がかすかに光った。

 それから二、三分はまったく静かになった。部屋は暖炉《だんろ》で暖めてある。きょうは外面《そと》でも、そう寒くはない。風は死に尽した。枯れた木が音なく冬の日に包まれて立っている。三四郎は画室へ導かれた時、霞《かすみ》の中へはいったような気がした。丸テーブルに肱《ひじ》を持たして、この静かさの夜にまさる境に、はばかりなき精神《こころ》をおぼれしめた。この静かさのうちに、美禰子がいる。美禰子の影が次第にでき上がりつつある。肥《ふと》った画工の画筆《ブラッシ》だけが動く。それも目に動くだけで、耳には静かである。肥った画工も動くことがある。しかし足音はしない。

 静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。団扇をかざして立った姿そのままがすでに絵である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写しているのではない。不可思議に奥行きのある絵から、精出して、その奥行きだけを落として、普通の絵に美禰子を描き直しているのである。にもかかわらず第二の美禰子は、この静かさのうちに、次第と第一に近づいてくる。三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで双方《そうほう》がぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。原口さんの画筆《ブラッシ》はそれより先には進めない。三四郎はそこまでついて行って、気がついて、ふと美禰子を見た。美禰子は依然として動かずにいる。三四郎の頭はこの静かな空気のうちで覚えず動いていた。酔った心持ちである。すると突然原口さんが笑いだした。

「また苦しくなったようですね」

 女はなんにも言わずに、すぐ姿勢をくずして、そばに置いた安楽椅子へ落ちるようにとんと腰をおろした。その時白い歯がまた光った。そうして動く時の袖とともに三四郎を見た。その目は流星のように三四郎の眉間《みけん》を通り越していった。

 

 

本物の美禰子が第一、絵の美禰子が第二です。

そして、「三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで双方《そうほう》がぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。」とあるのですが、ここはちょっと何言ってるかわからない。

「時の流れが急に向きを変えて永久の中に注いでしまう。」とはどういうことでしょうか。

本物の美禰子に内面の異変が生じて、絵の中の美禰子と乖離してしまうという意味でしょうか。

 

原口さんが結婚に関する話題を出します。

 

「それから、どうなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思ったものか、まだあとをつけた。

どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たまえ、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会の原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね

「でも兄は近々《きんきん》結婚いたしますよ」

「おや、そうですか。するとあなたはどうなります」

「存じません」

 三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑った。原口さんだけは絵に向いている。「存じません。存じません――じゃ」と画筆《ブラッシ》を動かした。

 

 

原口さんは突然、結婚についてのエピソードを語ります。そして、結婚は考え物だ、広田先生も野々宮さんも、里見恭助も、自分も結婚していない、女が偉くなりすぎると独身が増えると言います。

三四郎もこのグループに所属しています。

美禰子は、兄の結婚を話したため、原口さんにあなたはどうなると問われ、「存じません」と答えています。

当然、美禰子のこの答えは事実ではありません。

 

 

三四郎はこの機会を利用して、丸テーブルの側を離れて、美禰子の傍へ近寄った。美禰子は椅子の背に、油気《あぶらけ》のない頭を、無造作に持たせて、疲れた人の、身繕いに心なきなげやりの姿である。あからさまに襦袢《じゅばん》の襟《えり》から咽喉首《のどくび》が出ている。椅子には脱ぎ捨てた羽織をかけた。廂髪《ひさしがみ》の上にきれいな裏が見える。

 三四郎は懐に三十円入れている。この三十円が二人の間にある、説明しにくいものを代表している。――と三四郎は信じた。返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。思いきって、今返そうとするのもこれがためである。返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、いっそう近づいて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。

 

 

美禰子が貸してくれた三十円が、唯一の紐帯になってしまっているにもかかわらず、三四郎は、美禰子が近づいてくると期待しています。

 

「里見さん」と言った。

「なに」と答えた。仰向いて下から三四郎を見た。顔をもとのごとくにおちつけている。目だけは動いた。それも三四郎の真正面で穏やかにとまった。三四郎は女を多少疲れていると判じた。

「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」と言いながら、ボタンを一つはずして、内懐《うちぶところ》へ手を入れた。

 女はまた、

「なに」と繰り返した。もとのとおり、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎はどうしようと考えた。やがて思いきった。

「このあいだの金です」

「今くだすってもしかたがないわ」

 女は下から見上げたままである。手も出さない。からだも動かさない。顔も元のところにおちつけている。男は女の返事さえよくは解《げ》しかねた。

 

中略

 

画筆はまた動きだす。背を向けながら、原口さんがこう言った。

「小川さん。里見さんの目を見てごらん」

 三四郎は言われたとおりにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いてガラス越しに庭をながめている。

「いけない。横を向いてしまっちゃ、いけない。今かきだしたばかりだのに」

「なぜよけいな事をおっしゃる」と女は正面に帰った。原口さんは弁解をする。

「ひやかしたんじゃない。小川さんに話す事があったんです」

「何を」

「これから話すから、まあ元のとおりの姿勢に復してください。そう。もう少し肱を前へ出して。それで小川さん、ぼくの描いた目が、実物の表情どおりできているかね」

 

