bluesoyaji’s blog

定年後の趣味、大学入試問題の分析、国語の勉強方法、化石採集、鉱物採集、文学、読書、音楽など。高校生や受験生のみなさん、シニア世代で趣味をお探しのみなさんのお役に立てばうれしいです。

「三四郎」夏目漱石 を読んで考えた 「STRAY SHEEP」その2 宿屋での女

今回は「三四郎」の山場(?)のひとつ、女と宿屋に同宿する場面です。

前回見たように、女と話す機会を失った三四郎ですが、今度は女から話しかけられます。三四郎の対応に注目しましょう。

 

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宿屋での女

1及び腰になって、顔を三四郎のそばまでもって来ている。三四郎は驚いた。

2女はようやく三四郎に名古屋に着いたら迷惑でも宿屋へ案内してくれと言い出した。一人では気味が悪いからと言って、しきりに頼む。

3なにしろ知らない女なんだから、すこぶる躊躇したにはしたが、断然断る勇気も出なかったので、まあいいかげんな生返事をしていた。

 

女に対し、慎重だが、「断る勇気も出ない」点から、三四郎が受身的であることがわかります。

三四郎の好みである女性に同宿を頼まれる、その状況に三四郎は自分の意志を発揮しません。僥倖を喜ぶというわけでもなく、迷惑だから拒絶するわけでもない。

この優柔不断なところが、読者には「うぶ」でよいのかも知れません。三四郎が「イケイケ」だったら興ざめするでしょう。この作品自体が破綻してしまうかも。

 

手頃な宿屋を見つけてはいります。

4上がり口で二人連れではないと断るはずのところを、(中略)やむを得ず無言のまま二人とも梅の四番へ通されてしまった。

5もうこの夫人は自分の連れではないと断るだけの勇気が出なかった。

 

宿の人に、同伴でないと断る機会を失い、二人連れと思われ、同部屋に入ります。

「勇気が出ない」という三四郎の本領(?)が発揮されています。

この後の展開が見物(読みどころ)です。


6三四郎は着物を脱いで、風呂桶の中へ飛び込んで、少し考えた。こいつはやっかいだとじゃぶじゃぶやっていると、廊下に足音がする。
7例の女が入り口から、「ちいと流しましょうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、「いいえ、たくさんです」と断った。
8しかし女は出て行かない。かえってはいってきた。そうして帯を取り出した。三四郎と一緒に行を使うと見える。別に恥ずかしい様子も見えない。
9三四郎はたちまち湯船を飛び出した。そこそこにからだをふいて座敷へ帰って、座蒲団の上にすわって、少なからず驚いていると、下女が宿帳を持ってきた。

 

どうでしょう、女は完全に三四郎に好意を抱いており、三四郎の自分への並々ならぬ関心もわかっている。夫も子どももいる女は、完全に三四郎を食ってしまっています。

(旧制)高等学校を卒業し、帝国大学(東京大学)に入学する三四郎の知性や教養は高くても、人生経験は女のほうがはるかに上回っています。

 

三四郎のこの場面から、「高野聖」を連想しました。

泉鏡花「高野聖」(明治33年)に若い修行僧が、山奥の谷川で、美しい女性に身体を流してもらうという場面があります。

「高野聖」では、その「お嬢様」に欲情した男は、牛や馬や猿や蟇、蝙蝠に姿を変えられてしまうと言います。

三四郎は、女の誘いに驚き、逃げ出してしまいました。

 

10すると女は「ちょいと出てまいります」と言って部屋を出て行った。三四郎はますます日記が書けなくなった。どこへ行ったんだろうと考え出した。

列車が遅れて名古屋に止まることになったのを実家に知らせるために、女は電報でも打ちに行ったのでしょうか。それとも…いろいろ想像させられます。

 

11「失礼ですが、私は癇性で人の蒲団に寝るのがいやだから少し蚤よけの工夫をやるから御免なさい」
12三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布の余っている端を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして布団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。
13その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。

 

これは子供じみた振る舞いに思えます。女との間に心理的な壁を設けることで、女からの誘いや、女に身をゆだねてしまう自分の性欲に、歯止めをしたつもりでしょう。

三四郎の体面か、自己抑制力か、人生経験の不足か。いろいろな解釈ができておもしろい場面です。

「手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった」という記述が窮屈な三四郎の心情を語っています。

 

 

14女はにこりと笑って、「昨夜は蚤は出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「ええ、ありがとう、おかげさまで」というようなことをまじめに答えながら、下を向いて、お猪口の葡萄豆をしきりに突っつきだした。

 

翌朝の女の言葉は、皮肉にも聞こえます。三四郎のきまり悪そうな様子もいじらしく感じられます。

 

そして、駅での別れの場面。衝撃の一言。

15ただ一言、「さよなら」と言った。女はその顔をじっとながめていた、が、やがておちついた調子で、「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言って、にやりと笑った。
16三四郎はプラットフォームの上はじき出されたような心持ちがした。車の中へはいったら両方の耳がいっそうほてりだした。しばらくはじっと小さくなっていた。

 

なんとも三四郎が気の毒になる場面です。正義感か道徳心か、とにかく三四郎を抑えていたものが、この女の一言で、木っ端みじんに吹き飛んでしまいます。

恐るべし、女の一言。

 

ここには意気揚々と、東京大学に進学する前途ある青年の姿はなく、大きな失敗をやらかして、自分の弱点を見事に指摘され落ち込む青年の姿が示されます。

 

しかし、まだ序の口です。このあと東京では、もっと手強い女性に出会うことになります。

 

