bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

コメディあるいは…

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中央芝生で

 

 中央芝生の縁で寝転んでいた常二は、時計台の上に広がる青空と雲の群れを眺めていた。

二回生に進級して、近づくゴールデンウィークをどんなアルバイトをしてしのごうかと思案をしているのである。

故郷の母が営む商売が不調で、毎月の仕送りが送れなくなったとの連絡を数日前、母からの電話で聞いたところである。

 

 もともと母子家庭で、裕福でない上に、一浪して受験した国立大学がまさかの不合格になり、今の私立大学にやっと滑り込めたのだ。

進学を諦めようとした常二を母が説得し、入学したものの、関西の大学の中では、学生が派手に遊ぶと評判の学校だったため、常二は大学にあまりなじめずに通っていた。

 

 常二は音楽と文学が好きだった。入学して何人かの友人はできたが、遊び歩くこともせず、下宿や時計台の図書館に籠もって本を読むか、好きな音楽を聴くかの地味な生活を送っている。

 

六甲連山の方向に雲が流れてゆく。緑が強い山を背景にして時計台の白色が浮かび上がる。

心地よい風が顔を吹き抜ける。眠りに落ちそうになったとき、常二のすぐそばに二人の女子学生が腰を下ろした。

「ちょっと近すぎるのでは」いぶかしく思って、目を細めに開けて女二人連れを盗み見した。

長い髪の方は、色の薄いデニムに、長袖の白シャツ、紺色のトートバッグ。ショートの方は、黒のワイドパンツに胸元が大きく開いたロングTシャツ。二人ともしゃれて見えた。私学なので、付属の中高から上がってくる学生は裕福でおしゃれな学生が多かった。

見ていないふりで、こっそりと二人の女性を見ていると、何かのライブに行く相談をしているようだ。時折、常二の知っている神戸のライブハウスの名前が聞き取れた。

 

「美人だから彼とでも聞きに行くんだろうな」ぼんやり考えていると、長い髪の方が空けた飲み物が派手に吹き出して、常二の顔面に降りかかった。

「うわっ、ごめんなさい」あわててバッグからハンカチを取り出した女は、顔を押さえている常二の手を払って常二の顔面にハンカチを当てて拭きだした。

「いやっ、大丈夫です」と断ると、

「ごめんなさい、ほんと。こんなに飛び散るなんて」すまなそうに眉尻を下げて謝る。

こんなに無防備な女子の顔を見たことがないと思って、常二はあらためて女の顔を見た。

「いいですよ、服も濡れてないから」常二が言うと、

少し安心した様子で、「おどろいたでしょう」と上目で笑う。

つられて常二も笑ったが、少し引きつって見えたかも知れない。きれいな女をこっそり見ようという下心に、文字通り冷や水をかけられた格好である。

 

「文学部?」

「そう」

「何回生?」

「二回生」

「じゃあおんなじだ」ショートの女と顔を見合わせてほほえむ。

こんな美人と話せただけでも儲けものだと思いながら、立ち上がると、長い髪が、お詫びにこれどうぞと言って手を差し出したので、常二もつられて右手を出すと、アメが二個載せられていた。

「アメちゃん、大阪のおばちゃんやん」常二がつぶやくと、

「うちの気持ちやから、食べてね」と言った。

 

授業で再会

 

 常二は、珍しく一限の授業に間に合って、大講義室のいちばん後ろで入り口のそばの席に座り、ノートを開く。

 

美学概論の先生は、小説の一節を読み上げた。

「山崎は山城の国乙訓郡にあって水無瀬の宮跡は摂津の国三島郡にある。されば大阪の方からゆくと新京阪の大山崎でおりて逆に引きかえしてそのおみやのあとへつくまでのあいだにくにざかいをこすことになる。わたしはやまざきというところは省線の駅の附近をなにかのおりにぶらついたことがあるだけでこのさいごくかいどうを西へあるいてみるのは始めてなのである。」

「さあ、この小説の題名がわかる人はいますか?」と言って、数百名の学生たちに視線を向けた。誰も手を挙げなかった。

常二は以前に読んだ、谷崎潤一郎の「蘆刈」だとすぐに気づいたが、手を挙げない。

 

「省線というのは、」先生の話に身を乗り出したとき、後ろのドアが勢いよく開いて、一人の女子学生が入ってきた。常二の横が空いているのを目にすると、「すみません」といいながら下げた顔にかかる長い黒髪を掻き上げた。

二重のはっきりした目と白い歯で、中央芝生で出会った女だとすぐにわかった。

女は、常二が席を立って、跳ね上げ式の座面を立てるのを待っている。そうしないと奥の席に入れないのだ。

 

「あれ、あの時の」女は常二の顔を見て、大きく目を見開いた。

「アメちゃんくれたひとやね」常二が言うと、

「あの時はほんとうにごめんなさい」と申し訳なさそうに言う。

「ちゃんと食べてくれた」

「ああ、食べました」

「そう、ありがとう」と言って、常二の目を見つめる。

なんてかわいい人なんだと改めて常二は思いながら、やや緊張した。

 

常二の前をすり抜け、すぐ隣に鞄を置く。上等の革のバッグだ。黒のワンピースも長い黒髪と合っていて、大人びた感じを与える。

「これ取ってたの」と女が聞くので、

「出るのは今日が初めて」と常二は女にささやいた。

常二は前を向き、先生の話に注意を向けようとした。しかし、横に女が座っているのが気になって、話がさっぱり頭に入ってこない。

 

十分ほど、そんな状態が続いていると、女が自分のノートの端に「お名前教えて」と書いて常二に見せた。

なんでと内心思いながら、「賀集常二」(かしゅうつねじ)と名前をシャープペンで書くと、女も「阪上美彌」(さかうえみや)ときれいな字で書いて見せた。

 

講義が終わると、次の時間は空いてるかと聞く美彌に、出席が厳しい授業が入っていると答えると、「じゃあ、またね」と言って手を振って講義室から出て行った。

その後ろ姿を見送りながら、後ろ姿もきれいな人だなと思った。

 

 

アルバイト先で

 

 店長に頼んでアルバイトに雇ってもらい、手伝いを始めた常二は、週末の金、土曜日の二日間、元町のライブハウスで働いた。

接客にも慣れてきたが、仕事を終えるのが十一時過ぎになり、それから電車で四十分かけて下宿まで帰ると零時を回ることになる。帰宅すると、そのまま寝てしまうことが多かった。

金曜の夜は満席になり、注文をさばくだけでも忙しかった。

店長は厨房にいて、ベテランの男女の店員が一人ずついるのだが、常二と三人でも廻っていないくらいだった。

 

店のドアが開いて三人の若い女性客が入ってきた。

テーブルの片付けをしながら、いらっしゃいませと言ってその客を見ると、一人の女性客と目が合った。

 

「賀集君?」名前をすぐに呼ばれたので、

思わず、「はいっ」と返事を返した。

顔を見ると、大学の美術概論の授業で再会した女子学生だった。

「ここで働いてるの?」と笑顔で常二に近づいてくる。

後ろから連れの二人もついてきた。

「うん」と言って、「お久しぶりです」とあいさつした。

 

阪上美彌、たしかそう言っていたなと思い出したが、つい間違って、

「阪下さん」と言ってしまった。

「阪上でしょ、ひどい、間違えて」機嫌を損ねた顔で常二を見る。

「はいはい、よくあるお約束でしょ」連れの一人が笑いながら、割って入る。

「そう、ボケでしょ、美彌、そんなに怒らないの」もう一人もなだめる。

「ひどくない?」二人に同意を求める美彌に、先に口を開いた方の女が

「いいじゃない、美彌、こんな素敵な人、どこで知り合ったの?紹介しなさいよ」と言ってごまかしてくれた。

「文学部の賀集君。同じ二回生」美彌が言うと、

「社学の佐知です」「商学部の美和です」と二人は名のった。

「よろしくね」と笑顔で手を振る二人に、常二は精一杯の笑顔で答えた。

 

空いた席に三人を案内して、飲み物の注文を取り、カウンターに戻った。

この夜は、ジャズのグループが何組か出演することになっていた。飲み物を美彌の席に運んだとき、

美彌はその中の一グループに知り合いがいるので見に来たと説明した。

食事や追加の飲み物を運んでいくたびに、佐知や美和から、

「どこで知り合ったの?」とか「美彌のどこが好き?」とか、酔いに任せて話しかけてくる。冷やかされて困惑する。

美彌はそのたび、「ちょっと」と連れに注意したり、「ごめんね」と常二にわびたりした。

 

ライブも終わり、客の大半が店を出ても三人は残っていた。

「今夜はご来店ありがとうございました」と常二があいさつすると、

美彌は、「いつお店に入ってるの?」と聞いてきた。

「だいたい金曜と土曜の夜」常二が答えると、

美彌は「また来るわ」と言ったあと、「月曜の3限、空いてる?」と聞くので、「うん、空いてる」と答えると、「じゃあ、学食のカフェで待ってるわ、来てくれるでしょ」と言った。

「いいよ、月の3限ね」常二が答えると、「名前を間違えたお礼をさせてあげる」と言って「バイバイ」と手を振った。

常二はわざと「はいはい」とゆっくり言って、美彌を見送った。連れの二人は、そのやりとりを見て笑い声を上げた。

 

次の月曜3限

 

 常二は2限の講義の後、友人と別れて学生会館にあるカフェに向かった。

何組かのグループがテーブルを占めていて、満席かと思ったが、奥の二人掛けの席を探すと、手を振る美彌を見つけた。

美彌は、前会ったときと違って、濃い化粧をしていた。リップが赤く照っている。服も他の学生が着ていないような上品なものだった。

「待った?」と常二が聞くと、

「今来たところよ」と白い歯を見せた。

「今日は一段ときれいだね」と常二は思いきって言ってみた。言ったあと、胸鳴りが高まった。

「本当?ありがとう」美彌はうれしそうに笑顔で常二を見る。

 

常二はカフェオレを二つ運んできて、美彌と一緒に飲んだ。

カップを置きながら美彌は、

「常二君て、彼女いるの?」といきなり聞いてきた。

「いない」即答した。

「そう」しばらく間をおいて、

「ねえ、いやじゃなかったら」と言って美彌は言葉を切った。

「いやじゃなかったら?」常二が聞き返すと、

「あたしとつきあってほしい」真顔でさらりと言う。

 

常二はカフェオレを吹き出しそうになったが、カップを置いて、「いいよ」と答えた。

常二は言ったあと、これは何か悪い冗談ではないのかと思った。

どこかから誰かが常二の表情をカメラで録画でもしているのではないか。

しかし、今までの美彌の印象では、そんなつまらないことをするとは思えない。

 

「俺の、どこがいいの?」なぜ、自分を気に入っているのか、それが知りたい。

「あの時から」美彌はそう答えた。

「あの時って、中央芝生で?」

「そう、中央芝生で。あの時、あなたにジュースかけちゃったでしょう」

「よく覚えている」常二が答えると、

「あの時、一目で気に入ったの」と美彌は言った。

「イケメンだったから?」冗談で言ってみた。

「うん、顔も好きだし、雰囲気が良かったの」笑いながら美彌が答えた。

「照れるやん」常二が茶化すと、美彌は、

「私のことどう思った?」と逆に尋ねた。

常二は、正直に言おうと思い、

「きれいで、やさしそうな人だなって思った」と答えた。

「タイプ?」「そう、めっちゃタイプ」常二が即答すると、美彌はうれしそうに、

「うふっ」と笑った。

「話しやすそうに思ったの」

「何でも聞くよ」

「本当?」

美彌の大きな二重の目がさらに大きくなった。

「何が好き?」何でも知りたいからと美彌は言い足した。

「本と音楽かな」と常二は答えた。

「私も本が好き。音楽はどんなのが好き?」

「洋楽、ロックが好き。美彌は?」と言ってから、常二は、

「美彌って呼んでいいかな」と尋ねた。

「もう一回言ってみて」美彌はうれしそうに言った。

「美彌」常二がすかさず言うと、

「うふっ」と満足そうに笑う。

「にやけてますけど」常二が言うと、

「もう一回お願い」おねがーいと語尾を伸ばした。

「あほらし」常二があきれると、

「大事にしてね」と返された。

 

 その日から毎日、常二は授業の空き時間に美彌と会って話をするようになった。

美彌はよく話をする人で、常二はいつも聞き役に回った。

明るく、楽しい話ばかりなので、美彌と会うことがうれしかった。

しかし、常二は自分の家のことを聞かれたらどうしようかと思った。

 