 

 

美禰子は疲れているように見えます。三四郎が声を掛けても反応が鈍い。

美禰子の目を見るようにと言う原口さんに機嫌を悪くする美禰子。

三四郎に悟られたくないことが美禰子の内面にあるのです。

 

 

「こうやって毎日描いていると、毎日の量が積もり積もって、しばらくするうちに、描いている絵に一定の気分ができてくる。だから、たといほかの気分で戸外《そと》から帰って来ても、画室へはいって、絵に向かいさえすれば、じきに一種一定の気分になれる。つまり絵の中の気分が、こっちへ乗り移るのだね。里見さんだって同じ事だ。しぜんのままにほうっておけばいろいろの刺激でいろいろの表情になるにきまっているんだが、それがじっさい絵のうえへ大した影響を及ぼさないのは、ああいう姿勢や、こういう乱雑な鼓《つづみ》だとか、鎧《よろい》だとか、虎《とら》の皮だとかいう周囲《まわり》のものが、しぜんに一種一定の表情を引き起こすようになってきて、その習慣が次第にほかの表情を圧迫するほど強くなるから、まあたいていなら、この目つきをこのままで仕上げていけばいいんだね。それに表情といったって……」

 原口さんは突然黙った。どこかむずかしいところへきたとみえる。二足《ふたあし》ばかり立ちのいて、美禰子と絵をしきりに見比べている。

「里見さん、どうかしましたか」と聞いた。

「いいえ」

 この答は美禰子の口から出たとは思えなかった。美禰子はそれほど静かに姿勢をくずさずにいる。

「それに表情といったって」と原口さんがまた始めた。「画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ見世《みせ》を出しているところを描くんだから、見世さえ手落ちなく観察すれば、身代はおのずからわかるものと、まあ、そうしておくんだね。見世でうかがえない身代は画工の担任区域以外とあきらめべきものだよ。だから我々は肉ばかり描いている。どんな肉を描いたって、霊がこもらなければ、死肉だから、絵として通用しないだけだ。そこでこの里見さんの目もね。里見さんの心を写すつもりで描いているんじゃない。ただ目として描いている。この目が気に入ったから描いている。この目の恰好《かっこう》だの、二重瞼《ふたえまぶた》の影だの、眸《ひとみ》の深さだの、なんでもぼくに見えるところだけを残りなく描いてゆく。すると偶然の結果として、一種の表情が出てくる。もし出てこなければ、ぼくの色の出しぐあいが悪かったか、恰好の取り方がまちがっていたか、どっちかになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだからしかたがない」

 原口さんは、この時また二足ばかりあとへさがって、美禰子と絵とを見比べた。

「どうも、きょうはどうかしているね。疲れたんでしょう。疲れたら、もうよしましょう。――疲れましたか」

「いいえ」

 

 

原口さんの言う、一定の表情が今日の美禰子には出てこないのです。

なぜ、「きょうはどうかしている」と原口さんに言わせるほどの変化が美禰子に会ったのでしょうか。

それは、三四郎が登場したからです。次では、三四郎が美禰子の異変に気づきます。

 

 

三四郎はこの画家の話をはなはだおもしろく感じた。とくに話だけ聞きに来たのならばなお幾倍の興味を添えたろうにと思った。三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話のうえにもない、原口さんの絵のうえにもない。むろん向こうに立っている美禰子に集まっている。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那《せつな》に、捕虜《とりこ》にして動けなくしたようである。変らないところに、長い慰謝がある。しかるに原口さんが突然首をひねって、女にどうかしましたかと聞いた。その時三四郎は、少し恐ろしくなったくらいである。移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたからである。

 なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。色光沢《いろつや》がよくない。目尻《めじり》にたえがたいものうさが見える。三四郎はこの活人画から受ける安慰の念を失った。同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考えついた。たちまち強烈な個性的の刺激が三四郎の心をおそってきた。移り行く美をはかなむという共通性の情緒《じょうしょ》はまるで影をひそめてしまった。――自分はそれほどの影響をこの女のうえに有しておる。――三四郎はこの自覚のもとにいっさいの己を意識した。けれどもその影響が自分にとって、利益か不利益かは未決の問題である。

 その時原口さんが、とうとう筆をおいて、

「もうよそう。きょうはどうしてもだめだ」と言いだした。美禰子は持っていた団扇《うちわ》を、立ちながら床の上に落とした。椅子にかけた羽織を取って着ながら、こちらへ寄って来た。

「きょうは疲れていますね」

「私?」と羽織の裄《ゆき》をそろえて、紐《ひも》を結んだ。

「いやじつはぼくも疲れた。またあした天気のいい時にやりましょう。まあお茶でも飲んでゆっくりなさい」

 

 