つづく(予定)

「三四郎」夏目漱石を読んで考えた「STRAY SHEEP」

夏目漱石「三四郎」を読んで考えたことを書いていきます。

今なぜ、漱石「三四郎」なのかというと、米津玄師さんの新譜のタイトルが「STREY SHEEP」だからです。

ストレイシープと言えば、漱石、三四郎。

この世界が大変な中で、米津さんが、なぜ「ストレイシープ」というメッセージを発するのか。そのヒントは、漱石「三四郎」の中にあるはずだと考えたからです。

 

1908年(明治41年)に発表された、百年前の小説が、現代のアーティストで、若者だけでなく幅広い世代から絶大な支持を受ける米津さんの心をなぜとらえるのか。

全くわかりませんが、三四郎を読み解くことで、その謎の一端にでも近づければおもしろいのではないかと思います。

 

1、汽車の女

九州から上京する三四郎が、汽車で同席になった女。

女の記述で気になる箇所を挙げていきます。

 

1乗ったときから三四郎の目についた。第一色が黒い。

2この女が車室にはいって来た時は、なんとなく異性の味方を得た心持ちがした。

3けれども、こうしてみると、お光さんのようなのもけっして悪くない。

4ただ顔立ちからいうと、この女のほうがよほど上等である。

5それで三四郎は五分に一度ぐらいは目を上げて女の方を見ていた。時々は女と自分の目がゆきあたることもあった。

6三四郎は鮎の煮びたしの頭をくわえたまま女の後ろ姿を見送っていた。

7三四郎はともかくもあやまるほうが安全だと考えた。「ごめんなさい」と言った。女は「いいえ」と答えた。まだ顔をふいている。三四郎はしかたなしに黙ってしまった。

 

1~6を見ると、女は三四郎が好むタイプの女性であり、三四郎は並々ならぬ関心を寄せていることがわかります。

旧制高等学校を卒業した三四郎の年齢は、二〇代前半、宿帳には二三歳と記入します。

女性に対して、気恥ずかしくて声も掛けられない青年、ではありません。

じゅうぶんに、女を意識していることがよくわかります。

 

6の弁当のおかずをくわえたまま、女の後ろ姿を見るという描写からは、三四郎のちょっと間抜けた様子がうかがえます。

気になっている女に、自分から話しかけることはしません。

 

三四郎は弁当がらを汽車の窓から投げ捨て、女にそれがあたってしまいます。

現代では仰天もののこの場面では、そんなつもりはなかったとはいえ、三四郎が女に迷惑をかけています。

ある意味で、女への関わりが出来ました。

 

自分の行為が他人に害を与えたとき、三四郎は、「あやまるほうが安全」と考え、「ごめんなさい」と言います。

ここからは、素直で率直なひとがらが読み取れます。

まあ、これであやまらないなら、よほどのへそ曲がりか、鼻持ちならぬ高慢な人ですが。

 

三四郎は、黙り込んで、目をつぶってしまいます。

逆縁によって女と対話することになりながら、その機会は続きません。しかし…

 

つづく(予定)

 

 

現実主義と無常感の両立へ 21世紀の感染症と文明 山崎正和 を読んで考えた

現実主義と無常感の両立へ

21世紀の感染症と文明 山崎正和 を読んで考えた

 

第4章 最終章です。

現実主義と無常感の両立へ

23日本人の美徳が国難に勝ち、無事に最終局面を迎えられるかはわからない。コロナの後に、どんな世界を残さねばならないかが課題である。


24 十四世紀のペスト流行の結果、西洋社会は封建時代の終わりを準備した。人口減により、労働生産性を高めて産業近代化への道を開いた。
同じ程度の変化が起こるとは考えがたい。世界は緊急の問題を抱えていることが暴露された。


25それはグローバル化である。これがコロナの防御に何の役にも立たなかったことは明白だ。民衆を守ったのは国家であり、自衛のために一国主義的に働く国家である。


26今後の人類はグローバル化の暴走に慎重になり、巨大グローバル企業に批判的になるだろう。


27国家が急ぐべきことは、未来世代との平等問題であり、巨大な借財の処理である。そのためには思い切った所得税改革や海底資源の国有化もよいだろう。


28現実の課題以上に重大なのは、国民の世界観の転換だろう。現代は疫病が社会を揺るがすことはないという通念が近代的な傲慢にすぎなかったことを思い知らされた。


29現代も古代や中世に直結しており、文明の進歩と呼べる飛躍はなかった。人類は、文明を進歩させるという迷信は諦めるべきだ。


30今後の日本人は、このように考えを改めるだろうし、そうあってほしいのが私の願いだ。今回の経験が、伝統的な日本の世界観、無常感の復活に繋がってほしい。
無常感は健全な思想であり、感傷的な虚無主義ではない。現実変革に知恵と技を発揮しながら、それを無常と見明きらめる醒めた感受性である。


31「いろは歌」を通じて学んだ真実が今、共有されつつある。

 

感想

グローバル化が後退するのは、その通りだと思います。

ある種の鎖国が、この21世紀に行われるとは想像すらできませんでした。

 

大学や高校などの教育現場でも、グローバル化は絶対的な命題になっていた感がありました。

その見直しがどの程度まで行われるのか、全く予想できません。

 

経済の対策も、未来の世代への責任として必要でしょう。しかし、日本近海のレアアース採掘者に高額税をという提言は、首をかしげました。採算が取れないでしょうから。

 