美彌は、ライブハウスに一緒に来ていた佐知や美和を連れてくることもあった。

佐知は、

「この子、最近、のろけばかり話すのよ」と常二に知らせた。

「そんなに私、のろけてる?」恥ずかしそうに顔を赤らめ佐知に聞く美禰を見て、

「美彌の機嫌がよかったら、俺はうれしいよ」とフォローしておいた。

「はい、またのろけ」佐知が笑った。

 

一緒にいる姿を常二の友人にも見られて、常二は仲のよい柴崎から、

「お前、いつの間にあんな美人つかまえたんや?」と問い詰められた。

「もう、行くとこまでいったか?」

「そんなんとちがう。美禰とは友達」常二がいくら言っても信用しなかった。

「美彌さんの友達を紹介してもらいたいわ。頼んどいてくれ」柴崎は常二にこう言って、顔の前で手を合わせた。

 

 佐知や美和から、常二と出会ってから美彌が楽しそうにしていると聞き、うれしくなった。

自分みたいな男でも、人を幸せな気分にさせるのかと思うと、なんとなく元気が出る。

常二の実家は未だ苦しく、仕送りも途絶えたままだった。

とりあえず後期の授業料をなんとかすることが常二にとって大きな課題だ。

もっと美禰と楽しく過ごしたいのだが、アルバイトも増やさなくてはいけない。

就職が決まった先輩に家庭教師のアルバイトを譲ってもらうことになったのはありがたかった。

 

中央芝生でランチ

 

 時計台の前で階段に腰掛けていると、美彌が大きなトートバッグをもってやってきた。

今日は芝生で一緒に昼食を食べることになっていた。

 

中央芝生は、サークルの集まりや、寝転がるカップルや一人で本を読む人や、フリスビー、バドミントンをするグループなどで賑わっていた。

空いているスペースを見つけ、芝生の上に美彌が持ってきたシートを敷いて並んで座った。

トートからバスケットを取り出し、開くとサンドイッチがたくさん、きれいに詰められていた。

 

「さあ、どうぞ」美彌の笑顔がこぼれる。

「すごいごちそう、たいへんだったでしょ」常二が言うと、

「早起きして六時から作ったの」と言いながら、おしぼりを常二に渡す。

「ありがとう、こんなにたくさん」

「がんばったけど、味見てみて」と言って、一切れ差し出した。

「うん、おいしい」

「本当?うれしいな」美彌は常二の目を見てほほえんだ。

 

半分ほど食べ終えた頃、柴崎が常二を見つけて声をかけてきた。

「常さん、紹介してよ」柴崎が二人の前に立つと、背の高さが一段と感じられる。

柴崎は高校時代、アメリカンフットボールをやっていて、身長は百九十センチメートル近くある。

見上げる感じになって、大きさに驚く美彌に、

「同じゼミの柴崎君。でかいでしょう、こちらが阪上美彌さん」と常二が言うと、柴崎は、

「やっとですよ。今まで俺らの間でこいつが美人をつれてるとうわさになっていて、誰も会ったことなかったから」

「柴崎です、よろしく」そういって尖ったあごに特徴のある柴崎は頭を下げた。

「こちらこそよろしくね、よかったら食べていって」そう言って美彌は柴崎にサンドイッチを差し出す。

「ええ、いいの?むちゃうまそう」柴崎は一口で食べてしまった。

「うまいわー」そう言うと、「こんなうまいものつくってもらえるお前がうらやましいわ」と言いながら常二に目で合図する。

「なんや、目にゴミはいったんか」常二が言うと、

「ほら、あれや、忘れたんかあのはなし」柴崎が言うので、常二はやっと、美彌に友達を紹介してもらいたいと言っていた話を思い出した。

「美彌、柴崎に合いそうないい彼女、いないかな。誰か紹介してあげて。見た目はごついけど、いい奴なんや」常二が聞くと、美彌は、柴崎に

「どんな人がタイプなの?」と聞く。

「かわいくて、小柄な人」柴崎の答えに、常二は、

「背の低い女子が好みやねん、こいつ。自分はでかいのに」と美彌に説明する。

「凸凹カップル?」美禰はまじめに言うのだが、常二は思わず吹き出した。

「頼みますよ」と言って去る柴崎を二人で見送る。

 

「いいやつなんやけど、見た目がごついから損してる」と常二が言う。

「阪急電車で、競馬の開催日に、柴崎が車内で煙草を吸ってる男に出会って」

「それで」美彌は、身を乗り出した。

「柴崎がじっとその男をにらんでいたら、男が気づいて、あわてて煙草を口から落として、次の駅で降りて逃げていったらしい」

「本当?」美彌は笑いながら常二の膝をたたいた。

「根はいい人なんや」

 

 食べ終えたあと、二人で芝生に寝転がって空を見た。

あざやかな青色に晴れた空は、キャンパスが六甲山麓の東端の丘陵地にあるせいか、街で見るよりも近く感じた。

白い時計台が、青空と流れる白い雲と絶妙に釣り合っていて、美しい。

「あたし、あなたに会えてよかった」

常二の横でつぶやいた美彌の横顔は、常二には一瞬、寂しそうに思えた。

 

 美彌は時計台の図書館でも常二のレポート書きにつきあってくれた。閉館時間まで、参考文献を読みあさり、レポート用紙に写す作業をする常二のそばで、自分の専門の勉強をしながら常二が終わるのを待っている。

 常二が元町のライブハウスのアルバイトに入っている夜も、美彌は一人で店に来て、早上がりの常二を待っている。九時過ぎに仕事を終えると、美禰と連れだって元町の山手にある路地裏の小さな店に、ご飯を食べに行った。

 そして阪急電車の各駅停車で、夙川まで一緒に乗って帰り、降りる美彌を電車の窓から見送る。美彌は大股でホームを歩きながら大きく手を振る。電車が美彌を追い越していく。美彌は常二にずっと手を振り続ける。

 

発作

 

 その日も美禰の授業の終わりを待って一緒に川沿いの道を駅まで歩いた。

駅の近くにクラシック専門の小さなカフェがある。いつもと同じように、二人でお茶を飲み、流れるクラシックの曲を美禰が解説してくれる。

奥のテーブルで同じ大学のサークルの集まりがいる。突然、大きな声で高い笑い声が起こった。

その声が聞こえた直後、美禰の顔面が蒼白になり、目がうつろになって、肩で激しく呼吸しだした。

「どうした?具合悪いの?」常二が心配して顔をのぞき込むと、美禰はふりしぼるように「出ましょう」と言った。

たっていられない美彌を両脇から抱えて、会計を済ませて店を出た。途端に美禰は道に座り込んだ。顔を両手で覆って、肩で激しく息をする。

動転してしまった常二は、美禰の背中をさするばかりで、どうしたらいいのかわからない。

「大丈夫か?救急車呼ぼうか」

血の気の失せた顔で肩を振るわす美禰。激しい息づかいが止まらない。

駅に向かうタクシーが丁度近づいてきたので、常二は思わず手を挙げて、車を停めた。

「乗れる?」美禰を支えて右のドアから乗せる。左ドアにまわり、美禰の頭を膝の上に載せて、運転手に急いで苦楽園に向かうように頼んだ。

大学前まで引き返して、キャンパスの中の道を通り、左折する。対抗できないほどの狭い道を通って、長い坂道に出る。そこをくだり、交差点を直進して坂道を登る。そこまで細かく運転手に道順を教えて、とにかく美彌の家まで連れて行こうと考えた。

常二は美禰の家を知らなかった。苦楽園のどこかにあるはず。近くまで連れて帰れば、なんとかなるのではと思い、祈るような気持ちでタクシーの進む道を見つめた。

美禰は苦しそうな息づかいは変わらず、両目からは涙が流れている。

「しっかり、大丈夫だから」

「もうすぐ家だよ」

「ゆっくり息を吐こう」

おそらく発作を起こして過呼吸になっている。美禰を救ってほしい。神様でも何でもかまわない。美禰を、救って。

タクシーが苦楽園の駅前に来て、常二は美禰の家に電話だと気づいた。

何度かの呼び出し音のあと、美禰の母親が出た。あわてて事情を説明し、家の住所を聞いた。すぐにタクシーに向かってもらった。

苦楽園の駅から山に向かってかなり坂道を登った。何度もカーブをまわり、着いた家はびっくりするぐらい大きな門構えの邸宅だった。付近も豪邸が並ぶ一角だ。

タクシーが門の前に着くと、中から若い女性が出てきて、常二にあいさつをして、「美彌さん、もう大丈夫ですよ」と言って、美禰を車から降ろし、家の中に連れて行った。すぐに引き返してくると、その女性は、運転手に万札を渡し、「これでお送りしてください。」と言った。

常二はただ茫然として、運転手に「苦楽園の駅までお願いします」と言った。

 

 それから三日経つが、美彌から何の連絡もなく、常二の電話にも出なかった。大学でも美彌の姿はなかった。

その間、常二は下宿で、あの日のことを思い出しながら、考えていた。

何か美彌の気に障ることを言わなかったか?会ったときにちゃんと美彌のことをかわいいと褒めたか?

美彌が嫌がる振る舞いをしなかったか?

答えはすべてノーだ。特に変わったことはない。

では、何が悪かったのか。

何度も反芻した。仕舞いには、手の中の水がすべてこぼれ落ちるように、美彌が常二の目の前から消えていくのではないかという妄想に苦しめられた。

あのカフェで、大きな笑い声が起こったとき、美禰は急に具合が悪くなった。そのことが引き金であるように常二には思えた。

しかし、美彌はなぜ、電話にも出ないし、自分からも連絡してこないのか。電話もできないほど重い病気なのだろうか。

 明日には美彌の家に直接電話してみよう、そう決めた金曜の夜、アルバイト先の店に、美和が尋ねてきた。

美和の深刻な顔を見た瞬間、常二は美彌のことでやはり重大なことが起こっていると察した。

今夜は客が少なかったので、店長に頼んで店の席で美和と話をした。

美和は、席に着くとまず、常二に美彌を助けてくれてありがとうと言った。

そして、美彌からと言って手紙を差し出した。

「読んで」と言われて、常二はきれいな模様の便せんを開いた。常二は緊張した。

美彌の丁寧な字が並んでいる。長い手紙だった。読み終えると、美和は

「あの子はあなたが自分のことを嫌いになると思い込んでるの」

「バカでしょう」美和は言った。

「発作なの。今までに何度か起こしている」

「原因は、その手紙に書いてあることが大きいと思うの」

美和はそう言って、

「今は体調は戻ってるわ」と告げた。

美和は普段と違って笑顔を見せない。

「そう、よかった」常二が言うと、

「それがよくないの」

「心の方が具合悪いのよ」と美和は言う。

「あなたがこれで美彌から離れてしまうと思って、泣いてばっかり」

そういう美和は常二の顔を見て、

「どうなの」と尋ねる。

「美彌と別れる気?」

「えっ、何で?」

「別れるわけない」

「本当?」

「本当」

「絶対?」「ぜったい」常二は即答した。

「持病があって、発作を起こして、それで別れるなんて事は絶対ない」

「嘘だったら、大阪湾に沈むわよ」

「こんな時に冗談は止めて」

「阪上家の力ならあなた一人くらい消せるのよ」

「だからやめて」

「本当なの?そう、よかった」ホッとした表情を見せて初めて美和は笑った。

「あなたがどんな返事をするか心配で夕べは寝られなかったわ」

 

 美和はそのあと、軽い食事をしながら、常二に美彌と会う段取りを話した。

月曜の昼に、美和が付いて美彌を連れて行くから、学食のカフェで待っているようにと言うことだった。

 

美和に、「ありがとう、いろいろ心配してもらって」と言うと美和は、

「あの子とはずっと友達だからね」と答えた。

店を出る間際、美和は、

「美彌を泣かせたら、沈めるから」と言った。

「やめろ」常二が言うと、バイバイと笑顔で手を振って帰って行った。

 

月曜の昼、カフェで

 

 月曜の昼に、学食に行ってカフェを覗いた。美彌と美和はまだ来ていなかったので、店の奥の方で、静かに話ができそうな席を選び、二人が来るのを待った。

待っている間、いろいろな思いがわき起こったが、とにかく美彌の顔を見ることが第一だと思い直した。

 