疲れていますねと何度も指摘されても、「いいえ」、「私?」ととぼける美禰子。

おそらく三四郎が登場したときから、何らかのものを感じ取って、美禰子の内面は、混乱や悔恨、恨みが渦巻いていたことでしょう。

原口さんは美禰子の異状を察知し、何度も声を掛けたのです。

 

三四郎は、自分が美禰子の変化に影響を与えていることをやっと察知します。これまでも何度か気づく機会はあったのに、自覚するのが遅すぎました。

三四郎が美禰子と向き合えたときには、美禰子の愛情を失っていた。皮肉なすれ違いです。

  

美禰子は、結婚を決めてしまった。しかも、つい昨夜のことです。よし子が野々宮さんに言われた結婚話を、よし子は即、断りましたが、その夜、美禰子は、帰宅したよし子からその話を聞いたはずです。

相手が美禰子の兄の友人ということもあり、その夜のうちに里見家では結婚話が進んだことでしょう。

このあと、美禰子は相手の男と、兄と会って、結婚話が決まるはずです。

三四郎の運命が決定された夜 美禰子が結婚 STRAY SHEEPのなぞを考える

 

美禰子から金を借りた後の三四郎について見ていきます。

「精養軒の会」(広田先生の後援会のようなもの)に参加した帰り 与次郎からの話です。

 本文は青空文庫から引用しました。

「笑わないで、よく考えてみろ。おれが金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りることができたんだろう

 三四郎は笑うのをやめた。

「それで?」

「それだけでたくさんじゃないか。――君、あの女を愛しているんだろう」

 与次郎はよく知っている。三四郎はふんと言って、また高い月を見た。月のそばに白い雲が出た。

「君、あの女には、もう返したのか」

「いいや」

「いつまでも借りておいてやれ」

 

 

 

田舎に送金依頼をする三四郎。すると野々宮さんから呼び出しがあります。田舎の母は、三四郎ではなく、野々宮さんにお金を送って来ました。

 

与次郎との会話です。

 

 

ベルが鳴って、二人肩を並べて教場を出る時、与次郎が、突然聞いた。

「あの女は君にほれているのか」

 二人のあとから続々聴講生が出てくる。三四郎はやむをえず無言のまま梯子段《はしごだん》を降りて横手の玄関から、図書館わきの空地《あきち》へ出て、はじめて与次郎を顧みた。

「よくわからない」

 与次郎はしばらく三四郎を見ていた。

「そういうこともある。しかしよくわかったとして、君、あの女の夫《ハスバンド》になれるか

 三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女《かのおんな》の夫《ハスバンド》たる唯一《ゆいいつ》の資格のような気がしていた。言われてみると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。

「野々宮さんならなれる」と与次郎が言った。

「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」

 三四郎の顔は彫りつけたようにまじめであった。与次郎は一口、

「知らん」と言った。三四郎は黙っている。

「また野々宮さんの所へ行って、お談義を聞いてこい」と言いすてて、相手は池の方へ行きかけた。三四郎は愚劣の看板のごとく突っ立った。与次郎は五、六歩行ったが、また笑いながら帰ってきた。

「君、いっそ、よし子さんをもらわないか」と言いながら、三四郎を引っ張って、池の方へ連れて行った。歩きながら、あれならいい、あれならいいと、二度ほど繰り返した。そのうちまたベルが鳴った。

 

 

与次郎のせいで、美禰子から金を借りることになった三四郎。

与次郎はそれを恩に着せますが、一方で、三四郎に「夫としての資格」を持ち出し、美禰子を諦めさせようとします。与次郎は、三四郎の本気(?)を感じ取ったのでしょうか。さらに、「いっそ、よし子さんをもらわないか」とすすめます。

言うまでもなく、よし子は美禰子の当て馬、三四郎の結婚相手にふさわしい女性です。

この与次郎とのやりとりは、美禰子を失う伏線となっています。

 

 

三四郎はその夕方野々宮さんの所へ出かけたが、時間がまだすこし早すぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、シャツを買いに大きな唐物屋《とうぶつや》へはいった。小僧が奥からいろいろ持ってきたのをなでてみたり、広げてみたりして、容易に買わない。わけもなく鷹揚《おうよう》にかまえていると、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た。あらと言って挨拶をしたあとで、美禰子が、

「せんだってはありがとう」と礼を述べた。三四郎にはこのお礼の意味が明らかにわかった。美禰子から金を借りたあくる日もう一ぺん訪問して余分をすぐに返すべきところを、ひとまず見合わせた代りに、二日《ふつか》ばかり待って、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送った。

 手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分をすなおに表わしたものではあるが、むろん書きすぎている。三四郎はできるだけの言葉を層々《そうそう》と排列して感謝の意を熱烈にいたした。普通の者から見ればほとんど借金の礼状とは思われないくらいに、湯気の立ったものである。しかし感謝以外には、なんにも書いてない。それだから、自然の勢い、感謝が感謝以上になったのでもある。三四郎はこの手紙をポストに入れる時、時を移さぬ美禰子の返事を予期していた。ところがせっかくの封書はただ行ったままである。それから美禰子に会う機会はきょうまでなかった。三四郎はこの微弱なる「このあいだはありがとう」という反響に対して、はっきりした返事をする勇気も出なかった。大きなシャツを両手で目のさきへ広げてながめながら、よし子がいるからああ冷淡なんだろうかと考えた。それからこのシャツもこの女の金で買うんだなと考えた。小僧はどれになさいますと催促した。