さて、今回の論文の眼目は、28~31です。

近代的な世界観、進歩主義は迷信であり諦めるべきだという主張は、ある意味、過激です。

そして、今後の私たち日本人は、無常感を持つべきだと説きます。

 

その無常感とは、30段にあるように、「現実変革に知恵と技を発揮しながら、それを無常と見明きらめる醒めた感受性である」というものです。

この章のタイトルが「現実主義と無常感の両立へ」とあるとおりです。

最後に31段で、それは「いろは歌」の精神であることが示されています。

 

ウィキペディアによると、「いろは歌」は、「いろは歌を記した文献としては最古とされる『金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)は、承暦3年(1079年)の成立であることから、いろは歌は10世紀末から11世紀中葉までの間に成立したものとみられる。」とあります。

 

仏教的無常観が「いろは歌」の根本であることがわかります。

これを現代の私たちが学ぶ機会を考えてみると、中学校か高校で、古文を学ぶときに、かなの成立や歴史的仮名遣いの学びとして、接することがほとんどです。

精神の中味まで深く学ぶ機会は、少ないのです、

 

「仏教的無常観」は「方丈記」や「徒然草」などの古文で触れることがありますが、「いろは歌」を通じて学んだ真実とまでは、言えないのではないでしょうか。

 

近代社会をくつがえすような感染症の流行に対し、中世以来の無常感で乗り越えるという山崎先生の論考は、非常にユニークであり、示唆に富むものです。

 

ただ、一点の異を唱えるならば、「仏教」という語を用いていないところにあります。

中世以来の仏教的無常観が「いろは歌」のベースであるのは、先に見たとおりです。

山崎先生は、あえて「仏教」という言葉を使わなかったのでしょうか。

さらに、現代は、無常観を学ぶ機会がほとんどないことも考慮しなければなりません。

 

逆に、この「21世紀の感染症と文明」を読むことで、無常感に注目し、新たに学ぶ人が増える効果があるともいえるでしょう。

 

 

 

 

半世紀の公徳心向上の成果 21世紀の感染症と文明 山崎正和 を読んで考えた

21世紀の感染症と文明 山崎正和 を読んで考えた

 

第3章です。

半世紀の公徳心向上の成果


18「緊急事態宣言」後の日本人は、外出自粛や自主休業など、その自制心は特記に値する。企業の在宅勤務や零細自営業者の休業も自ら行われている。


19日本人の良識と自制心は、長い歴史を持つ。公徳心は東京オリンピックを迎える1960年代前半、行政の努力によって街からゴミが消えた。


20日本人の社会感覚が変わり、美と倫理の基準が芽生え直したのは1970年代初めである。「モーレツからビューティフルへ」という標語を実現するものになった。


21経済成長の内容は、量産一点張りからデザインやコンセプト重視へと移った。商品デザインの多様化が進み、文化産業への傾倒が強まった。


22身辺を美しくすることに関心が移るとともに、行いを美しくするようになった。その頂点として、ボランティア活動が不動の風習となったのが一九九五年一月である。

 

感想

1960年以降の日本人の意識の変容が書かれています。

私は1960年代生まれなので、この記述内容にあるとおり、社会の変化を実感してきました。

この半世紀でずいぶん日本人の公徳心も向上したことがわかります。

その頂点が、阪神淡路大震災のボランティア活動であるという総括は、的確です。

 

山崎先生の記述内容からは離れますが、国の行政、政治家の働く姿勢という面から見ると、向上というよりも、むしろ、劣化が目につくように思います。

特に今回のコロナ危機に対する政府の取り組みは、多くの国民が不満と不安を抱いています。

国民の公徳心は向上した、そのおかげも有り、コロナの蔓延は防いでいるように思える。

しかし、その一方で国は、政治は、公徳心を発揮して、本来の目的を果たせているのだろうか…

 

こういったもやもや感がぬぐえません。

 

 

当面の恐怖と不安の特殊性  21世紀の感染症と文明 山崎正和 を読んで考えた

 21世紀の感染症と文明 山崎正和 を読んで考えた

続きです。今回は第2章にあたります。

当面の恐怖と不安の特殊性

 

8感染症は見えない敵のため、不安は倍加する。
9そのうえ、恐怖がいつまで続くか、先行きが見えないため焦燥を煽る。スペイン風邪は三波にわたり、コロナは、何波が襲来するかわからない。
10この災害が耐えがたいのは、対抗して「する」ことがないためだ。国民に要請されたのは、外出しないこと、出勤しないこと、営業しないこと、何かをすることの正反対である。
11欧米など諸外国の政府は、都市封鎖や外出者に罰金などの荒業を行ったが、日本の国民は自分の意志で何かを「しない」という決断を強いられた。
12目下働いているのは医療従事者と輸送や物流を支える人々である。一般国民は彼らの奮励や自己犠牲を見て、自分が何もしていない現実を思い知る。
13近代人は休むことが美徳であることはなかった。特に日本人は近代以前から勤勉で、休むことが奨励されたことはなかった。
14もう一つ、近年のボランティア活動の普及である。阪神淡路大震災以降に定着し、日本人の社会意識の大きな転換を反映した。何の縁もない被災者を救済した。
15これは日本人の新しい公徳心の目覚めと考える。しかし、今回は助けに行か「ない」ことが美徳とされる。国民は深いところで耐えている。
16政府もジャーナリズムも、コロナとの闘いをいいながら、負け戦のような有様に重点を置き、攻めの部分を十分に伝えないのは奇妙である。治療法と特効薬の発見については情報不足が著しい。
17日本人の糧になるのはワクチンの開発段階の情報である。