 美和が常二を見つけて、笑顔で手を振った。後ろ手で、美彌の右手をつないで、美彌を引っ張るようにして席にやってきた。

常二の向かいに美和と並んで座った美彌は、長い黒髪が顔を覆って、表情がわからない。

「待ってたよ、美彌」と常二が声をかけると、うつむいていた美彌は、顔を上げ、右手で髪を掻き上げて、二重の大きな目で常二を見つめた。常二が瞳を見返すと、美彌の瞳の表面に涙の膜ができるのが見えた。こぼれそうなところで耐えている。

「ごめんね、心配かけて」そう言うと、ハンカチを取り出して目元をぬぐった。

美和は横で心配そうに美彌の顔を見まもっている。

 

「手紙読んだよ。いろいろたいへんだったんだね。でも、これからのことが大事なんじゃないのかな。俺たちの。話したくなったらいつでも聞くから。少しずつ美彌のことをわかっていくから。今まで通り、仲良くやっていこう。それでいいかな」

常二はことばを慎重に選びながら、ゆっくりと語りかけた。

美彌の大きな目から涙がこぼれ落ちた。

ハンカチを当てずに、常二の目をじっと見つめる。

 

「おこがましいけど、俺を信じてほしい」

「さあ、美彌、常二さんもこう言ってるから、泣かないで」美和が横からハンカチを差し出す。

「ずっと泣いてるでしょ、もう、泣くのは止めて。あとは二人で水入らずで話してね。大丈夫でしょう、美彌」

美和はそう言って、席を外そうと立ち上がった。常二の顔を見て、

「泣かせたら、大阪湾よ」と真顔で言った。

「ここで言うか」

美和は笑って、

「よろしくお願いね」と二人に手を振って出て行った。

 

しばらくして美彌は、顔を常二に向けた。

「ねえ、本当にいやじゃないの?」

「当たり前だろ、俺はずっと美彌が好きだ」

「うふっ」涙をためたままの顔で笑った。

「もう一回言って」

「俺は美彌が好き、ずっと好きでいるよ」

「うれしいわ。大事にしてくれる?」

「ああ」

「ひと言だけなの?」

「これ以上、言わせる気?言う方も恥ずかしいわ」

 

二人で、カフェオレを飲んだ。少しぬるい。

「大阪湾って何?さっき美和が言ってたの」

「それは、ちょっと」言葉を濁す。

「何?教えて」

「泣かない?」

「ええ、何で?」

「じゃあ言うわ。俺が美彌を泣かすと、大阪湾に沈められるってこと」

目を見開いて常二を見る。

「誰が沈めるの?」おかしそうに笑って聞く。

「美和が言うには、阪上家なら俺一人ぐらい簡単に消せるそうだって」

「泣いてやる」美彌が突然泣きまねをしだした。

「やめろ!」

 

 その日は二人でバス道をゆっくり歩いて帰った。電車で北口、夙川、さらに苦楽園まで行き、一緒にホームを出ると、美彌は、「今日はここでいいわ、大丈夫。ありがとう」というので、電話するからと言って引き返した。

電車が来るまで、美彌は見送っていた。発車した電車の窓から、美彌に手を振ると、美彌は飛び上がって大きく手を振った。

 

美彌の家に呼ばれる

 

 美彌が発作から回復して二週間ほどが過ぎた頃、常二は美彌の家に行くことになった。

美彌の母が、常二に会いたいと言う。

美彌は少し心配していたが、常二は美彌の母にちゃんと会って、自分のことを知っておいてもらうのは悪くないと考えて、打診された日曜日に行くと返答した。

 

あの日に門の前まではやってきたのだが、 今日は門をくぐって入る。エントランスまでは美術館の建物のような庭の広さだ。玄関には美彌が待っていた。

「来てくれてありがとう」

「立派なお屋敷で、緊張する」

小声で美彌に言うと、常二はロビーのような広さの部屋に通され、十人以上はかけられそうな長いテーブルにすすめられるまま腰をかけた。

飲み物を運んでくる美彌の顔が少し緊張して見える。

 

美彌の母は、奥のドアを開けて出てきてて、常二にあいさつをした。

「先日は美彌がお世話になり、ありがとうございました」そう言って深く礼をした。

常二は思わず席を立ち上がり、同じく深い礼をした。

美彌の母は、四十歳代とは思えないほど若く見えた。美彌と姉妹と言ってもおかしくない。

美彌によく似ている顔立ちだが、常二を落ち着かなくさせるような貫禄が感じられた。

美彌と常二は並んでテーブルに着き、美彌の母は向かい側に座った。

「美彌から話はよく聞いています。いろいろやさしくしてくださっているそうですね」

「いえ、とんでもありません。僕の方が美彌さんによくしてもらっています」

俺とは言えなかった。

 

先日見た若い女性がケーキを何種類も運んできた。「お好きなものをどうぞ」と言って出て行った。

ケーキはどれも食べたことのないような上品な甘さだ。

美彌は今日はあまり口を開かない。主に美彌の母が常二に問いかけ、常二がそれに答えるというやりとりが続いた。

常二は自分の家のことを聞かれたらと心配したが、さすがにそれは話題に出なかった。

 

常二はだんだんと打ち解けてきて、話の途中で三人が笑うこともあった。

しかし、美彌が席を外して二人になると、美彌の母は、

「あの子は帰国してから小学校で、いろいろとつらいことがあって、この前のような発作を起こすようになったんです」と切り出した。

美彌は父の事業のため、カナダで幼時を過ごし、小学校高学年になる頃帰国した。

「ずいぶんよくなってきているのですが、まだ完全には治りきっていないので、どうかそれを理解してくださいね」

常二は「はい、わかりました」と答えたが、美彌の母は、まだ言い足りないと思ったのか、

「あの子をそっとしておいてくださいね。大事な時期なの」そう言って常二の顔を見た。

常二はその意味を美彌とは男女の深い関係になるなと言っているのだと受け止めた。

 

「約束してくださるわね」念を押してきた。

「わかりました」と答えたあと、常二は、何とも重い気分になった。

 

美彌の母のこの言葉が常二には呪いの言葉になった。

 

だんだんとボディブローのように効いてくることば

 

 会うたびに、毎日、「きれいだ」と常二が言うことをねだる美彌。

そう言われると、「うふっ」と言ってはにかむ美彌。

ところが、常二は美彌の母のことばを聞いてから、美彌にキスを求めなくなり、手もつながごうとしなくなくなった。

 

 もちろん、常二は、美彌といると楽しいし、美彌の美しさに見とれることもある。一緒に歩いていて美彌の身体に、自分の手や肩が触れると、常二の身体の芯に戦慄が走る。美彌の豊かに盛り上がった胸のラインや、細いが均整の取れた白い脚を見ると、美彌に欲情するが、常二は首を左右に振って頭の中の妄想を振り落とす。

 

 今日も、美彌と別れて下宿に一人帰ると、常二は我慢できずに自慰行為にふける。美彌の姿を思い出し、どうしようもない衝動に突き動かされて、熱でほてった身体から情念を放出する。そして必ず、後悔の思いがわき起こる。美彌を汚しているように思える。

 

 美彌は常二がキスを求めなくなったのを不審に思いはじめていた。

学校から一緒に川沿いの道を帰りながら、今日一日の出来事をお互いにしゃべっていたとき、ふと話すのを止めた美彌は、

「ねえ、今日は下宿について行っていい?」と聞いてきた。

 

 常二は美彌をまだ一度も下宿に連れてきていなかった。アルバイトに追われ、二人でゆっくりできる時間がなかったこともあるが、美彌を下宿に連れてくると、その時は、自分の衝動を抑えきれないと自覚していたことが大きかった。

そうなってしまうと、美彌との関係も変わってしまうのではないかと恐れていたのかもしれない。

何より、あの呪いの言葉が効いていて、美彌の身体に触れることができなかった。

 

「また、今度にしよう。今日は都合が」ということばにかぶせるように、美彌は、

「なんで最近手もつながないのよ、おかしいでしょう?」と怒気を含んだ声で言った。

「私のこと、いやになったの?」立ち止まって、美彌の大きな目が常二の目を見つめる。

常二は耐えられずに目をそらす。

追い打ちをかけるように、

「おかしいわ、この頃。常二、私に隠し事あるでしょ」と言った。

そして「好きな人できたの?」と小声で聞いた。

 

「いや、絶対、そんなことない」常二が言い張っても美彌は納得しなかった。

「じゃあつれてって」美彌は怒って言った。

「今日は止めておこう」そう言うと、美彌は

「私、帰る」と言って一人で駅の方にかけだしていった。

 

常二はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 

柴崎の来訪

 

 下宿に柴崎が来た。

大学の講義に常二が出ていないのを心配して来たという。

「なんか、しけた顔してるなあ。どうしたんや」

そう言って買ってきた飲み物を差し出す柴崎に、常二はつい、美彌とのことを話してしまった。

 

美彌の家に呼ばれて行ったこと。美彌の母から美彌の身体に触れないよう釘を刺されたこと。

それ以来、美彌の身体に触れられず、キスもしないし、手もつながないこと。美彌が怒ってしまったこと。

黙って聞いていた柴崎は、常二の話が終わると、

「お前はアホか。何でそんな母親の話を真に受けるんや」とののしった。

 

「どこの世界に彼女のママのお願いに従う男がいる?いたとしたら、人類は絶滅してるわ」

「人がいいのもいい加減にしろ、美彌のママが美彌に触れるなって?そんなことは美彌本人が決めることやろ、違うか?」

「もう成人したええ大人が、自分の生き方を自分で決められずに、ママの言いなりになってそれで幸せか?」

「美彌さんはそんな甘ちゃんと違うやろ」

柴崎のことばは手厳しかった。ひと言ひと言が常二にはこたえた。

 

「でも、美彌にはいじめられたことで心が不安定になる病気があって」

常二が説明すると、柴崎は、

「美彌さんのそれは気の毒だと思うし、お前が心配するのもわからんでもない。でも、彼女はそれを克服しようと戦ってるのと違うのか。お前とつきあってるのもそのひとつや。美彌さんのその努力にお前は、腫れ物に触るような態度で接しているのか。」

「それが美彌さんとの誠実な向き合い方なんか。考えてみろ」

柴崎にここまで言われて、常二はひと言も反論できなかった。

 

買ってきた炭酸ジュースを一気に飲み干すと、柴崎は大きなゲップをした。

 

 その晩は柴崎と下宿で飲み明かした。

「彼女が俺を求めて離してくれんのや」

柴崎は美彌の紹介でつきあっている彼女のことを話し出した。

 

「おとなしい子と思っていたら、情熱的で。会うたびに俺を欲しがる」

「それにこたえるため、俺は会う前に必ず自分で抜いてから、会うようにしてる」

「どれだけ絶倫なんやお前は」常二は聞いていてあきれるばかりだ。美彌が言った凸凹カップルということばを違う意味で思い出した。

 

「初めての時は、俺のがでかすぎてうまくいかんかった」

「でも、次から何回も求められて」

柴崎の彼女は小柄で童顔なので、柴崎の話がにわかには信じられない。

「あのかわいい感じの人が?」

「そうや。お前は女性の怖さをまだしらんやろ」

「美彌さんも結構、」そう言って、にやけた顔を向ける柴崎にすかさず、

「やめろ」と言った。

 

「ええか、俺が美彌さんに連絡するから、来週一緒に会ってちゃんと話をしろ。そうやな、美和さんにも来てもらおう」

「俺に任せとけ」柴崎はそう言って、缶ビールを飲み干した。

 

 翌週、約束の日に常二は柴崎と一緒に大学前のバス通りにあるカフェに向かった。二階の席にあがり、美彌と美和が来るのを待つ。

間もなく、美和が、その後ろに美彌をつれてやってきた。

柴崎が大きく手を振って二人を席に招いた。

 

座るとすぐ、美和が常二に真顔で

「大阪湾に沈め」と言った。

「あれだけ言ったのに、なんで美彌を泣かせたの」問い詰める美和に、柴崎がまあまあと言って取りなす。

 

 常二は慎重にことばを選んで、美彌への態度をわびた。美彌の母に原因があるとは思われないように、美彌に話すのは難しかった。自分の勝手な思い込みが間違っており、美彌にいやな思いをさせてしまい、すまなかったと言った。

聞いていた美彌は、前と同じように大きな涙をこぼした。

 