 二人の女は笑いながらそばへ来て、いっしょにシャツを見てくれた。しまいに、よし子が「これになさい」と言った。三四郎はそれにした。今度は三四郎のほうが香水の相談を受けた。いっこうわからない。ヘリオトロープと書いてある罎《びん》を持って、いいかげんに、これはどうですと言うと、美禰子が、「それにしましょう」とすぐ決めた。三四郎は気の毒なくらいであった。

 

 

美禰子宅でのやりとりや、展覧会での言動から、美禰子は三四郎のことを見切っています。

逆に三四郎は、まだ美禰子の態度に期待をしています。相手の気持ちがわかっていないのです

この後は、三四郎が美禰子に取った態度の報いを受けることになっていきます。

 

ヘリオトロープという香水の名前を覚えておきましょう。

ヘリオトロープは、バニラに似た甘い香り、花言葉は「献身的な愛」「夢中」「熱望」

https://hananokotoba.com/heliotrope/を参照しました)

 

この後、兄に呼ばれているというよし子と連れだって、野々宮さんの下宿へ行く三四郎。

母からの金を受け取り、よし子に縁談話があることを聞きます。

野々宮さんのところから帰って下宿で運命を考えます。

 

 下宿の二階へ上って、自分の部屋へはいって、すわってみると、やっぱり風の音がする。三四郎はこういう風の音を聞くたびに、運命という字を思い出す。ごうと鳴ってくるたびにすくみたくなる。自分ながらけっして強い男とは思っていない。考えると、上京以来自分の運命はたいがい与次郎のためにこしらえられている。しかも多少の程度において、和気|靄然《あいぜん》たる翻弄《ほんろう》を受けるようにこしらえられている。与次郎は愛すべき悪戯者《いたずらもの》である。向後もこの愛すべき悪戯者のために、自分の運命を握られていそうに思う。風がしきりに吹く。たしかに与次郎以上の風である。

 

 三四郎は母から来た三十円を枕元《まくらもと》へ置いて寝た。この三十円も運命の翻弄が生んだものである。この三十円がこれからさきどんな働きをするか、まるでわからない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受け取る時に、また一煽《ひとあお》り来るにきまっている。三四郎はなるべく大きく来ればいいと思った。

 三四郎はそれなり寝ついた。運命も与次郎も手を下しようのないくらいすこやかな眠りに入った。すると半鐘の音で目がさめた。どこかで人声がする。東京の火事はこれで二へん目である。三四郎は寝巻の上へ羽織を引っかけて、窓をあけた。風はだいぶ落ちている。向こうの二階屋が風の鳴る中に、まっ黒に見える。家が黒いほど、家のうしろの空は赤かった。

 三四郎は寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。その時三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。三四郎はまた暖かい蒲団《ふとん》の中にもぐり込んだ。そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた。

 

 

故郷から送ってきた金を美禰子に返しに行く、その時に美禰子との間に何か進展があるのではと期待する三四郎。

でも、美禰子の気持ちは離れてしまっています。今さら何を、と思いますが、三四郎のひとりよがりな点が現れています。

夜中の火事の中で三四郎の運命が決定されています。当然それは、美禰子の結婚です。

 

広田先生を病気見舞いに行くと先客があり、辞して原口さん宅へ美禰子に会いに行きます。

美禰子は原口さんの絵のモデルをしているのでした。

 

美禰子の告白を拒む三四郎 破局の原因は?STRAYSHEEPのなぞを考える

美禰子に誘われて、展覧会についてきた三四郎。絵のことがわからず、美禰子と会話にならない中、決定的な出来事が起こります。

ここは「三四郎」の最大の山場ではないでしょうか。

本文は青空文庫から引用しました。

 

それでも好悪《こうお》はある。買ってもいいと思うのもある。しかし巧拙はまったくわからない。したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。

 美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合いがない。話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないところに愛嬌《あいきょう》がある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。

 長い間外国を旅行して歩いた兄妹《きょうだい》の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。

「ベニスでしょう」

 これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片《きれ》とをながめていた。すると、

「兄《あに》さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。

「兄さんとは……」

「この絵は兄さんのほうでしょう」

「だれの?」

 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。

「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」

 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色《けしき》をかいたものが幾点となくかかっている。

「違うんですか」

「一人と思っていらしったの」

「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、

「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

 

 

せめて共通の趣味でもあれば、美禰子と打ち解けることができたのに。

残念なことに三四郎は、絵がさっぱりわかりません。美禰子の言葉に、機械的に反応するだけ。おまけに、兄妹である画家の区別すら気づかないのです。

これでは美禰子はがっかりしてしまいます。教養の差、趣味の違い、関心を持つ世界の違いがあるために、二人が近づくことができないのです。

 

しかし、美禰子はそれにもかかわらず、「向こうから三四郎の横顔を熟視していた」のです。

美禰子宅で金の貸し借りをめぐっての気まずいやりとりがあり、展覧会に来るまでの道中でも会話がなく、何ら美禰子の琴線に触れてこなかった三四郎。

そんな木石のような三四郎に対し、熱い視線で見つめる美禰子。

言わずもがなですが、美禰子は三四郎に惚れているのです。

気づけよ、三四郎!