 

感想

阪神淡路大震災は、1995年。あの時、大勢のボランティアが、バイクや車や徒歩で被災地に駆けつけたことは、被災地に住んでいた私もよく覚えています。

山崎先生は、1995年まで大阪大学の教授をされていたので、阪神淡路大震災のことは、よくご存じなのでしょう。

 

阪神淡路大震災の時に、倒壊した家屋の下敷きになった人を救助したのは、自力で脱出が35%のほか、家族32%、友人や隣近所の人が28%、通行人2.6%、救助隊1.7%

内閣府防災情報のページより

http://www.bousai.go.jp/kaigirep/hakusho/h26/zuhyo/zuhyo00_02_00.html

つまり、プロに助けられた割合は、1.7%しかなく、ほとんどが、家族、隣近所、通りすがりの他人に助けられています。

国内でボランティアの機運が高まる以前に、被災地では、他人が人命を助けるという行為を行っていたことになります。

 

山崎先生の言う「日本人の新しい公徳心の目覚め」が、コロナによって、後退するのではないでしょうか。

 

今回のコロナには、ボランティアが活躍できないという点でも、特殊性があります。

子ども食堂が開けなくて困っているというニュースがありました。同様の事例は全国中に見られるのでしょう。

 

逆に、自粛警察と言われる、ゆがんだ正義感によるボランティア(?)は、活発に活動しています。

 

また、感染者の少ない自治体が、都市部からの帰省や来訪を拒むという事例が多発しました。

コロナを恐れる心情は理解できますが、地方と都市部の分断につながるのは、残念です。

私も半年以上、一人暮らしの親のもとに帰省できていません。

県外ナンバーの車に投石やあおり、傷付けなどが多発した県なので、帰省するのもはばかれるなあと思案しています。

 

ボランティア活動の制限、都市住民と地方在住者の分断がコロナ後の日本の社会の特徴であるなら、「歴史の転換点を刻印するものになる可能性が十分ある」ものかもしれません。

 

 

21世紀の感染症と文明 山崎正和 中央公論ダイジェスト コロナ・文明・日本 を読んで考えた   

21世紀の感染症と文明 山崎正和 中央公論ダイジェスト コロナ・文明・日本 を読んで考えた 

 

中央公論7月号に掲載された山崎正和先生によるコロナの論考を読みました。

コロナに対するとらえ方が、大変参考になったので、自分の勉強のためと、みなさんへの紹介もかねて、数回に分けて掲載します。

 

今回は第1章。

まずは、形式段落の要旨です。

通し番号は形式段落ごとに、私が付けました。

 

世界史的な時間への復帰

1コロナウイルス肺炎の蔓延は歴史的事件である。

一つは画期的な惨事として未来の文明に影響を残す点。

もう一つは近代人の傲慢に冷や水を浴びせ、過去の文明への復帰を促す点である。

2近代化により、人びとは昔とは別世界にはいったと妄信したが、悪疫の流行による惨事はこの傲慢をあざ笑った。中世のペストや日本の瘧(熱病)と違いがない。今回のウイルスは逃げ場がないという意味では前近代と同じである。

3現代人の不安と恐怖は、中世人より過酷である。中世は死が日常にあって、人びとはそれに耐える感性を備えていた。

4民衆は信仰心も強く無常感も身につけていた。

5現代人は死から目を背ける習慣を養ってきた。特に第二次世界大戦後の日本人は、長寿社会で死を直視する強靱さを失ってきた。コロナによる死者の数を知り、死が他人事ではない恐怖を深く感じている。

6パンデミックの記録はあまり記憶されていない。スペイン風邪は日本人だけでも39万人の死者を出したが、容易に忘れられたのは、第一次世界大戦の終末期だったからだ。人心が人間の死に慣れ、平和の興奮に湧いていたからであった。

7二〇年後、第二次世界大戦も起こり、スペイン風邪は歴史的記念碑とはならなかった。

新型コロナ肺炎は独特であり、歴史の転換点を刻印するものになる可能性が十分ある。

 

考えたこと

 

コロナについては、マスコミでは自然科学の専門家の独壇場となっていますが、人文科学の専門家の出番はないのでしょうか。

 

いや、むしろ人文科学の知見が求められる出来事だと考えます。

 

コロナウイルスの蔓延を考えるとき、過去のパンデミックと比べる論が見られます。

以前の記事で紹介した、こちらもそうでした。

 

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 私たちは、スペイン風邪から教訓を学べていなかったことは指摘通りです。

 

東北大震災でも、「三陸海岸大津波」吉村昭 で過去の大津波の詳細なルポルタージュがありましたが、備えができていませんでした。

 

私たちは、平和な生活に麻痺してしまい、パンデミックや大災害などは、無縁のものと思い込んでいたのかも知れません。

 

その現代人の弱点を突いて、今回のコロナウイルスの蔓延は、発生しました。

 

当然、今までの社会のあり方や個人の生き方では通用しないものがどんどん出てきます。

山崎先生は、過去の日本人のあり方を引用して論じています。

 

ひとつ気になったのは、日本人の「無常感」というように、「無常観」ではない「感」を使っていることです。

 

形式段落4で、「無常感」が使われています。

「観」とは違うことを強調しているのかと思いましたが、文脈から考えて、ここは「観」ではないかと思うところもあります。

厳密に校正しているはずなので、間違いではないでしょうが、かなり気になりました。

 

 

 