「ちゃんと美彌に向き合っていきます」常二が、三人に向かってそう言うと

美彌は、「私のことを大事にしてくれる?」と尋ねた。

「もちろん、大事にする。美彌のことを好きだ」というと、

泣き笑い顔で、「うふっ」と言った。

やっと美和も表情をやわらげ、

「手のかかるカップルだこと。コンサルタント料もらいたいわ」と言った。

柴崎は「どう見てもお似合いの二人なんやから、少々のことで、ゴタゴタせんときや」と言った。

美和は「あなた、本当にわかってるよね?今度美彌を泣かせたら大阪湾」その言葉を遮って

「以後気をつけます」常二は思わず頭を下げた。

 

 柴崎と美和と別れて、美彌と川沿いの道を歩きながら、駅に向かった。

美彌の家の近くで夕食を一緒に取ろうと電車に乗った。

電車の中は夕方の帰宅ラッシュで混んでいた。ドアのそばに立つ二人の手と手が触れた。常二は美彌の手に自分の手を重ね合わせ、強く握りしめた。

美彌は常二の顔を見上げ、「うふっ」と言った。

 

苦楽園で降りて、芦屋の山手方面に続く坂道を手を握ったままゆっくり歩いた。しゃれた店が建ち並ぶ一角では、ショーウインドウに映る美彌の姿が美しかった。

 

見落としてしまいそうな小さなレストランに入り、二人でイタリアン料理のコースを食べた。美彌は元気を取り戻し、よくおしゃべりをした。常二はそれを楽しく聞いた。

この時間が永遠に続いてほしい、そう願いながら、美彌と過ごす一時一時が大切な人生の瞬間だと思った。

 

「もう二度と泣かさないでね」美彌が食事を食べ終えたあと、コーヒーを飲みながら言った。

「約束するよ」

「前もそう言ったでしょ」美彌がすねた表情を浮かべるので、テーブルの下で美彌の太ももを右手でつねった。

 

美彌は常二を見つめたまま、二重の目を大きく見開いた。

「何するの」まわりを気にして声を潜めて常二に顔を近づけて言った。

「その口をつねりたいわ」常二が言うと、美彌は

「ひどい」と言って常二を見つめる。

「ひどいのは美彌の方さ。俺を信じてくれないなんて」と言い返すと、

「じゃあ許してあげるから、もう一回つねって」

「変態か」常二があきれると、

「お願い」というので、美彌の太ももをやさしく撫でた。

「うふっ」といつもの声を出した。

 

 

塚本の自殺

 

 秋の大学祭で、常二は軽音楽部の知人に頼まれ、サポート役で二曲だけギターを弾いた。演奏が終わったあと、何人かの学生から、かっこよかったよと声をかけられてうれしくなった。

待っていた美彌にどうだったと聞くと、「よかったわ。でも、なんだか別人みたい」と言った。「惚れ直した?」と聞くと、美彌は「調子に乗ると、大阪湾よ」と笑いながら言った。

 

 その知らせは下宿に来た柴崎から聞いた。

同じゼミの塚本が、自殺したという知らせだった。

塚本は実家がお寺で、親との折り合いが悪かったという。

 

塚本は先月、初めてひとりで常二の下宿を訪ねてきたのだった。

その晩は音楽や彼女のことなど他愛もない話をして常二の下宿に泊まって帰ったのだが、塚本からはそんなそぶりは一切感じ取れなかった。

柴崎の話を聞いた常二は全身に鳥肌が立った。

柴崎は葬式に行くというのだが、常二はあいにく仕事が入っており断れないので、参列できないと言った。

柴崎は俺が常二の分も併せて参列してくるから、気にするなと言って帰った。

 

下宿で一人になると、常二は塚本が来たときのことを反芻した。

何気ない会話の中に原因と思われることはなかったか?

たしか塚本は常二の親のことを尋ねた。

常二は隠さずに、自分の家は母子家庭で、父には会ったこともない、今は経時的に苦しくて、学費も仕送りもなく、アルバイトに追われている。そう言うと、お前もたいへんなんやなと塚本は言った。

 

なぜ、あの時、死を考えていたなら相談してくれなかったのか。そうしてくれたら少しでも引き止めることができていたかもしれない。

常二はそこまで考えて、自分も高校二年生の秋に一度、自殺未遂を起こしたことを思い出した。

 

原因は、医者から今の体調なら、通常の社会生活は一生無理だと宣告されたことだった。

高校に入学してから常二は体調に異変をきたした。毎朝からだが重く、だるく、起きにくくなってしまった。

友人はサボりだと言って笑ったが、学校の健康診断で尿検査の数値が異常だと言われ、病院で検査をしてもらうと、即入院させられた。

十日間ほど入院していた間、楽しみだった修学旅行は終わってしまった。

 

何度もいろいろな検査を受け、告げられた診断が、腎臓に深刻な異常があり、普通に社会生活を送ることはできないだろうという結果だった。

それを聞いた母は動転し、なんとかならないのかと医者に尋ねたが、医者はしばらく様子を見るしかないという返事だった。

それ以来、学校を休みがちになり、勉強も遅れて成績が急下降した。国公立大学を受験し、進学することが目標だった常二は、半ばその夢を諦めかけていた。

 

そんなあるとき、発作的に睡眠薬を大量に飲んでしまったのである。薬は眠れないからと言って処方されていたものに、ひそかに手に入れていたものを加えた量を飲んだ。何か強い力で吸い寄せられるようにして起こした行為だった。

 

外出から戻った母が常二の異常を発見し、すぐに救急車で運ばれた。

幸い処置が早くて、別状はなく、翌日には退院できた。ただし、退院するとき、医者からきつく叱られた。高校にはそのことはばれなかった。一年後には奇跡的に完治していたのだが。

 

そんな過去がある常二には、塚本の自殺は痛かった。

その当時のことを思い出し、夜になると、無性に死にたくなった。何かの力で高いビルの屋上にひきよせられる。そしてフェンスを乗り越えて、身を投げる。そんな妄想が繰り返される。

怖くなって一人で涙を流して夜が明けるのを待った。

夜が明けると妄想は消えて、安心して眠りに陥る、そんな日が何日か続いた。

 

美彌からの連絡には返事ができなかった。心配しているだろうなとは思ったが、今の精神状態では美彌に向き合えない。

 

一度下宿に来た柴崎は常二を心配して、塚本のことは気にするな、どうしようもないことだと言って慰めた。

 

このままでは自分はダメになる、美彌も泣かせてしまうと思うのだが、どうにもできなかった。

 

柴崎からだいたいの話を聞いたのだろう、美彌が一人で常二の下宿に来た。

 

夕方誰かがドアをノックするのでようやく身体を起こして、出ると、美彌だった。

美彌は、ひげも剃らず、顔色の悪い常二を見ると、わっと声を上げて泣き出し、常二に抱きついた。

部屋に美彌を入れ、心配をかけて済まないと謝った。

美彌は常二に抱きついたまま身体を震わせ、長い時間泣いていた。そしてやや落ち着くと、常二の目を見て、「抱いて」と言った。

 

常二は頭を何かで殴られたような衝撃を受けた。

美彌は身を以て俺を救いに来たのか、その思いを拒むことはできない、そう思うと、夢中で美彌を抱きしめた。

 

濃密な時間が過ぎていった。夜中に目覚めると、常二の横で美彌が寝入っていた。裸の肩を揺すり、美彌を起こした。

 

「大丈夫なの、家は」と尋ねると、目を開けた美彌は、

「美和の家に泊まると言って出てきたから」と言った。

キスをせがむので、唇を合わせた。

「うふっ」といつものように言った。

「ねえ、もう一回」そういう美彌の胸をきつく抱きしめた。

 

翌朝、目覚めて見た美彌の姿は、まぶしいくらい美しく、いとおしかった。死のうと思った自分がかき消されてしまった。

 

二人でシャワーを浴びて、服を着替え、外へ出た。

駅前のカフェでモーニングセットを二人で食べた。

 

「また泣かせたわね」食べ終わると、美彌が言った。

 

クリスマス前

 

 クリスマスが近づくと中央芝生の時計台は、そばに植えられた大きなもみの木に色とりどりのあざやかなデコレーションが施されて、美しかった。

 

講義が終わって早くも日が落ちて暗くなった中に、イルミネーションが輝く。

美彌はうっとりした顔でその光を見つめている。

 

「ねえ、クリスマスは家に来て。ごちそうするから」

美禰は常二の肩に頭を寄せながら、そう言った。今の二人なら、美彌の母に対して、なんら負い目を感じることはない。

 

「うん、行くよ。楽しみだね」

そう言って美彌のほおにそっと口を寄せると、

「うふっ」と言って白い歯を見せた。

 

 

 

「ひきこもれ ひとりの時間をもつということ」吉本隆明 だいわ文庫を読んで考えた

「ひきこもれ ひとりの時間をもつということ」吉本隆明 だいわ文庫

 本文は上記から引用しました。

 

吉本隆明といえば、学生運動の思想的な柱、「共同幻想論」、よしもとばななの父などが思い浮かびます。

名前は知っていても、その著作は未読でした。

今回はタイトルに惹かれて電子書籍で購入し、一気に読み終えました。

2002年に発行された本ということで、少し時代の変化を感じる内容も見受けられます。

難解な語句もなく、語り口調で読みやすい本でした。

 

一つだけ引っかかったことは、引きこもりの原因が、親の精神状態にあるという記述でした。これに関しては、私が専門的な知見を持ち合わせていないため、その適否を判断できません。

ここでは、その疑問だけを指摘しておきます。

 

ひきこもりについては、大きな関心を持っています。その理由は二つあります。

一つは、私自身が高校生の頃からひきこもり的な傾向があり、それが社会人になっても変わらず、現在もそうであること。

二つめは、子どもの一人がひきこもり状態にあるからです。

 

自分自身の問題であり、親としての問題でもあるのです。

 

自分自身は、こんな人間だ(ひきこもり的な傾向の強い人間)と認識していて、社会生活は特には困っていません。

親としては、子どものひきこもりは、心配ごとであることは間違いありません。

 

今回の記事は、今、ひきこもり状態にある中高生や大学生、そしてその親の方々の参考になればと思い書きました。

 

 第一章 若者たちよ、ひきこもれ

世の中の職業の大部分は、ひきこもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身につけないと一人前になれない種類のものです。学者や物書き、芸術家だけではなく、職人さんや工場で働く人、設計する人もそうですし、事務作業をする人や他の人にものを教える人だってそうでしょう。

 

 

ひきこもることのマイナスイメージを否定し、むしろ、ひきこもることが必要であるとプラスにとらえている点が重要です。

私は高校で、就職の世話をしていますが、十年以上前からよく聞くのが、「コミュニケーション能力のある人」がほしいという要望です。

言葉数が少なく、何を考えているのかわかりにくい人よりも、社交的で、明るく、誰とでも話ができる人、そんな人物が社会から求められているのです。

 

たしかに、会社組織にはいろいろな年代や考えの人がいます。その中でコミュニケーションを取ることは、重要な要素でしょう。

しかし、いわゆるコミュニケーション能力の高い人は、高校生の10%もいないのではというのが私の実感です。

これは三十年以上、高校で大勢の生徒と接してきた経験から感じているものです。

さらに、コミュ力の高い生徒が必ずしも学力や人間力が高いわけでもありません。

調子がいいだけで、信用度が低いということもあります。

むしろ、地味で目立たない、控えめである生徒の方が、一対一で話してみると、しっかりした考えを持っていたり、他人への共感力が高かったりします。

コミュニケーション能力を重視する風潮は、今後も変わらないでしょうが、絶対的なものではありません。

 

 

家に一人でこもって誰とも顔を合わせずに長い時間を過ごす。まわりからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、ひとまとまりの時間」を持つことが、どんな職業にも必ず必要なのだとぼくは思います。

 

コロナで休校期間が長かったため、人と会わずに、上記のような状態に置かれた人が多いと思います。

学業や学校生活という面では不幸だったかもしれませんが、コロナによる全国一斉休校は、「分断されない、ひとまとまりの時間」をじゅうぶんに与えてくれたと考えると、意味はあったのかもしれません。

 

 

たしかに引っ込み思案で暗い人間は、まわりの人にとって鬱陶しいでしょう。でもその人の中身は、一人で過ごしている間に豊かになっているかもしれない。そしてある瞬間に、「ああ、この人はこういう人なんだ」と誰かが理解してくれるかもしれません。その人なりの他人とのつながり方というのがあるのです。

 

 

今では、ネットでのつながりもあります。ひきこもって、学校での人間関係が作れていなくても、日本や世界のどこかの人と、好きなゲームや音楽などで繋がることは簡単です。

いつか、どこかの誰かがあなたを理解してくれる、そう思うと心配することもありません。

 

ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは、「価値」という概念にぴたりとあてはまります。価値というものは、そこでしか増殖しません。

 

今回の読書でいちばん、心に響いたのがこの「価値」ということばでした。

私たちは何らかの価値を生み出すために生きているといっていいでしょう。

ところが、ひきこもっていると、何の価値も生み出していないように受け取られてしまいます。

時間や人生を無駄にしていると思われがちです。

著者は、ひきこもって考えていること、得たものに価値があり、しかも、ひきこもった状態からしか価値は増殖しないというのです。

何という価値の転動でしょう。価値のコペルニクス的転回です。

 

たとえば、ひきこもり(的)から大きな価値を生み出しているのが、米津玄師さんです。

その音楽家としての活躍はいうまでもなくすばらしく、今後は世界的に活躍することは間違いないでしょう。

天才と称される米津さんですが、ひきこもり(的)でなかったら、ここまでの才能の発揮と成功はなかったのではないでしょうか。

 

ひきこもりをマイナスではなく、プラスのものとしてとらえる考え方がたいへん参考になりました。

 

夏用マスクをいろいろ購入 お気に入りを紹介します

夏用布マスクをいろいろ購入し、試してみました。

 

不織布のマスクが手に入りやすくなり、ホッとしました。しかし、夏になって気温が上がると、不織布のマスクは蒸れてしまい、あごにあせもができてしまいました。

人前で何時間も話す仕事なので、マスクは必須、しゃべるとマスクの中が蒸れてあせもが出やすいのです。

 

ネットで評判のものを見つけては購入し、10種類以上になりました。

その中から使ってみてよかったものについて、書きます。

あくまで個人で使用しての感想ですので、客観的でない点はご容赦ください。

 

1.KING JIM クリーンルーム用手袋メーカーが作った くりかえし使えるマスク 

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おもて
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うら

安心の4層構造 

表地 吸汗速乾 UVカット機能

フィルター層 高密度ポリエステル生地で静電気防止

メッシュ層 3次元立体編み物で呼吸がラクに

裏地 肌触りがよく 顔の凸凹にフィット

原産国 日本となっています。

 

説明書のスペックが安心感を与えます。さすがKING JIM ポメラは愛用させてもらっていますが、マスクも独自の性能がありそうです。

 

さて、着用感は、蒸れもなく、肌触りもすごくよいです。ゴムの長さも適度にあり、耳が痛くなることもありませんでした。

フィルター内蔵というのも安心感があります。

 

唯一の不満は、生地が4層もあるので、つけていると生地が口の方にずれて、鼻の穴が出てしまうことがあった点です。

 

2.New Heights高機能フェイスマスク

接触冷感・吸水速乾機能を兼ね備えたプリーツ型マスク

滋賀県のスポーツメーカーが製造・販売しているマスクです。

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おもて

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うら

裏地とひもが黒色でスタイリッシュ。

一日つけていても蒸れることがなく、洗濯すると早く乾くので次の日にも使えます。

いくつか購入したマスクの中で、これがいちばん家族の評判はよかったです。

 

私も毎日、これを着用しています

唯一の不満は、使い始めはゴムがきつくて耳が痛くなったことです。何度か洗濯するうちに痛くなくなりました。

私は奥行きの長い頭なので、その分、ゴムがきつく感じるのかも知れません。

 

3.mont・bellウイックロンポケマスク ライト

立体構造で呼吸しやすい 洗ってもすぐに乾く 熱がこもりにくい ポケット付き

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おもて

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うら

フィルターを入れるポケット付き

 

やっと届いたモンベルのマスクです。一度抽選に外れ、二度目に予約でき、待ちかねていたものです。

家族分を購入し、配布しました。

昨日、外出時に初めて使ってみましたが、軽くて息もしやすく、耳も痛くならない、快適なマスクでした。

肌触りと軽さが特筆ものです。

仕事ではまだ使っていませんが、ガンガン使おうと思っています。

三四郎は迷える明治男か?あるいはサイコパスか?STRAY SHEEPのなぞを考える

明治の男はつらかったと思う。

鎌倉時代から数百年にわたって培われてきた武士道の美学と倫理、つまり禁欲と痩せ我慢があらゆる行動の指針になっているにもかかわらず、時代は確実に、金銭と欲望だけが支配する資本主義の方に進みつつあったからだ。つまり、いかにすれば、男子としての品位を汚さず、家族を養うだけの金銭を手に入れ、それでいながら、忠・孝・恩という儒教的モラルを侵犯せずに、おのれの感情に正直でいられるのか? 悩みはつきなかったにちがいない。

だが、そのつらさから、世界でも類を見ない文学が生まれた。それが漱石の文学であり、鴎外の文学である。

 

「鴎外の坂」新潮社 鹿島茂先生の書評より引用 https://allreviews.jp/review/1292

 

 

 

「三四郎」を読み終えたときのもやもや感の正体が、この文章でわかりました。

美禰子を好きなのに、素直に気持ちを表せない三四郎。禁欲と痩せ我慢、儒教的モラルにとらわれ、感情に正直でいられなかった三四郎。

学問の世界で生きて行くには、広田先生や野々宮さんのようにならなければならない。田舎の母親も東京に呼び寄せなければならない。

三四郎には「明治の男」のつらさがのしかかっていたはずです。

 

広田先生や、与次郎、野々宮さん、よし子、原口さんとは、普通に話したり、交際できたりするのに、美禰子にだけはそれができない三四郎。

 

三四郎は、サイコパス的か?というテーマが設定できるのではないかとも思います。

 

「サイコパスの主な特徴として挙げられるのが感情の一部が欠如しているという点である。特に自分以外の人間に対して、愛情であったり思いやりであったりなどといった感情が欠如しているため、非常に自己中心的な言動や行動を取ってしまう傾向にある。」

(weblio辞書 実用日本語表現辞典より引用)

 

 

美禰子とのやりとりは、一貫して、自己中心的な言動、行動を取っています。

読み進めていくうちに、美禰子が気の毒になり、三四郎にはほとんど共感できませんでした。

 

よく言われるのが、田舎から出てきた三四郎が、都会の女、美禰子に振り回されるという図式です。しかし、丁寧に読むと、美禰子が三四郎に振り回されているとしか言いようのない展開になっています。

これがもやもやポイントの大きな原因です。

 

美禰子が絵のモデルにもなるほどの美人であるのは間違いありません。それに釣り合うとしたら、三四郎は、限りなくイケメンでないといけないはずです。

あるいは、美禰子の好みにぴったり合う男であるはずです。

ところが三四郎は、美禰子が好む絵画の知識は全くなく、音楽の教養もありません。カソリックと思われる美禰子に対し、キリスト教には全く縁のない男なのです。

二人が共有できるものは何でしょうか。

広田先生を取り巻く人間関係くらいでしょうか。

あるいは、両親を早く亡くしている美禰子と父を亡くしている三四郎、つまり、親が揃っていない子同士という点でしょうか。

 

出会いからお互い惹かれ合っているのに、物語が進行しても、二人の関係は深化しません。美禰子からの愛を三四郎が拒む場面が続きます。

三四郎がようやく美禰子に向き合ったのは、最後に、結婚が決まった美禰子に借りていた金を返すときだけです。

 

好きな相手への情熱や本能的衝動、思い切った行動などは、三四郎は、まるで発揮しないのです。

 

さらにもやもや感を抱かせるのは、よし子の存在です。

美禰子と同居するよし子に、三四郎は、母親的なものを認め、安心して応対できるのです。美禰子にたびたびよし子のことを尋ねて、美禰子を刺激しています。よし子は美禰子への当て馬なのです。与次郎からも、よし子を嫁にもらえとすすめられるほどです。

三角関係までにはなり得ていませんが、奇妙な関係です。

 

ともかく、美禰子への情熱、本能の発動、愛情の表明が欠如していた三四郎が、美禰子と結婚できないのは当然の結果でした。

 

情熱や本能で動く男が小説に描かれるのは、「三四郎」が新聞連載された2年後、1910年(明治43年)に谷崎潤一郎の「刺青」が発表されるまで待たなければなりませんでした。

 

 

迷える羊は誰に出会ったのか?STRAY SHEEPのなぞはこれだった

迷える羊は誰に出会ったのか?

 

インフルエンザから回復して美禰子に会いに行く三四郎。

本文は青空文庫から引用しました。

 

朝飯後、シャツを重ねて、外套《がいとう》を着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。玄関によし子が立って、今|沓脱《くつぬぎ》へ降りようとしている。今兄の所へ行くところだと言う。美禰子はいない。三四郎はいっしょに表へ出た。

「もうすっかりいいんですか」

「ありがとう。もう直りました。――里見さんはどこへ行ったんですか」

「にいさん?」

「いいえ、美禰子さんです」

「美禰子さんは会堂《チャーチ》」

 美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。三四郎はまったく耶蘇教《やそきょう》に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。前へ立って、建物をながめた。説教の掲示を読んだ。鉄柵《てっさく》の所を行ったり来たりした。ある時は寄りかかってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。

 やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌《さんびか》というものだろうと考えた。締め切った高い窓のうちのでき事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟《えり》を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。

 かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端《たばた》の小川の縁《ふち》にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。雲が羊の形をしている。

 忽然《こつぜん》として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世《うきよ》へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。縞《しま》の吾妻《あずま》コートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いとみえて、肩をすぼめて、両手を前で重ねて、できるだけ外界との交渉を少なくしている。美禰子はこのすべてにあがらざる態度を門ぎわまで持続した。その時、往来の忙しさに、はじめて気がついたように顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。

「どうなすって」

「今お宅までちょっと出たところです」

「そう、じゃいらっしゃい」

 女はなかば歩をめぐらしかけた。相変らず低い下駄《げた》をはいている。男はわざと会堂の垣《かき》に身を寄せた。

「ここでお目にかかればそれでよい。さっきから、あなたの出て来るのを待っていた」

「おはいりになればよいのに。寒かったでしょう」

「寒かった」

「お風邪はもうよいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね」

 男は返事をしずに、外套の隠袋《かくし》から半紙に包んだものを出した。

「拝借した金です。ながながありがとう。返そう返そうと思って、ついおそくなった」

 美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。しかし手に持ったなり、しまわずにながめている。三四郎もそれをながめている。言葉が少しのあいだ切れた。やがて、美禰子が言った。

「あなた、御不自由じゃなくって」

「いいえ、このあいだからそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、どうか取ってください」

「そう。じゃいただいておきましょう」

 女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香《かおり》がぷんとする。

「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎《びん》。四丁目の夕暮。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。空には高い日が明らかにかかる。

「結婚なさるそうですね」

 美禰子は白いハンケチを袂《たもと》へ落とした。

「御存じなの」と言いながら、二重瞼《ふたえまぶた》を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉《まゆ》だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎《うわあご》へひっついてしまった

 女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。

「我はわが愆《とが》を知る。わが罪は常にわが前にあり」

 聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。

 

 

美禰子は教会に行っていました。三四郎は初めてそれを知ります。

好きだった人の、根本的な大事なものを知らなかったということです。相手への深い理解はできなかったでしょう。

三四郎は、美禰子宅に金を借りに行ったとき、美禰子を待つ応接間で、カソリックの連想をしています。美禰子にはキリスト教的なものがあったということでしょう。

 

「空に美禰子の好きな雲が出た。

 かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端《たばた》の小川の縁《ふち》にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。雲が羊の形をしている。」

 

三四郎の心情描写だととれば、三四郎は感傷的になっていることがわかります。

初めて見せる人間くさい三四郎の姿かも知れません。

 

家に来るように促し、さらに気配りする美禰子に、三四郎は、ここでよいと言って、言葉少なく、半紙で包んだ金を差し出します。

金は二人を結びつけるものではなく、二人の間を引き離すものとなってしまいました。

 

美禰子が金を受け取れば、ほんとうに縁の切れ目になってしまいます。

受け取ったとき、美禰子は、白いハンカチを取り出し、においを嗅いだあと、不意に三四郎の顔の前にハンカチを突きつけます。「ヘリオトロープ」と美禰子が静かに言います。三四郎は思わずのけぞってしまいます。

美禰子からの突然の香水の攻撃。美禰子のねこパンチです。三四郎が驚くのも当然です。

「ヘリオトロープ」の香水は、三四郎が美禰子に選んだものでした。その花言葉は、「献身的な愛」「夢中」「熱望」です。

皮肉なことに、三四郎には欠けていたものばかりです。三四郎の、美禰子への態度にこれらの要素が少しでもあれば、美禰子が他の男と結婚を急ぐことにはならなかったでしょう。

むしろ、美禰子には、三四郎に対して「献身的な愛」「夢中」「熱望」がありました。

美禰子も三四郎も、お互い、望んだ姿の相手には出会えなかったのです。

これが「STRAY SHEEP」「迷える羊」の答えです。

 

三四郎は、「結婚なさるそうですね」「御存じなの」のやりとりのあと、何も言えません。

「おめでとうございます」くらいは言いましょう。

美禰子はため息を漏らして、「我はわが愆《とが》を知る。わが罪は常にわが前にあり」とかすかにつぶやきます。

「旧約聖書」詩篇第51篇3節に出てくる。ダビデ王の「懺悔の歌」として有名。(出典https://crd.ndl.go.jp/reference

 

懺悔をするのは美禰子ではなく、三四郎の方ではなかったのか。

三四郎を諦めた後、兄の友人と結婚することを決めた美禰子。しかも、よし子が先に縁談で断った相手です。言い方は悪いが、よし子のおこぼれです。

兄が結婚するので、美禰子も急いだのかも知れません。両親は早くに他界しています。

 

せめて、いい男との結婚であってほしいと思います。

 

 

 

結婚を決意した美禰子の気持ちを覆せるか 三四郎の言葉は届くのか STRAY SHEEPのなぞを考える

原口さん宅を辞し、美禰子と二人になった三四郎。美禰子に気持ちを伝えますが、その結果はどうなったでしょうか? 