 

 

「里見さん」

 だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。

 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう挨拶《あいさつ》をしている。野々宮は三四郎に向かって、

「妙な連《つれ》と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。

 

 

 

声を掛けた原口さんのうしろに野々宮さんがいることに気づいた美禰子は、三四郎の耳元に何かささやきます。

三四郎は聞き取れませんでした。

美禰子のこの行動は、決定的な意味がありました。

もう少し先を見ましょう。

 

 

 

 

「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。

「まだ」

「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐《デナー》には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。

「せっかく来たものだから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」

 三四郎はええと言った。

「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見《ふかみ》さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」

「ありがとう」

 

 

 

原口の誘いを辞退して、三四郎と残って絵を見ると答える美禰子。

次の二人のやりとりに注目してください。

 

 

「これもベニスですね」と女が寄って来た。

「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。

「さっき何を言ったんですか」

 女は「さっき?」と聞き返した。

さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」

 女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。

「用でなければ聞かなくってもいいです」

「用じゃないのよ」

 三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただ男女《なんにょ》二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

「わかったでしょう」

 美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。

「野々宮さんを愚弄《ぐろう》したのですか」

「なんで?」

 女の語気はまったく無邪気である。三四郎は忽然《こつぜん》として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。

「あなたを愚弄したんじゃないのよ」

 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。

「それでいいです」

「なぜ悪いの?」

「だからいいです」

 女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子《ひょうし》に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。

「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。

「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足《げそく》を受け取って、出ると戸外は雨だ。

 

 

美禰子が三四郎の耳元でささやいたのは、野々宮さんに、三四郎と仲のよいところを見せて、三四郎を好きであることを知らせるものでした。

三四郎が、美禰子との関係を考えるとき、野々宮さんの存在を意識して動けないでいることをよく知っているのです。

野々宮さんに知らせる意味よりも、三四郎自身に、あなたのことが好きだとわからせるためなのです。

ところが、三四郎は、それがわからず、野々宮さんを愚弄したと言い出す始末です。

美禰子を見下ろし、「いいです」と言って、怒ってしまう。

三四郎は、あの汽車で出会った女の事を思い出しています。三四郎が愚弄されたと思って赤面した相手です。

美禰子にも愚弄されたと思い込んでしまったのでしょう。

かわいそうな美禰子は、小さい声で「ほんとうにいいの?」と確かめます。

 

「精養軒へ行きますか」

 美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。

「あの木の陰へはいりましょう」

 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

「悪くって? さっきのこと」

「いいです」

「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」

 女は瞳《ひとみ》を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟《ひっきょう》あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼《ふたえまぶた》の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、

「だから、いいです」と答えた。

 雨はだんだん濃くなった。雫《しずく》の落ちない場所はわずかしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、

「さっきのお金をお使いなさい」と言った。

「借りましょう。要《い》るだけ」と答えた。

「みんな、お使いなさい」と言った。

 

 

 

雨の中、三四郎に近寄り、気持ちを確かめようとする美禰子。

美禰子の弁解は、野々宮さんを愚弄するためではなく、三四郎のことを思ってやったことだというものです。

三四郎は、美禰子の瞳の中に、あなたのためにした事だという訴えを読み取ります。

今まで鈍感だった三四郎にしては、めずらしいことです。しかし、答えは「だから、いいです」というものでした。

美禰子の気持ちをくみ取るものではなく、拒絶するものでした。

自分の三四郎への気持ちを拒絶され、野々宮を愚弄したと誤解され、弁解しても硬い態度を突きつけられる。

美禰子は絶望的な気分になったことでしょう。

 

美禰子は、「さっきのお金をお使いなさい」「みんな、お使いなさい」と言うしかなかった。

美禰子からすれば、これは三四郎との手切れ金です。

愛を拒まれた美禰子が、三四郎に見切りをつけた瞬間だったのです。

 

なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。

私の見立ては、三四郎にとって野々宮さんは、自分の所属する世界の住人であり、先輩だからです。美禰子の言動は、自分が愚弄されたのと同じだと受け止めたのです。

美禰子をめぐって恋のライバルに位置する人ではなかったのです。

美禰子は先にも見たように、三四郎が野々宮さんを意識するあまり、美禰子に近づけないことを知っていました。野々宮の存在が三四郎の心にブレーキを掛けており、それを外す目的で、取った行動でした。

 