共通テスト 試行問題 国語 第2回 第2問(著作権法の問題) 評論を解いて考えた 受験勉強の参考にどうぞ

共通テストが予定通り実施されることになりました。

休校期間が長かったので、受験生のみなさんは特に、共通テストへの不安や心配が強いと思います。

そこで、高校の国語教師が問題を解いてみました。少しでも参考になれば幸いです。

 

試行問題は、大学入試センターが公表しています。リンク先はこちら

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 

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第1問の記述は見送られたので、第2問、評論にあたる問題を解きました。

資料Ⅰと資料Ⅱ、文章の3つを読ませる問題です。

ここでは、文章を取り上げ、段落の要旨をまとめました。文頭の番号は、本文につけられた番号です。

 

1著作者は最初の作品を実体に載せて発表する。これを「原作品」と呼ぶ。 

2著作権法は、原作品に存在するエッセンスを引き出して「著作物」と定義する。 

それは記録メディアからはがされた記号列である。 

著作権の対象は原作品ではなく、記号列としての著作物である。 

3著作権法の対象は(記号列としての)著作物だが、物理的な実体へと及ぶ。 

4著作物は、原作品が壊されても盗まれても存続する。 

5著作物は、テキストに限っても、多様な姿に及ぶ。 

表1の定義に最も適合するのは叙情詩、なじみにくいものが理工系論文、新聞記事になる。これらは表1から排除される要素を多く含む。 

6著作権法の著作物の定義は叙情詩をモデルにしたものである。著作権の扱いや侵害の有無も叙情詩モデルを通している。 

7だが、無方式主義の原則があるため、著作権法は叙情詩モデルでは排除されるようなものまで著作物として認めることになる。 

8叙情詩モデルの意味を確かめるため、特性を表2として示す。 

9表2はテキストについて表1を再構成したもの。叙情詩型のテキストの特徴は、私が自分の価値として一回的な対象を主観的に表現したもの。理工系論文は、誰かが万人の価値として普遍的な対象を客観的に着想や論理や事実を示すもの。 

10叙情詩型のテキストは、表現の希少性が高く、著作物性は高い。 

11(理工系論文は)著作物性は低く、著作権法のコントロール外へはじき出される。 

このテキストの価値は内容にある。それは着想、論理、事実、アルゴリズム、発見である。 

12多くのテキストは、叙情詩と理工系論文とのスペクタルのうえにある。 

13表2からどんなテキストでも「表現」と「内容」とを二重に持っているといえる。著作権法は、前者に注目し、表現の持つ価値の程度によって、その記号列が著作物であるか否かを判断するものである。 

14著作権法は、テキストの表現の希少性に注目し、それが際立つものほど、濃い著作権を持つと判断する。 

15著作物に対する操作は、著作権に関係するものを著作権の「利用」と言う。多様な手段があり、まとめると表3になる。 

16表3以外の操作を著作物の「使用」と呼ぶ。これには著作権法ははたらかない。 

17使用のなかには、書物の閲覧、建築への居住、プログラムの実行が含まれる。 

18 著作権法は「利用/使用の二分法」も設けている。これがないと、コントロールが過剰になり、正常な社会生活まで抑圧してしまう。

 

出典は、名和小太郎

『著作権2.0 ウェブ時代の文化発展をめざして』NTT出版ライブラリーレゾナント 2010年

 

いかんせん、10年前の本なので、著作権法の最新の情報ではなく、あくまで著作権法の概念を扱ったものです。読んでみて、少し古さを感じます。

文体も生硬で、今の高校生には読みづらい文章です。続きを読んでみたいとは思いませんでした。

逆に、出来具合に差を付ける入試問題としてはふさわしいのかも知れません。

 

では、問1漢字から。本文の傍線部と同じ漢字を含む選択肢から選ぶスタイル。

合致、適合、両端、閲覧、過剰

どれも難しくはありません。全問正解できるはずです。

 

問2傍線A「記録メディアから剥がされた記号列」とはどういうものか、資料Ⅱを踏まえて考えられる例を選ぶ、というもの。

資料Ⅱは、著作権法の抜き出しです。

複数の資料を読ませて考えさせるという共通テストのお約束問題です。

文章の2段落から、「エッセンス」、「記号列としての著作物」

資料Ⅱ第二条一から「思想又は感情を創作的に表現したもの」

これらに注目して選択肢を見ると、4「作曲家が音楽作品を通じて創作的に表現した思想や感情。」が正解だとわかります。

問3 【文章】における著作権法の説明として適切なものを選ぶ。

選択肢を吟味していきます。

①「利用」が、「使用」の間違いです。15段落から。これはX。

②11段落で、外へはじき出されるとあるが、7段落で無方式主義の原則があり、除外されるとはいえないので、X。

③14段で二分法の考えが示されているが、訴訟では、より叙情詩型なのか、より理工系論文型なのかの判断によって決められるとある。相対的なものなので、「明確な判断を下す」がX。

④著作物性という考え方は10段、11段で説明されている。それを踏まえると、遺伝子のDNA配列も保護できるがX。

⑤13段落14段落の内容から〇。

選択肢の微妙な言い回しを判断しなければいけない点がやや難しい。

とにかく、本文から根拠になる部分をしっかり探すこと。

 

問4 「表2は、具体的な著作物ーテキストーについて、表1を再構成したものである」とあるが、その説明として適切なものを選ぶ。

資料Ⅰ、資料Ⅱがある上に、文章の中に表1、表2、表3が加わるのは、ややこしすぎや!