 

本文は青空文庫から引用しました。

 

夕暮れには、まだ間《ま》があった。けれども美禰子は少し用があるから帰るという。三四郎も留められたが、わざと断って、美禰子といっしょに表へ出た。日本の社会状態で、こういう機会を、随意に造ることは、三四郎にとって困難である。三四郎はなるべくこの機会を長く引き延ばして利用しようと試みた。それで比較的人の通らない、閑静な曙町を一回《ひとまわ》り散歩しようじゃないかと女をいざなってみた。ところが相手は案外にも応じなかった。一直線に生垣《いけがき》の間を横切って、大通りへ出た。三四郎は、並んで歩きながら、

「原口さんもそう言っていたが、本当にどうかしたんですか」と聞いた

「私?」と美禰子がまた言った。原口さんに答えたと同じことである。三四郎が美禰子を知ってから、美禰子はかつて、長い言葉を使ったことがない。たいていの応対は一句か二句で済ましている。しかもはなはだ簡単なものにすぎない。それでいて、三四郎の耳には一種の深い響を与える。ほとんど他の人からは、聞きうることのできない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がった。

「私?」と言った時、女は顔を半分ほど三四郎の方へ向けた。そうして二重瞼の切れ目から男を見た。その目には暈《かさ》がかかっているように思われた。いつになく感じがなまぬるくきた。頬の色も少し青い。

「色が少し悪いようです」

「そうですか」

 二人は五、六歩無言で歩いた。三四郎はどうともして、二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。しかしなんといったら破れるか、まるで分別が出なかった。小説などにある甘い言葉は使いたくない。趣味のうえからいっても、社交上若い男女《なんにょ》の習慣としても、使いたくない。三四郎は事実上不可能の事を望んでいる。望んでいるばかりではない。歩きながら工夫している。

 

 

三四郎の誘いを断る美禰子。三四郎を見る美禰子の目には「暈《かさ》がかかっているよう」に精気がありません。美禰子が原口さんの前で見せた異変の原因は、三四郎の登場でした。

さらに三四郎は、「二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくな」ります。

今まで何度もその機会はあったのに、見逃してきた三四郎ですが、今回は違います。

 

 

 

やがて、女のほうから口をききだした。

「きょう何か原口さんに御用がおありだったの」

「いいえ、用事はなかったです」

「じゃ、ただ遊びにいらしったの」

「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」

「じゃ、なんでいらしったの」

 三四郎はこの瞬間を捕えた。

「あなたに会いに行ったんです」

 三四郎はこれで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、

「お金は、あすこじゃいただけないのよ」と言った。三四郎はがっかりした。

 二人はまた無言で五、六間来た。三四郎は突然口を開いた。

「本当は金を返しに行ったのじゃありません」

 美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。

「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」

 三四郎は堪えられなくなった。急に、

「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。

「お金は……」

「金なんぞ……」

 

 

美禰子は、何度もなぜ来たのかと三四郎に問います。三四郎への愛を三四郎に拒まれた美禰子にとっては、今日の三四郎の登場は、予想外だったのでしょう。

とうとうあなたに会いたいから行ったという三四郎の言葉に、美禰子はため息をつくことしかできません。

 

結婚を決意した美禰子には、三四郎の行動と言葉は酷な出来事でした。

遅すぎるし、美禰子の反応にはお構いなしです。

 

 

 二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。それなりで、また小半町ほど来た。今度は女から話しかけた。

「原口さんの絵を御覧になって、どうお思いなすって」

 答え方がいろいろあるので、三四郎は返事をせずに少しのあいだ歩いた。

「あんまりでき方が早いのでお驚きなさりゃしなくって」

「ええ」と言ったが、じつははじめて気がついた。考えると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像をかく意志をもらしてから、まだ一か月ぐらいにしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼していたのは、それよりのちのことである。三四郎は絵の道に暗いから、あんな大きな額が、どのくらいな速度で仕上げられるものか、ほとんど想像のほかにあったが、美禰子から注意されてみると、あまり早くできすぎているように思われる。

「いつから取りかかったんです」

「本当に取りかかったのは、ついこのあいだですけれども、そのまえから少しずつ描いていただいていたんです」

「そのまえって、いつごろからですか」

「あの服装《なり》でわかるでしょう」

 三四郎は突然として、はじめて池の周囲で美禰子に会った暑い昔を思い出した。

「そら、あなた、椎《しい》の木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか」

「あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた」

「あの絵のとおりでしょう」

「ええ。あのとおりです」

 二人は顔を見合わした。もう少しで白山《はくさん》の坂の上へ出る。

 

 

 

三四郎と美禰子の出会いの場面が語られます。ここで美禰子と三四郎は振り出しに戻ってしまい、美禰子の姿は原口さんの描く絵として、絵の中に封印されることになります。

美禰子は現実の世界では、もう三四郎の手の届かないところに行ってしまうのです。

 

 向こうから車がかけて来た。黒い帽子をかぶって、金縁の眼鏡《めがね》を掛けて、遠くから見ても色|光沢《つや》のいい男が乗っている。この車が三四郎の目にはいった時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。二、三間先へ来ると、車を急にとめた。前掛けを器用にはねのけて、蹴込《けこ》みから飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い細面《ほそおもて》のりっぱな人であった。髪をきれいにすっている。それでいて、まったく男らしい。

「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」と美禰子のまん前に立った。見おろして笑っている。

「そう、ありがとう」と美禰子も笑って、男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。

「どなた」と男が聞いた。

「大学の小川さん」と美禰子が答えた。

 男は軽く帽子を取って、向こうから挨拶《あいさつ》をした。

「はやく行こう。にいさんも待っている」

 いいぐあいに三四郎は追分へ曲がるべき横町の角に立っていた。金はとうとう返さずに別れた。

 

 

りっぱな男が美禰子を迎えに来ました。そして美禰子の兄が待っていると言います。これは今から里見家で、お見合い、そして結婚話をするためです。

 

美禰子に金を借りに行ったときは美禰子の愛を拒んだ三四郎。美禰子に金を返しに行ったときは美禰子の愛を失っていた三四郎。

金と愛は等価交換できないという図式を表しているのかも知れません。

 

 

 

 

 

美禰子の異変を目にする三四郎 原口さんのアトリエで STRAY SHEEPのなぞを考える

三四郎が、よし子と一緒に野々宮さんの下宿に行ったとき、野々宮さんから、よし子の見合い話が出ました。

 

翌日、三四郎は国から届いた金を持って学校に出て、与次郎から、美禰子が絵のモデルとして毎日通っている画家の原口さんの住所を聞き出します。

 

広田先生を病気見舞いに訪れますが、先客があり、辞して原口さん宅へ向かいました。

日が経っているように感じますが、よし子の縁談を聞いた翌日の出来事です。

 

本文は青空文庫から引用しました。

 

「かけたまえ。――あれだ」と言って、かきかけた画布《カンバス》の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はただ、

「なるほど大きなものですな」と言った。原口さんは、耳にも留めないふうで、

「うん、なかなか」とひとりごとのように、髪の毛と、背景の境の所を塗りはじめた。三四郎はこの時ようやく美禰子の方を見た。すると女のかざした団扇の陰で、白い歯がかすかに光った。

 それから二、三分はまったく静かになった。部屋は暖炉《だんろ》で暖めてある。きょうは外面《そと》でも、そう寒くはない。風は死に尽した。枯れた木が音なく冬の日に包まれて立っている。三四郎は画室へ導かれた時、霞《かすみ》の中へはいったような気がした。丸テーブルに肱《ひじ》を持たして、この静かさの夜にまさる境に、はばかりなき精神《こころ》をおぼれしめた。この静かさのうちに、美禰子がいる。美禰子の影が次第にでき上がりつつある。肥《ふと》った画工の画筆《ブラッシ》だけが動く。それも目に動くだけで、耳には静かである。肥った画工も動くことがある。しかし足音はしない。

 静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。団扇をかざして立った姿そのままがすでに絵である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写しているのではない。不可思議に奥行きのある絵から、精出して、その奥行きだけを落として、普通の絵に美禰子を描き直しているのである。にもかかわらず第二の美禰子は、この静かさのうちに、次第と第一に近づいてくる。三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで双方《そうほう》がぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。原口さんの画筆《ブラッシ》はそれより先には進めない。三四郎はそこまでついて行って、気がついて、ふと美禰子を見た。美禰子は依然として動かずにいる。三四郎の頭はこの静かな空気のうちで覚えず動いていた。酔った心持ちである。すると突然原口さんが笑いだした。

「また苦しくなったようですね」

 女はなんにも言わずに、すぐ姿勢をくずして、そばに置いた安楽椅子へ落ちるようにとんと腰をおろした。その時白い歯がまた光った。そうして動く時の袖とともに三四郎を見た。その目は流星のように三四郎の眉間《みけん》を通り越していった。

 

 

本物の美禰子が第一、絵の美禰子が第二です。

そして、「三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで双方《そうほう》がぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。」とあるのですが、ここはちょっと何言ってるかわからない。

「時の流れが急に向きを変えて永久の中に注いでしまう。」とはどういうことでしょうか。

本物の美禰子に内面の異変が生じて、絵の中の美禰子と乖離してしまうという意味でしょうか。

 

原口さんが結婚に関する話題を出します。

 

「それから、どうなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思ったものか、まだあとをつけた。

どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たまえ、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会の原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね

「でも兄は近々《きんきん》結婚いたしますよ」

「おや、そうですか。するとあなたはどうなります」

「存じません」

 三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑った。原口さんだけは絵に向いている。「存じません。存じません――じゃ」と画筆《ブラッシ》を動かした。

 

 

原口さんは突然、結婚についてのエピソードを語ります。そして、結婚は考え物だ、広田先生も野々宮さんも、里見恭助も、自分も結婚していない、女が偉くなりすぎると独身が増えると言います。

三四郎もこのグループに所属しています。

美禰子は、兄の結婚を話したため、原口さんにあなたはどうなると問われ、「存じません」と答えています。

当然、美禰子のこの答えは事実ではありません。

 

 

三四郎はこの機会を利用して、丸テーブルの側を離れて、美禰子の傍へ近寄った。美禰子は椅子の背に、油気《あぶらけ》のない頭を、無造作に持たせて、疲れた人の、身繕いに心なきなげやりの姿である。あからさまに襦袢《じゅばん》の襟《えり》から咽喉首《のどくび》が出ている。椅子には脱ぎ捨てた羽織をかけた。廂髪《ひさしがみ》の上にきれいな裏が見える。

 三四郎は懐に三十円入れている。この三十円が二人の間にある、説明しにくいものを代表している。――と三四郎は信じた。返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。思いきって、今返そうとするのもこれがためである。返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、いっそう近づいて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。

 

 

美禰子が貸してくれた三十円が、唯一の紐帯になってしまっているにもかかわらず、三四郎は、美禰子が近づいてくると期待しています。

 