三四郎と美禰子では、重きを置く次元が違っていたのです。

三四郎には美禰子との恋よりも、広田先生や野々宮さんの属する学問の世界が大事であったのです。自分も将来、その世界で活躍する住人にならなければならないと思っているからです。

美禰子は、自分の情熱、本能、感情生活の方を重視していたのです。

求めているものが違うので、二人はすれ違いばかりで、結局、交わることがなかったのです。

この展覧会で、それがはっきりとした形になり、破局を迎えたということです。

 

三四郎に、美禰子の気持ちをくみ取れる度量があれば、こんな不幸なやりとりは回避できたことでしょう。

この場面は、美禰子が気の毒で、涙を禁じ得ません。

STRAY SHEEPの文字通り、当てもなくさまよう三四郎と美禰子

美禰子の家を辞し、付いて出てきた美禰子と当てもなく歩く三四郎。

 本文は青空文庫から引用しました。

 

 二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあいだ三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通の女性《にょしょう》以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義だから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。

 そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。

「どこへいらっしゃるの」

「あなたはどこへ行くんです」

 二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。

「いっしょにいらっしゃい」

 

 

 

1町は109メートル。半町は50メートルほどです。その間、無言で歩く二人。気まずいはずですが、三四郎の頭の中は、美禰子への不信感にあふれています。

わがままに育ったに違いないとか、家庭にいると、やりたい放題するだろうとか、こうして男と出歩くのも田舎ではとてもできないことだとか。

三四郎には、美禰子への反感があるとしか考えられません。

自分で勝手に気を悪くして、相手に非があると決めつける、何ともこだわりの強い性格が表れています。

イプセンなんて考えている場合ではないぞ、三四郎。

こんな性格で、ちゃんと学問ができるのかしらんと思います。

 

二人で微妙に歩を合わせながら、どこに向かっているかもわからない。

二人とも文字通り、「STRAY SHEEP」迷える羊状態です。

ようやく美禰子が、どこへ行くのかと尋ねます。笑った美禰子が、先導します。

 

 

 

 

二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、

「お願い」と言った。

「なんですか」

「これでお金を取ってちょうだい」

 三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座|預金通帳《あずかりきんかよいちょう》とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。

「三十円」と女が金高《きんだか》を言った。あたかも毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津《とよつ》まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要の金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。

 

 

「お願い」「これでお金を取ってちょうだい」と美禰子が下手に出て、三四郎に提案します。

与次郎が三四郎から借りている金額は、二十円です。与次郎が美禰子にいくら借りたいと言ったのかはわかりませんが、美禰子は十円多い額を三四郎に預けます。

 

 

すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、

「丹青会《たんせいかい》の展覧会を御覧になって」と聞いた。

「まだ見ません」

「招待券《しょうたいけん》を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」

「行ってもいいです」

「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」

「原口さんが招待券をくれたんですか」

「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」

「広田先生の所で一度会いました」

「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子を稽古なさるんですって」

「このあいだは鼓《つづみ》をならいたいと言っていました。それから――」

「それから?」

「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」

「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質《たち》である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。

 三四郎はまた隠袋《かくし》へ手を入れた。銀行の通帳《かよいちょう》と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間にはさんでおいたはずである。しかるに女が、

「お金は」と言った。見ると、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った。中から手ずれのした札をつかみ出した。女は手を出さない。

「預かっておいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑のような気がした。しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。

 

 

おそらく美禰子は、三四郎が訪問した時から丹青会の展覧会へ一緒に行こうと決めていたのでしょう。きれいな着物に着替えていたことからわかります。

ところが、三四郎は勝手に気を悪くして帰ると言い出したので、美禰子は、自分も外出するのでと言って、三四郎に付いてきました。

さらに、金を渡し、展覧会まで誘うという、美禰子のけなげな努力に三四郎は気付くべきでした。

それもわからず、「いささか迷惑」「妙な女だ」と思うのです。これでは、美禰子に対し、ひど過ぎです。

 

三四郎の訪問で、愛を確認したかった美禰子は、それが実現せず、三四郎がどうでもいいというお金を渡すことになる。

三四郎は美禰子の態度から判断したいと思うが、美禰子の思いをくみ取れずに、愛を受け入れないで、どうでもいいというお金を受け取ることになる。

二人に介在するのは愛ではなく、お金になってしまった、皮肉な場面です。

鏡の中に現れる美禰子。思いをくみ取れない三四郎。STRAY SHEEPのなぞを考える

いよいよ美禰子宅を訪問する三四郎です。

少し長くなりますが、二人の距離が縮まるのか、離れるのか、最大の山場なので、じっくり読んでいきましょう。

本文は青空文庫から引用しました。

 