どれだけ複数資料好きやねん!との突っ込みを入れながら解きました。

 

「これが文科省の目指す、新しい国語の姿なのか(心の中)」

 

さて、気を取り直して、選択肢の吟味を。

表2は、9段、10段、11段、12段の要旨を見ると、著作物性の程度を示したものと考えられます。相対的な尺度、もの差しのようなものといえます。

①「排除されるもの」の定義をより明確にしている、がX。

②二つの特性を含むものを著作物とするがX。

③著作物の多様な類型を網羅するがX。

④5段落から表1の説明は〇。表2の説明も「著作物性の濃淡」とあるので〇。

⑤類似性がXですね。

 

問5 表現の説明として適当でないものを選ぶ。はい、よくあるケアレスミスに注意しましょう。「適当でないもの」に傍線を引いておきす。自分の脳に、しっかりと認識させましょう。

①「ー」は直前の語句を強調し、主張に注釈を加える働きを持つとあるが、これがX。

「ー」の後は、記録メディア、複製物など、直前のものの具体例です。したがってこの①が正解です。

後の吟味は省略します。

そもそも、この「文章」には表現の特徴を問うような要素は少ないです。冒頭で言いましたが、生硬な文章なので、表現の豊かさはありません。

無理矢理問題を作った感じがします。

受験生は、限られた時間内で、②以降の選択肢の内容も吟味することになるので、はっきり言うと無駄な問題です。

 

問6 資料Ⅰの空欄にあてはまるものを3つ選ぶ。ここで資料Ⅱを読み、第三十八条が関係していることに注目します。

②楽団の営利を目的としていない演奏会であること、は「営利を目的とせず」と合致するので〇。

④観客から一切の料金を徴収しないこと、は「聴衆又は観衆から料金を受けない場合は」と合致するので〇。

⑥演奏を行う楽団に報酬が支払われないこと、は「実演家~に対し報酬が支払われる場合は、この限りではない(上演できないの意味)」なので、〇。

 

この設問は簡単です。もっと資料Ⅱのあちこちを探さないと解けないのかと思いましたが、そうではありませんでした。作問上の制限から、こんなに簡単になったのだと思われます。

 

まとめ

解いてみたみなさんは、出来具合はどうでしたか?

時間制限がある中でこの問題内容であれば、かなり難しいと思います。

論理的な思考力ではなく、資料を渉猟する眼力(本当の視力)が必要な問題です。

どこに何が書いてあったのかを見やすく印し付けをすることが必要ですね。

新学習指導要領を先取りした問題が、なぜ今の高校生たちに出題されるのか大いに疑問ですが、「論理国語」と聞いても、そんなに心配しなくてよいと思います。

なぜなら、論理力を求められているのではなく、情報処理力を求める問題だからです。

複数の資料を読み解き、関連性のある問題に対する解答を発見する、これは、まさに情報処理能力そのものです。

いくつかこの手の問題を解き慣れていく必要はあります。そうすることで、情報の処理パターンが身につくと思います。それで共通テストを乗り切れるなら、たいしたことないではありませんか。

 

今回は、著作権法の理解という題材でしたが、これが、たとえば、ラグビーのルールブックだったり、ロールプレイングゲームの設定だったりしても同じなのです。

ルールを理解し、それをある場面設定では、どう適合させるか、それと同じ力を問われているように思います。

スポーツやゲームのルールなら、高校生のみなさんはお手の物ですね。

共通テストは、それと同じ頭の使い方を求めるものと言ってよいでしょう。

恐れる必要はありません。

 

 

 

 

異常巻きアンモナイト、プラビトセラスをクリーニングしてみた

今回クリーニングしたのは、プラビトセラスというアンモナイトの化石です。

淡路島の西淡町、和泉層群から見つかったもの。

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白亜紀後期カンパニアン期(およそ7~8000万年前)

淡路島でよく出るディディモセラスというアンモナイトの塔状部を低くする方に進化したものが、このプラビトセラスと考えられているそうです。

表紙のイラストを参考にしてください。

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(「和泉層群の化石」徳島県立博物館1991より)

徳島県では鳴門市でも見つかっているので、探しに行きたいと思っています。


S字状に巻いた奇妙な形態は、異常巻きのアンモナイトの中でも、特に目を引きます。そのファンタスティックな存在感は群を抜いて、アンモナイトの真打ちといってよいでしょう。


この標本は、淡路島で行われた採集会に参加した際に、その道の先輩から譲っていただいたものです。
そのときの採集会では、りっぱなプラビトセラスが2体も出てきました。

ベテランの化石を探す目は本当にすごいなと感心しました。いい化石を見つける目を私も身につけたいです。

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この化石は、周囲の風化がひどくてもろいのですが、中心は固い泥岩です。平たがねが欠けてしまいました。

クリーニングを始めた頃は、おそるおそる削っていき、何時間も掛けて、数ミリしか削れない程度の進み具合でした。


今は、タガネをハンマーでがんがん打ち付けて、大胆に削るようになりました。

何度も失敗をして化石にひびが入ったり、割れてしまったりを繰り返すうちに、慣れてきたからでしょう。

 

instagramに動画をあげています。こちらからどうぞ。

https://www.instagram.com/p/CBFwai1DAxK/?igshid=1iqkk6vh74y2f

 

この化石は巻きの部分だけですが、数千万年前の海をS字型の殻を持って泳ぎ回っていた姿を想像すると、愉快な気分になります。 
 

ベランダで化石のクリーニング 家で出来る趣味 白亜紀の化石

外出を控えて、ひたすら家に引きこもる毎日です。

週末の休日に、ベランダで化石のクリーニングをしました。

嫌なことを忘れてひたすら石をたたくという単純作業です。

気がつくと一時間ぐらいは過ぎています。

 