「里見さん」と言った。

「なに」と答えた。仰向いて下から三四郎を見た。顔をもとのごとくにおちつけている。目だけは動いた。それも三四郎の真正面で穏やかにとまった。三四郎は女を多少疲れていると判じた。

「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」と言いながら、ボタンを一つはずして、内懐《うちぶところ》へ手を入れた。

 女はまた、

「なに」と繰り返した。もとのとおり、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎はどうしようと考えた。やがて思いきった。

「このあいだの金です」

「今くだすってもしかたがないわ」

 女は下から見上げたままである。手も出さない。からだも動かさない。顔も元のところにおちつけている。男は女の返事さえよくは解《げ》しかねた。

 

中略

 

画筆はまた動きだす。背を向けながら、原口さんがこう言った。

「小川さん。里見さんの目を見てごらん」

 三四郎は言われたとおりにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いてガラス越しに庭をながめている。

「いけない。横を向いてしまっちゃ、いけない。今かきだしたばかりだのに」

「なぜよけいな事をおっしゃる」と女は正面に帰った。原口さんは弁解をする。

「ひやかしたんじゃない。小川さんに話す事があったんです」

「何を」

「これから話すから、まあ元のとおりの姿勢に復してください。そう。もう少し肱を前へ出して。それで小川さん、ぼくの描いた目が、実物の表情どおりできているかね」

 

 

 

美禰子は疲れているように見えます。三四郎が声を掛けても反応が鈍い。

美禰子の目を見るようにと言う原口さんに機嫌を悪くする美禰子。

三四郎に悟られたくないことが美禰子の内面にあるのです。

 

 

「こうやって毎日描いていると、毎日の量が積もり積もって、しばらくするうちに、描いている絵に一定の気分ができてくる。だから、たといほかの気分で戸外《そと》から帰って来ても、画室へはいって、絵に向かいさえすれば、じきに一種一定の気分になれる。つまり絵の中の気分が、こっちへ乗り移るのだね。里見さんだって同じ事だ。しぜんのままにほうっておけばいろいろの刺激でいろいろの表情になるにきまっているんだが、それがじっさい絵のうえへ大した影響を及ぼさないのは、ああいう姿勢や、こういう乱雑な鼓《つづみ》だとか、鎧《よろい》だとか、虎《とら》の皮だとかいう周囲《まわり》のものが、しぜんに一種一定の表情を引き起こすようになってきて、その習慣が次第にほかの表情を圧迫するほど強くなるから、まあたいていなら、この目つきをこのままで仕上げていけばいいんだね。それに表情といったって……」

 原口さんは突然黙った。どこかむずかしいところへきたとみえる。二足《ふたあし》ばかり立ちのいて、美禰子と絵をしきりに見比べている。

「里見さん、どうかしましたか」と聞いた。

「いいえ」

 この答は美禰子の口から出たとは思えなかった。美禰子はそれほど静かに姿勢をくずさずにいる。

「それに表情といったって」と原口さんがまた始めた。「画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ見世《みせ》を出しているところを描くんだから、見世さえ手落ちなく観察すれば、身代はおのずからわかるものと、まあ、そうしておくんだね。見世でうかがえない身代は画工の担任区域以外とあきらめべきものだよ。だから我々は肉ばかり描いている。どんな肉を描いたって、霊がこもらなければ、死肉だから、絵として通用しないだけだ。そこでこの里見さんの目もね。里見さんの心を写すつもりで描いているんじゃない。ただ目として描いている。この目が気に入ったから描いている。この目の恰好《かっこう》だの、二重瞼《ふたえまぶた》の影だの、眸《ひとみ》の深さだの、なんでもぼくに見えるところだけを残りなく描いてゆく。すると偶然の結果として、一種の表情が出てくる。もし出てこなければ、ぼくの色の出しぐあいが悪かったか、恰好の取り方がまちがっていたか、どっちかになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだからしかたがない」

 原口さんは、この時また二足ばかりあとへさがって、美禰子と絵とを見比べた。

「どうも、きょうはどうかしているね。疲れたんでしょう。疲れたら、もうよしましょう。――疲れましたか」

「いいえ」

 

 

原口さんの言う、一定の表情が今日の美禰子には出てこないのです。

なぜ、「きょうはどうかしている」と原口さんに言わせるほどの変化が美禰子に会ったのでしょうか。

それは、三四郎が登場したからです。次では、三四郎が美禰子の異変に気づきます。

 

 

三四郎はこの画家の話をはなはだおもしろく感じた。とくに話だけ聞きに来たのならばなお幾倍の興味を添えたろうにと思った。三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話のうえにもない、原口さんの絵のうえにもない。むろん向こうに立っている美禰子に集まっている。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那《せつな》に、捕虜《とりこ》にして動けなくしたようである。変らないところに、長い慰謝がある。しかるに原口さんが突然首をひねって、女にどうかしましたかと聞いた。その時三四郎は、少し恐ろしくなったくらいである。移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたからである。

 なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。色光沢《いろつや》がよくない。目尻《めじり》にたえがたいものうさが見える。三四郎はこの活人画から受ける安慰の念を失った。同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考えついた。たちまち強烈な個性的の刺激が三四郎の心をおそってきた。移り行く美をはかなむという共通性の情緒《じょうしょ》はまるで影をひそめてしまった。――自分はそれほどの影響をこの女のうえに有しておる。――三四郎はこの自覚のもとにいっさいの己を意識した。けれどもその影響が自分にとって、利益か不利益かは未決の問題である。

 その時原口さんが、とうとう筆をおいて、

「もうよそう。きょうはどうしてもだめだ」と言いだした。美禰子は持っていた団扇《うちわ》を、立ちながら床の上に落とした。椅子にかけた羽織を取って着ながら、こちらへ寄って来た。

「きょうは疲れていますね」

「私?」と羽織の裄《ゆき》をそろえて、紐《ひも》を結んだ。

「いやじつはぼくも疲れた。またあした天気のいい時にやりましょう。まあお茶でも飲んでゆっくりなさい」

 

 

疲れていますねと何度も指摘されても、「いいえ」、「私?」ととぼける美禰子。

おそらく三四郎が登場したときから、何らかのものを感じ取って、美禰子の内面は、混乱や悔恨、恨みが渦巻いていたことでしょう。

原口さんは美禰子の異状を察知し、何度も声を掛けたのです。

 

三四郎は、自分が美禰子の変化に影響を与えていることをやっと察知します。これまでも何度か気づく機会はあったのに、自覚するのが遅すぎました。

三四郎が美禰子と向き合えたときには、美禰子の愛情を失っていた。皮肉なすれ違いです。

  

美禰子は、結婚を決めてしまった。しかも、つい昨夜のことです。よし子が野々宮さんに言われた結婚話を、よし子は即、断りましたが、その夜、美禰子は、帰宅したよし子からその話を聞いたはずです。

相手が美禰子の兄の友人ということもあり、その夜のうちに里見家では結婚話が進んだことでしょう。

このあと、美禰子は相手の男と、兄と会って、結婚話が決まるはずです。

三四郎の運命が決定された夜 美禰子が結婚 STRAY SHEEPのなぞを考える

 

美禰子から金を借りた後の三四郎について見ていきます。

「精養軒の会」(広田先生の後援会のようなもの)に参加した帰り 与次郎からの話です。

 本文は青空文庫から引用しました。

「笑わないで、よく考えてみろ。おれが金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りることができたんだろう

 三四郎は笑うのをやめた。

「それで?」

「それだけでたくさんじゃないか。――君、あの女を愛しているんだろう」

 与次郎はよく知っている。三四郎はふんと言って、また高い月を見た。月のそばに白い雲が出た。

「君、あの女には、もう返したのか」

「いいや」

「いつまでも借りておいてやれ」

 

 

 

田舎に送金依頼をする三四郎。すると野々宮さんから呼び出しがあります。田舎の母は、三四郎ではなく、野々宮さんにお金を送って来ました。

 

与次郎との会話です。

 

 

ベルが鳴って、二人肩を並べて教場を出る時、与次郎が、突然聞いた。

「あの女は君にほれているのか」

 二人のあとから続々聴講生が出てくる。三四郎はやむをえず無言のまま梯子段《はしごだん》を降りて横手の玄関から、図書館わきの空地《あきち》へ出て、はじめて与次郎を顧みた。

「よくわからない」

 与次郎はしばらく三四郎を見ていた。

「そういうこともある。しかしよくわかったとして、君、あの女の夫《ハスバンド》になれるか

 三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女《かのおんな》の夫《ハスバンド》たる唯一《ゆいいつ》の資格のような気がしていた。言われてみると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。

「野々宮さんならなれる」と与次郎が言った。

「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」

 三四郎の顔は彫りつけたようにまじめであった。与次郎は一口、

「知らん」と言った。三四郎は黙っている。

「また野々宮さんの所へ行って、お談義を聞いてこい」と言いすてて、相手は池の方へ行きかけた。三四郎は愚劣の看板のごとく突っ立った。与次郎は五、六歩行ったが、また笑いながら帰ってきた。

「君、いっそ、よし子さんをもらわないか」と言いながら、三四郎を引っ張って、池の方へ連れて行った。歩きながら、あれならいい、あれならいいと、二度ほど繰り返した。そのうちまたベルが鳴った。

 

 

与次郎のせいで、美禰子から金を借りることになった三四郎。

与次郎はそれを恩に着せますが、一方で、三四郎に「夫としての資格」を持ち出し、美禰子を諦めさせようとします。与次郎は、三四郎の本気(?)を感じ取ったのでしょうか。さらに、「いっそ、よし子さんをもらわないか」とすすめます。

言うまでもなく、よし子は美禰子の当て馬、三四郎の結婚相手にふさわしい女性です。

この与次郎とのやりとりは、美禰子を失う伏線となっています。

 

 

三四郎はその夕方野々宮さんの所へ出かけたが、時間がまだすこし早すぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、シャツを買いに大きな唐物屋《とうぶつや》へはいった。小僧が奥からいろいろ持ってきたのをなでてみたり、広げてみたりして、容易に買わない。わけもなく鷹揚《おうよう》にかまえていると、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た。あらと言って挨拶をしたあとで、美禰子が、

「せんだってはありがとう」と礼を述べた。三四郎にはこのお礼の意味が明らかにわかった。美禰子から金を借りたあくる日もう一ぺん訪問して余分をすぐに返すべきところを、ひとまず見合わせた代りに、二日《ふつか》ばかり待って、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送った。

 手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分をすなおに表わしたものではあるが、むろん書きすぎている。三四郎はできるだけの言葉を層々《そうそう》と排列して感謝の意を熱烈にいたした。普通の者から見ればほとんど借金の礼状とは思われないくらいに、湯気の立ったものである。しかし感謝以外には、なんにも書いてない。それだから、自然の勢い、感謝が感謝以上になったのでもある。三四郎はこの手紙をポストに入れる時、時を移さぬ美禰子の返事を予期していた。ところがせっかくの封書はただ行ったままである。それから美禰子に会う機会はきょうまでなかった。三四郎はこの微弱なる「このあいだはありがとう」という反響に対して、はっきりした返事をする勇気も出なかった。大きなシャツを両手で目のさきへ広げてながめながら、よし子がいるからああ冷淡なんだろうかと考えた。それからこのシャツもこの女の金で買うんだなと考えた。小僧はどれになさいますと催促した。

 二人の女は笑いながらそばへ来て、いっしょにシャツを見てくれた。しまいに、よし子が「これになさい」と言った。三四郎はそれにした。今度は三四郎のほうが香水の相談を受けた。いっこうわからない。ヘリオトロープと書いてある罎《びん》を持って、いいかげんに、これはどうですと言うと、美禰子が、「それにしましょう」とすぐ決めた。三四郎は気の毒なくらいであった。

 

 

美禰子宅でのやりとりや、展覧会での言動から、美禰子は三四郎のことを見切っています。

逆に三四郎は、まだ美禰子の態度に期待をしています。相手の気持ちがわかっていないのです

この後は、三四郎が美禰子に取った態度の報いを受けることになっていきます。

 

ヘリオトロープという香水の名前を覚えておきましょう。

ヘリオトロープは、バニラに似た甘い香り、花言葉は「献身的な愛」「夢中」「熱望」

https://hananokotoba.com/heliotrope/を参照しました)

 

この後、兄に呼ばれているというよし子と連れだって、野々宮さんの下宿へ行く三四郎。

母からの金を受け取り、よし子に縁談話があることを聞きます。

野々宮さんのところから帰って下宿で運命を考えます。

 