翌日はさいわい教師が二人欠席して、昼からの授業が休みになった。下宿へ帰るのもめんどうだから、途中で一品《いっぴん》料理の腹をこしらえて、美禰子の家へ行った。前を通ったことはなんべんでもある。けれどもはいるのははじめてである。瓦葺《かわらぶき》の門の柱に里見恭助という標札が出ている。三四郎はここを通るたびに、里見恭助という人はどんな男だろうと思う。まだ会ったことがない。門は締まっている。潜《くぐ》りからはいると玄関までの距離は存外短かい。長方形の御影石《みかげいし》が飛び飛びに敷いてある。玄関は細いきれいな格子《こうし》でたてきってある。ベルを押す。取次ぎの下女に、「美禰子さんはお宅ですか」と言った時、三四郎は自分ながら気恥ずかしいような妙な心持ちがした。ひとの玄関で、妙齢の女の在否を尋ねたことはまだない。はなはだ尋ねにくい気がする。下女のほうは案外まじめである。しかもうやうやしい。いったん奥へはいって、また出て来て、丁寧にお辞儀をして、どうぞと言うからついて上がると応接間へ通した。重い窓掛けの掛かっている西洋室である。少し暗い。

 下女はまた、「しばらく、どうか……」と挨拶して出て行った。三四郎は静かな部屋《へや》の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい暖炉《だんろ》がある。その上が横に長い鏡になっていて前に蝋燭立《ろうそくたて》が二本ある。三四郎は左右の蝋燭立のまん中に自分の顔を写して見て、またすわった。

 すると奥の方でバイオリンの音がした。それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。三四郎は惜しい気がする。厚く張った椅子《いす》の背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれぎりでやんだ。約一分もたつうちに、三四郎はバイオリンの事を忘れた。向こうにある鏡と蝋燭立をながめている。妙に西洋のにおいがする。それからカソリックの連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時バイオリンがまた鳴った。今度は高い音《ね》と低い音が二、三度急に続いて響いた。それでぱったり消えてしまった。三四郎はまったく西洋の音楽を知らない。しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。ただ鳴らしただけである。その無作法にただ鳴らしたところが三四郎の情緒《じょうしょ》によく合った。不意に天から二、三|粒《つぶ》落ちて来た、でたらめの雹《ひょう》のようである。

 

 

 

三四郎には過剰な自意識が働いてきました。

「三四郎は自分ながら気恥ずかしいような妙な心持ちがした。ひとの玄関で、妙齢の女の在否を尋ねたことはまだない。はなはだ尋ねにくい気がする。」

 

「妙に西洋のにおいがする。それからカソリックの連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。」

宗教には無縁な三四郎。直感でカソリックの連想が働きます。後に美禰子はキリスト教の信仰を持っていることがわかります。

 

次は「三四郎」の中でも特に秀逸な場面です。漱石の筆が冴えています。

 

 

三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。下女がたてたと思った戸があいている。戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った。

「いらっしゃい」

 女の声はうしろで聞こえた。三四郎は振り向かなければならなかった。女と男はじかに顔を見合わせた。その時女は廂《ひさし》の広い髪をちょっと前に動かして礼をした。礼をするにはおよばないくらいに親しい態度であった。男のほうはかえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬふうをして、向こうへ回って、鏡を背に、三四郎の正面に腰をおろした。

「とうとういらしった」

 同じような親しい調子である。三四郎にはこの一言《いちげん》が非常にうれしく聞こえた。女は光る絹を着ている。さっきからだいぶ待たしたところをもってみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着換えたのかもしれない。それで端然とすわっている。目と口に笑《えみ》を帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである。三四郎はすぐ口を開いた。ほとんど発作《ほっさ》に近い。

 

 

どうです、鏡の中に美禰子の姿が映っているのです。まるで絵に描かれたかのように。

そして美禰子と三四郎の視線が鏡の中で交差します。

すると美禰子はにこりと笑います。美禰子がにこりと笑う時は、三四郎への思いを表明するときなのです。映画の一シーンのような、美しい描写です。

三四郎が振り向いて、じかに顔を合わせた二人。親しい態度を見せる美禰子に対し、大仰な挨拶をする三四郎。

 

「とうとういらしった」という美禰子の言葉の意味は、三四郎が自分を訪ねてくる機会がやっと来た、今までずいぶん長く待ったという意味です。

そこには金の貸し借りではなく、愛情の確認が期待されているはずです。

ところが、三四郎の反応は

「目と口に笑《えみ》を帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである。」

というものでした。

美禰子の視線が苦しく、見られることに耐えられないのです。これはひどい。

病的な反応です。

ちゃんと美禰子に正対してほしいですね。

 

「佐々木が」

「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」と言って例の白い歯を現わした。女のうしろにはさきの蝋燭立がマントルピースの左右に並んでいる。金で細工《さいく》をした妙な形の台である。これを蝋燭立と見たのは三四郎の臆断《おくだん》で、じつはなんだかわからない。この不可思議の蝋燭立のうしろに明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けにさえぎられて、十分にはいらない。そのうえ天気は曇っている。三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。

「佐々木が来ました」

「なんと言っていらっしゃいました」

「ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました」

「そうでしょう。――それでいらしったの」とわざわざ聞いた。

「ええ」と言って少し躊躇《ちゅうちょ》した。あとから「まあ、そうです」と答えた。女はまったく歯を隠した。静かに席を立って、窓の所へ行って、外面《そと》をながめだした。

「曇りましたね。寒いでしょう、戸外《そと》は」

「いいえ、存外暖かい。風はまるでありません」

「そう」と言いながら席へ帰って来た。

 

 

なんともぎこちない三四郎の受け答えです。大人と子どもの会話みたいに感じます。

美禰子が「それでいらしったの」とわざわざ確認して、そうだと答える三四郎の言葉を聞くと、「女はまったく歯を隠した」。つまり、美禰子から笑顔が消えてしまいます。

鈍感にもほどがあるぞ、三四郎!