まずは、徳島県の石から。

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立川層の上部で採集した植物片です。

割ると、一枚の葉が出てきました。

おそらく1億年以上前のものですが、そこら辺に生えている草のように思えます。

 

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この石はフズリナ化石を含んだもの。羽ノ浦層の基底岩だそう。白い紡錘形が石の穴の中に入っています。不思議な印象。

 

 

次は和歌山県の石です。

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母岩が大きく固いので、小割になりました。

石の表面に残るこの化石、イノセラムス(二枚貝)だと思っていたのですが、巻いているようにも見えます。

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北海道のアンモナイトのノジュール。これは購入したもの。

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大きなアンモナイトが新鮮な色を見せて埋まっています。

北海道のアンモナイトはリアルな姿で保存されていて、本当にすごいです。美しい。

クリーニングの勉強になります。

 

アンモナイトが続きます。

これは徳島県の石。羽ノ浦層から採集。ネジのような部分がアンモナイトです。

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形がイレギュラーで、異常巻きと呼ばれています。

サイズは小さいですが、これも1億年前に生きていたアンモナイトです。

小さなフォルムが愛くるしい。個性的で魅力があります。

 

さて気がつけば、ベランダで蚊に襲撃され、耳たぶを両方刺されて真っ赤になって腫れていました。

初夏を思わせる陽気の中、大自然ではなく、都会のベランダで、1億年から7千万年前くらいの生き物と対話することが出来ました。

『パンデミックを生きる指針ー歴史研究のアプローチ』 藤原辰史 を読んで考えたこと 特に高校生、大学生におすすめです

パンデミックを生きる指針ー歴史研究のアプローチ 藤原辰史

リンク先はこちらです

https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic

原文を必ず一読することをお勧めします。

ここでは理解の一助として、段落要旨をまとめてみました。

 

では、要旨を段落ごとに見ていきましょう。

各段落ごとの通し番号は、形式段落を中心として、私が便宜上、設定しました。

1起こりうる事態を冷静に考える

1人間は、目の前の危機よりも、遠くの希望にすがりたくなる。

2甚大な危機に接して思考の限界に突き当たると、楽観主義にすがり現実逃避する。為政者の楽観と空威張りをマスコミが垂れ流し、多くの国民が信じてしまうのは歴史の事実である。

3世界史は生命の危機であふれてきた。特に日本では、為政者の安易な希望論、道徳論、精神論が国民の判断力を鈍らせてきた。

4歴史研究者は、虚心坦懐に史料を読む技術を持つため、過去の類似現象を参考に、すがりたくなる希望を冷徹に選別することができる。

2国に希望を託せるか

1新型コロナウイルスは世界を分断している。日本の首都では感染者が急増している。健康のみならず、国家、家族、未来への信頼を打ち砕く。

2危機が迫ると人びとは、自分の思考を放棄し、リーダーに委任しようとする。情報を隠すことなく、異論に寛容で、きちんと後世に文書を残し、過ちを部下に押しつけず、ウイルスと戦う最前線の人たちの不安を除去し、少数意見を弾圧しないリーダーであれば、人びとは納得する。

3ところが、日本政府やそれに類する海外の政府は、上記の条件をすべて怠ってきた。

4その上、「緊急事態宣言」で基本的人権を制限する機能を与えてしまった。為政者が自分の都合で宣言を活用した例は世界史にあふれる。

 

3家庭に希望を託せるか

1家庭に生死を決める重荷がのしかかる。経済基盤、育児環境も改善しないので、家庭が安全という保証はない。

2子どもにとって家庭は安全な存在か。7人に1人が貧困状態にある日本で、経済状況の差を広げた政策のつけが回ってくる。

3フランスでは家庭内暴力が増加した可能性があるが、日本も同様である。

4家族が機能不全なら地域に頼るしかない。しかし、弱い立場にある人を支える場所が、ウイルスの影響で機能不全に陥っている。

5現時点で大災害が起こると、地域の避難所は感染の温床になってしまう。

 

4スペイン風邪と新型コロナウイルス

1新型コロナウイルスが拡散する今、参考にすべき歴史的事件はスペイン風邪である。1918年から1920年まで、3度の流行を繰り返し、世界中の人々を恐怖に陥れた。ウイルスが原因であり、国を選ばず、地球規模で、巨大な船で集団感染し、初動に失敗し、デマが飛び、著名人が多数死亡など、状況が似ている。

2当時はウイルスを分離する技術が確立されておらず、医療技術は現在のほうが有利、人口が17億と75億の現在では過去が有利、多くのメディアが情報を大量に発信し、WHOも存在するが、どちらが有利か。

3百年前は、これまでにないほどの人の移動があった。第一次世界大戦のため、インフルエンザが流行っていたアメリカから多数の若い男が輸送船でヨーロッパに渡った。ヨーロッパにはアジアから多くの労働者が来ていた。アジアにも感染が広がり、日本人も40万人が亡くなった。

4インフルエンアが広まった理由は、戦争中の衛生状態や栄養状態が悪かったことだ。

5現代の人の移動の激しさは当時の比でない。飛行機で動くツーリストの動きは桁違いだ。

5スペイン風邪の教訓

 1クロスビー『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック』を参考にする。

2感染の流行は一回では終わらない。スペイン風邪は3回の波があった。二回目が致死率が高かった。ウイルスは変異する。新型コロナウイルスも絶対に油断してはいけない。

3体調が悪いとき無理したりさせられたりすることが感染を広げ病状を悪化させた。日本の職場の体質はマイナスにしか働かない。

4医療従事者へのケアがおろそかになってはならない。患者の命がかかっていると、自分が無理しても助けようとする。日本の看護師たちは低い賃金のまま体を張って戦っていることを忘れてはならない。