 下宿の二階へ上って、自分の部屋へはいって、すわってみると、やっぱり風の音がする。三四郎はこういう風の音を聞くたびに、運命という字を思い出す。ごうと鳴ってくるたびにすくみたくなる。自分ながらけっして強い男とは思っていない。考えると、上京以来自分の運命はたいがい与次郎のためにこしらえられている。しかも多少の程度において、和気|靄然《あいぜん》たる翻弄《ほんろう》を受けるようにこしらえられている。与次郎は愛すべき悪戯者《いたずらもの》である。向後もこの愛すべき悪戯者のために、自分の運命を握られていそうに思う。風がしきりに吹く。たしかに与次郎以上の風である。

 

 三四郎は母から来た三十円を枕元《まくらもと》へ置いて寝た。この三十円も運命の翻弄が生んだものである。この三十円がこれからさきどんな働きをするか、まるでわからない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受け取る時に、また一煽《ひとあお》り来るにきまっている。三四郎はなるべく大きく来ればいいと思った。

 三四郎はそれなり寝ついた。運命も与次郎も手を下しようのないくらいすこやかな眠りに入った。すると半鐘の音で目がさめた。どこかで人声がする。東京の火事はこれで二へん目である。三四郎は寝巻の上へ羽織を引っかけて、窓をあけた。風はだいぶ落ちている。向こうの二階屋が風の鳴る中に、まっ黒に見える。家が黒いほど、家のうしろの空は赤かった。

 三四郎は寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。その時三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。三四郎はまた暖かい蒲団《ふとん》の中にもぐり込んだ。そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた。

 

 

故郷から送ってきた金を美禰子に返しに行く、その時に美禰子との間に何か進展があるのではと期待する三四郎。

でも、美禰子の気持ちは離れてしまっています。今さら何を、と思いますが、三四郎のひとりよがりな点が現れています。

夜中の火事の中で三四郎の運命が決定されています。当然それは、美禰子の結婚です。

 

広田先生を病気見舞いに行くと先客があり、辞して原口さん宅へ美禰子に会いに行きます。

美禰子は原口さんの絵のモデルをしているのでした。

 

美禰子の告白を拒む三四郎 破局の原因は?STRAYSHEEPのなぞを考える

美禰子に誘われて、展覧会についてきた三四郎。絵のことがわからず、美禰子と会話にならない中、決定的な出来事が起こります。

ここは「三四郎」の最大の山場ではないでしょうか。

本文は青空文庫から引用しました。

 

それでも好悪《こうお》はある。買ってもいいと思うのもある。しかし巧拙はまったくわからない。したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。

 美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合いがない。話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないところに愛嬌《あいきょう》がある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。

 長い間外国を旅行して歩いた兄妹《きょうだい》の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。

「ベニスでしょう」

 これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片《きれ》とをながめていた。すると、

「兄《あに》さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。

「兄さんとは……」

「この絵は兄さんのほうでしょう」

「だれの?」

 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。

「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」

 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色《けしき》をかいたものが幾点となくかかっている。

「違うんですか」

「一人と思っていらしったの」

「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、

「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

 

 

せめて共通の趣味でもあれば、美禰子と打ち解けることができたのに。

残念なことに三四郎は、絵がさっぱりわかりません。美禰子の言葉に、機械的に反応するだけ。おまけに、兄妹である画家の区別すら気づかないのです。

これでは美禰子はがっかりしてしまいます。教養の差、趣味の違い、関心を持つ世界の違いがあるために、二人が近づくことができないのです。

 

しかし、美禰子はそれにもかかわらず、「向こうから三四郎の横顔を熟視していた」のです。

美禰子宅で金の貸し借りをめぐっての気まずいやりとりがあり、展覧会に来るまでの道中でも会話がなく、何ら美禰子の琴線に触れてこなかった三四郎。

そんな木石のような三四郎に対し、熱い視線で見つめる美禰子。

言わずもがなですが、美禰子は三四郎に惚れているのです。

気づけよ、三四郎!

 

 

「里見さん」

 だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。

 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう挨拶《あいさつ》をしている。野々宮は三四郎に向かって、

「妙な連《つれ》と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。

 

 

 

声を掛けた原口さんのうしろに野々宮さんがいることに気づいた美禰子は、三四郎の耳元に何かささやきます。

三四郎は聞き取れませんでした。

美禰子のこの行動は、決定的な意味がありました。

もう少し先を見ましょう。

 

 

 

 

「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。

「まだ」

「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐《デナー》には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。

「せっかく来たものだから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」

 三四郎はええと言った。

「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見《ふかみ》さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」

「ありがとう」

 

 

 

原口の誘いを辞退して、三四郎と残って絵を見ると答える美禰子。

次の二人のやりとりに注目してください。

 

 

「これもベニスですね」と女が寄って来た。

「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。

「さっき何を言ったんですか」

 女は「さっき?」と聞き返した。

さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」

 女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。

「用でなければ聞かなくってもいいです」

「用じゃないのよ」

 三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただ男女《なんにょ》二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

「わかったでしょう」

 美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。

「野々宮さんを愚弄《ぐろう》したのですか」

「なんで?」

 女の語気はまったく無邪気である。三四郎は忽然《こつぜん》として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。

「あなたを愚弄したんじゃないのよ」

 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。

「それでいいです」

「なぜ悪いの?」

「だからいいです」

 女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子《ひょうし》に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。

「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。

「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足《げそく》を受け取って、出ると戸外は雨だ。

 

 

美禰子が三四郎の耳元でささやいたのは、野々宮さんに、三四郎と仲のよいところを見せて、三四郎を好きであることを知らせるものでした。

三四郎が、美禰子との関係を考えるとき、野々宮さんの存在を意識して動けないでいることをよく知っているのです。

野々宮さんに知らせる意味よりも、三四郎自身に、あなたのことが好きだとわからせるためなのです。

ところが、三四郎は、それがわからず、野々宮さんを愚弄したと言い出す始末です。

美禰子を見下ろし、「いいです」と言って、怒ってしまう。

三四郎は、あの汽車で出会った女の事を思い出しています。三四郎が愚弄されたと思って赤面した相手です。

美禰子にも愚弄されたと思い込んでしまったのでしょう。

かわいそうな美禰子は、小さい声で「ほんとうにいいの?」と確かめます。

 

「精養軒へ行きますか」

 美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。

「あの木の陰へはいりましょう」

 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

「悪くって? さっきのこと」

「いいです」

「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」

 女は瞳《ひとみ》を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟《ひっきょう》あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼《ふたえまぶた》の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、

「だから、いいです」と答えた。

 雨はだんだん濃くなった。雫《しずく》の落ちない場所はわずかしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、

「さっきのお金をお使いなさい」と言った。

「借りましょう。要《い》るだけ」と答えた。

「みんな、お使いなさい」と言った。

 

 

 

雨の中、三四郎に近寄り、気持ちを確かめようとする美禰子。

美禰子の弁解は、野々宮さんを愚弄するためではなく、三四郎のことを思ってやったことだというものです。

三四郎は、美禰子の瞳の中に、あなたのためにした事だという訴えを読み取ります。

今まで鈍感だった三四郎にしては、めずらしいことです。しかし、答えは「だから、いいです」というものでした。

美禰子の気持ちをくみ取るものではなく、拒絶するものでした。

自分の三四郎への気持ちを拒絶され、野々宮を愚弄したと誤解され、弁解しても硬い態度を突きつけられる。

美禰子は絶望的な気分になったことでしょう。

 

美禰子は、「さっきのお金をお使いなさい」「みんな、お使いなさい」と言うしかなかった。

美禰子からすれば、これは三四郎との手切れ金です。

愛を拒まれた美禰子が、三四郎に見切りをつけた瞬間だったのです。

 

なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。

私の見立ては、三四郎にとって野々宮さんは、自分の所属する世界の住人であり、先輩だからです。美禰子の言動は、自分が愚弄されたのと同じだと受け止めたのです。

美禰子をめぐって恋のライバルに位置する人ではなかったのです。

美禰子は先にも見たように、三四郎が野々宮さんを意識するあまり、美禰子に近づけないことを知っていました。野々宮の存在が三四郎の心にブレーキを掛けており、それを外す目的で、取った行動でした。

 

三四郎と美禰子では、重きを置く次元が違っていたのです。

三四郎には美禰子との恋よりも、広田先生や野々宮さんの属する学問の世界が大事であったのです。自分も将来、その世界で活躍する住人にならなければならないと思っているからです。

美禰子は、自分の情熱、本能、感情生活の方を重視していたのです。

求めているものが違うので、二人はすれ違いばかりで、結局、交わることがなかったのです。

この展覧会で、それがはっきりとした形になり、破局を迎えたということです。

 

三四郎に、美禰子の気持ちをくみ取れる度量があれば、こんな不幸なやりとりは回避できたことでしょう。

この場面は、美禰子が気の毒で、涙を禁じ得ません。

STRAY SHEEPの文字通り、当てもなくさまよう三四郎と美禰子

美禰子の家を辞し、付いて出てきた美禰子と当てもなく歩く三四郎。

 本文は青空文庫から引用しました。

 

 二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあいだ三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通の女性《にょしょう》以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義だから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。

 そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。

「どこへいらっしゃるの」

「あなたはどこへ行くんです」

 二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。

「いっしょにいらっしゃい」

 

 

 

1町は109メートル。半町は50メートルほどです。その間、無言で歩く二人。気まずいはずですが、三四郎の頭の中は、美禰子への不信感にあふれています。

わがままに育ったに違いないとか、家庭にいると、やりたい放題するだろうとか、こうして男と出歩くのも田舎ではとてもできないことだとか。

三四郎には、美禰子への反感があるとしか考えられません。

自分で勝手に気を悪くして、相手に非があると決めつける、何ともこだわりの強い性格が表れています。

イプセンなんて考えている場合ではないぞ、三四郎。

こんな性格で、ちゃんと学問ができるのかしらんと思います。

 

二人で微妙に歩を合わせながら、どこに向かっているかもわからない。

二人とも文字通り、「STRAY SHEEP」迷える羊状態です。

ようやく美禰子が、どこへ行くのかと尋ねます。笑った美禰子が、先導します。

 

 

 

 

二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、

「お願い」と言った。

「なんですか」

「これでお金を取ってちょうだい」

 三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座|預金通帳《あずかりきんかよいちょう》とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。

「三十円」と女が金高《きんだか》を言った。あたかも毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津《とよつ》まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要の金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。

 

 

「お願い」「これでお金を取ってちょうだい」と美禰子が下手に出て、三四郎に提案します。

与次郎が三四郎から借りている金額は、二十円です。与次郎が美禰子にいくら借りたいと言ったのかはわかりませんが、美禰子は十円多い額を三四郎に預けます。

 

 

すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、

「丹青会《たんせいかい》の展覧会を御覧になって」と聞いた。

「まだ見ません」

「招待券《しょうたいけん》を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」

「行ってもいいです」

「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」

「原口さんが招待券をくれたんですか」

「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」

「広田先生の所で一度会いました」

「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子を稽古なさるんですって」

「このあいだは鼓《つづみ》をならいたいと言っていました。それから――」

「それから?」

「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」

「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質《たち》である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。

 三四郎はまた隠袋《かくし》へ手を入れた。銀行の通帳《かよいちょう》と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間にはさんでおいたはずである。しかるに女が、

「お金は」と言った。見ると、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った。中から手ずれのした札をつかみ出した。女は手を出さない。

「預かっておいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑のような気がした。しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。

 

 

おそらく美禰子は、三四郎が訪問した時から丹青会の展覧会へ一緒に行こうと決めていたのでしょう。きれいな着物に着替えていたことからわかります。

ところが、三四郎は勝手に気を悪くして帰ると言い出したので、美禰子は、自分も外出するのでと言って、三四郎に付いてきました。

さらに、金を渡し、展覧会まで誘うという、美禰子のけなげな努力に三四郎は気付くべきでした。

それもわからず、「いささか迷惑」「妙な女だ」と思うのです。これでは、美禰子に対し、ひど過ぎです。

 

三四郎の訪問で、愛を確認したかった美禰子は、それが実現せず、三四郎がどうでもいいというお金を渡すことになる。

三四郎は美禰子の態度から判断したいと思うが、美禰子の思いをくみ取れずに、愛を受け入れないで、どうでもいいというお金を受け取ることになる。

二人に介在するのは愛ではなく、お金になってしまった、皮肉な場面です。