 

好きな相手の心の機微が理解できない三四郎。これでは恋愛が成立するはずがありません。

永遠に交わることのない二本の線。

さっきまでは美禰子が待ち受け、歩み寄ろうとしていたのに。

 

 

「じつは佐々木が金を……」と三四郎から言いだした。

「わかってるの」と中途でとめた。三四郎も黙った。すると

「どうしておなくしになったの」と聞いた。

「馬券を買ったのです」

 女は「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔は驚いていない。かえって笑っている。すこしたって、「悪いかたね」とつけ加えた。三四郎は答えずにいた。

「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」

 

 

 

三四郎の言葉を途中で遮る美禰子。

痛烈な皮肉を三四郎に投げかけます。

「索引のついている人の心さえあててみようとなさらない」とは、美禰子が三四郎のことを好きであり、これまでの美禰子の言動も三四郎への思いを素直に表明したものであったのに、三四郎はそれを確かめようとしなかった、という意味です。

この言葉を聞いてピンとこないようでは、ダメでしょう。ところが三四郎は馬券の方に反応してしまいます。そこじゃないだろう!三四郎。

 

「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」

「あら。だれが買ったの」

「佐々木が買ったのです」

 女は急に笑いだした。三四郎もおかしくなった。

「じゃ、あなたがお金がお入用《いりよう》じゃなかったのね。ばかばかしい」

「いることはぼくがいるのです」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」

「だってそれじゃおかしいわね」

「だから借りなくってもいいんです」

「なぜ。おいやなの?」

「いやじゃないが、お兄《あに》いさんに黙って、あなたから借りちゃ、好くないからです」

「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」

「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家《うち》へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」

「御迷惑なら、しいて……」

 美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。けれども、もうしかたがない。蝋燭立を見てすましている。三四郎は自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。女も遠ざかったぎり近づいて来ない。しばらくするとまた立ち上がった。窓から戸外をすかして見て、

「降りそうもありませんね」と言う。三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」と答えた。

「降らなければ、私ちょっと出て来《き》ようかしら」と窓の所で立ったまま言う。三四郎は帰ってくれという意味に解釈した。光る絹を着換えたのも自分のためではなかった。

 

 

「じゃ、あなたがお金がお入用《いりよう》じゃなかったのね。ばかばかしい」

と美禰子が言っていることから、与次郎は金を借りる話をしたときに、うそをついていることがわかります。おそらく与次郎は、美禰子には、三四郎に金が必要だという風に言って、三四郎をよこすといったのでしょう。

そして三四郎には、美禰子さんがお前をよこすように言っていると告げています

美禰子も三四郎も与次郎に騙されたことになります。

些細なことのように見えますが、与次郎のうそが二人の食い違いのきっかけになったのは間違いありません。

 

「だから借りなくってもいいんです」と答える三四郎。

何のために今、美禰子の前にいるのか。三四郎は、それをわきまえずに妙なプライドで美禰子を失望させます。

「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家《うち》へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」

美禰子に対してマウントを取るかのような三四郎のこの発言。

「御迷惑なら、しいて……」美禰子がかえって気を使っています。

そして、「美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。」あたりまえでしょう。

 

美禰子にすれば、三四郎が金に困っているから心配して用意をしていた。ところが、借りなくても全然平気であるように言い出す三四郎。美禰子が失望しても当然です。いったいこの人は何を考えているのだろうかと不信の念を抱いても不思議ではありません。

二人のすれ違いは、お手上げ状態です。

 

「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関まで送って来た。沓脱《くつぬぎ》へ降りて、靴《くつ》をはいていると、上から美禰子が、

「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」と言った。三四郎は靴の紐《ひも》を結びながら、「ええ、どうでも」と答えた。女はいつのまにか、和土《たたき》の上へ下りた。下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女があわてながら、送りに出て来た。

 

 

 

そんなひどい態度の三四郎に対し、美禰子はまだ歩み寄ろうとします。

「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」

これに三四郎は、「ええ、どうでも」と答えます。ぶっきらぼうか!三四郎!

美禰子は、

下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。

 

美禰子は自分が悪かったのではないかと気にして、尋ねます。距離を縮めてくる美禰子、なんとも可愛げのある振る舞いではないでしょうか。

ところが、三四郎は、自分が愚弄されているとしか受け止められないのです。

三四郎の、自己中心的な姿勢がひどいですね。

この後の二人は、どうなったのでしょうか。続きは次回で。