5政府が戦争遂行のため情報提供を制限し、マスコミもそれに従った。これが爆発的流行の大きな原因である。

6スペイン風邪は、世界大戦よりも多くの死者を出したが、歴史的な検証がなされなかった。データを残し、歴史的に検証できるようにしなければならない。危機脱出後、権力や利益を手に入れようとするものが増えるだろう。人類はウイルスと共生していくしかない運命にある。

7政府も民衆も、感情で理性が曇らされる。

8現在も疑心暗鬼が心底の差別意識を目覚めさせている。欧米でのアジア人差別や政治家の人間としての品性の喪失が国際的な協力を邪魔する。

9アメリカでは清掃業者がインフルエンザにかかり、町中にごみがたまった。都市の衛生状況を悪化させる。

10為政者や官僚も感染し、行政手続きが滞る。

6クリオの審判 

1本当に怖いのはウイルスではなく、ウイルスに怯える人間だ。不測の事態に対するリスクへの恐怖が高まり、個別生体管理型の権威国家や自己中心主義的なナルシズム国家がモデルとなるかもしれない。世界の秩序と民主主義国家は本格的な衰退を見せていくかもしれない。

2消毒サービスが流行し、恐怖鎮静化商品の市場価値が生まれ、潔癖主義に取りつかれ、有用な細菌やウイルスの絶滅危機、体内微生物相の弱体化、免疫系等への悪影響に晒されるかもしれない。

3 消毒文化の弊害や、あるウイルスを体内に共生させ他の病原菌から守る可能性の喪失、さらに、潔癖主義が人種主義と結びつき、ナチスの事例のようになると厄介である。

4世界史では一度も危機の反省から未来への指針を生み出したことがない。今回こそ指針を探ることはできないか。

5うがい、手洗い、歯磨き、洗顔、換気、入浴、食事、清掃、睡眠という日常の習慣を奪ってはいけない。戦争がこの習慣を奪ってきた。仕事が忙しくても、基本的な予防を実践することを上司が止めず、自ら進んでやること。

6組織内、家庭内の暴力や理不尽な命令に対し、異議申し立てをすることを自粛しない。

7災害や感染で簡単に中止や延期ができないイベントに国家が精魂を費やすことは、税金と時間の大きな損失となる。基本的な精神に立ち戻り、シンプルな運営に戻ること。

8経済のグローバル化の陰で戦争のような生活を送ってきた弱い立場に追いやられた人に、新型肺炎の飛沫感染がどんな意味を持つかを考える。この危機は、生活がいつも危機にある人にとっては日常である。新型コロナウイルスがこれらの人々に甚大で長期的な影響を及ぼすことが予測できる。

9立場にあるにもかかわらず、情報を抑制したり、的確に伝えなかったりする人たちに異議申し立てをやめない。情報の制限が一人の命を消すこともある。コロナウイルスに関する記事を無料にするのはメディアの社会的責任である。

10日本はパンデミック後も生き残るに値する国家なのかどうか、歴史の女神クリオに試されている。いかに、人間価値の根切と切り捨てに抗うかである。いかに、魔女狩りや弱い者への攻撃をする野蛮に打ち勝つかである。

11武漢で封鎖の日々を綴り公開した作家、方方は基準はただ一つ、弱者に対する態度であると喝破した。

12危機の時代は、隠されてきた人間の卑しさと日常の危機を顕在化させる。「しっぽ」の切り捨てと責任の押し付けでウイルスを「制圧」したと奢る国家は、パンデミック後の世界では、恥ずかしさのあまり崩れ落ちていくだろう。

 

考えたこと

私自身、新型コロナウイルスに対して、どんな姿勢を保つのか、どう向き合うのか、まったくわかっていませんでした。

毎日、あふれくる情報に翻弄され、疲弊していたといってもいいでしょう。

仕事は、休校措置による出先の見えない状態が、延々と続いています。

専門家の科学的な統計すら、信用が揺らぐことがあります。

マスコミ報道の、コロナウイルスに関する脅威度も、二転三転し、それに接して一喜一憂する日々が続いています。

 

多くの人が恐怖と不安の中で生活しているのは間違いない。

そんな中で、めぐりあったこの「パンデミックを生きる指針―歴史研究のアプローチ」は、文字通りの「生きる指針」を与えてくれたように思えました。

 

人類は何度も同じような経験をしてきているが、そこからの教訓を生かせていないことは、地震や大津波の例を思い出すと、その通りだとわかります。

 

では、どうするか。

著者の言うように、私たちは歴史に学ぶことができます。

専門的な医学や統計学はわからない、まったくの文系人間である私でも、歴史から学ぶことは、むしろ得意です。読書し、思索するのは、文系の基本的な能力ですから。

 

「生きる指針」とは、ある意味「哲学」のことです。

このパンデミックに立ち向かう、哲学の言説をまだ見ていなかった私には、この「パンデミックを~」は、コロナに対峙する自分の哲学的立場(生きる指針)を目覚めさせてくれました。

ちょっと大げさな表現になりましたが、この「パンデミックを生きる指針」を読んで、多くの人が、思索し、コロナに対する精神の支柱を得られることを期待します。